雨音が呼んでいる



遠くのほうで、雨音が響いていた。
朝からずっと止まないそれは、この季節特有の気温を伴って、じっとりと纏わりつくような湿気をもたらした。
昼間はそれがどことなく憂鬱だったけれど、夕方になればその不快感も和らぎ、開け放した窓からは涼しい風が入ってくる。
その風を頬に受け、静かに世界を満たす雨音に私は暫く耳を傾けていた。
窓から見える空は時間の感覚を忘れさせるように暗く曇っていて、日暮れから夜に加速していく筈のオレンジと藍のグラデーションが見えることはなかった。
からん、と。手元の盆に乗せていたグラスの氷が音を立てる。
少しぼけっとしすぎていたらしい。2つあるグラスは仲良く汗をかき、盆を水滴が濡らしている。中のアイスコーヒーが薄くなっていなければいいんだけれど。
「おいもみ子」
ぎし、と木の板が軋む音と同時に声がかけられる。振り仰げば、3階からこちらに伸びる階段を危なげなく下りてくる1対の黒いブーツ、白い袴、同じ色の羽織。
「とりあえず応急処置はしといたぞ。暫くは雨漏りの心配もないだろ」
ポニーテールを揺らしながら、額にうっすら浮かぶ汗を拭って、暁さんは息を吐いて見せた。
「ありがとうございます!冷たいコーヒーを淹れたので、良かったらどうぞ」
「うむっ」
テーブルに水滴の付いたグラスを置くや否や、暁さんはどかっと椅子に腰掛けてそれを一気に飲み干した。その勢いにちょっとだけ驚いて、私は笑いながら自分の分のグラスとお茶請け用のクッキーを差し出した。
「今日は本当にすみませんでした。わざわざ浮島から来てもらっちゃって」
「おー、もっと詫びてもっと感謝しやがれ」
びしっと顔面に指を指され、顰めた顔と目が合った。
「いきなり電話してくるから何かと思ったら、雨漏りを直して欲しいってか。お前もいい度胸してるよな」
不機嫌そうにしているけれど、本当はそうじゃないことを知っている。目元と口元が、半ば呆れたようにちょっと笑っているのがわかるから。
「だって、こういうとき頼りになるような人、暁さんくらいしか思いつかなかったんですもん」
「……」
思ったことをそのまま口にすると、暁さんは言葉に詰まって微妙な表情になった。照れているんだろうな、と思う。
「ま、まぁオレ様は女子供に優しい紳士だからな!頼りにされたとあっちゃあ、見捨てるわけにもいかんだろ」
「はい、頼りにしてます」
「…………」
やっぱり照れているんだろう、口を変な形に歪ませて、切り返す言葉を捜すように目を泳がせる暁さんは、何だか少し可愛らしい。
こういうところは昔からずっと変わっていなくて、凄く安心する。
私とアリア社長しかいないアリアカンパニーは、アリシアさんがいてくれた頃に比べたら随分寂しくなってしまったけれど。
暁さんが訪ねてきてくれた時には、寂しさがどこかに飛んでいってしまったように賑やかで、そして温かくなる。
それがとても嬉しくて、私はこの人が此処に来てくれることを心待ちにしている。
それだけじゃ足りなくて、大した用事もないのに呼び立ててしまったり。ちょっぴり申し訳なくなるくらい。
それは今日も同じこと。
「あ、お礼に夕飯をご馳走しますね!何か食べたいものありますか?」
自分でもわかるくらい、楽しげな声が出る。大したものは作れませんが、とだけ添えて。
すると暁さんはすまなそうに眉を寄せて、苦笑して見せた。
「あー、悪いが、今日はもう帰らなくちゃならねぇんだ」
「え?」
「この後夜勤があるんだよ。言ってなかったか?」
聞いてなかったのか、聞き逃していたのか。どちらにしてもあまりに早いお別れに、見る見る自分の気分が萎んでいったのがわかる。
それを悟られる前に、急いで笑顔を取り繕った。
「そう、でしたっけ。すみません、私ったら」
暁さんは暫く私を見つめて、何か言いたげに口を少し開けていたけれど、結局何も言わずに少し目を伏せた。
「…じゃ、行くわ」
「はい。今日はわざわざすみませんでした。お礼はまた今度しますね」
私の突然の申し出を受けて、雨漏りの修理をするためだけに、浮島からここまでの距離を来てくれたこの人に最大限の感謝をこめて、深くお辞儀をする。
「おう、たっぷり礼させてやるから、覚悟しとけよ」
軽く笑いながらひらひらと手を振り、外へと出る扉にかつかつと歩き、壁に立てかけてあった大きな傘を手にとって、暁さんはドアを開けた。
遠くから聞こえていた雨音がさっきより鮮明になる。
行ってしまう。
「…あの!」
長く垂らした髪が振り向きざまに揺れ、きょとんとした顔がこちらを向く。
「途中まで、送っていきます」


雨音が世界を満たしている。
路地のすぐ横に広がる運河の黒々とした水面に細かく降り続く雨粒が吸い込まれ、他は石畳に跳ねて様々な音を立てる。
一番大きな音を生み出しているのは、私と隣を歩く人の傘。ぱらぱらと耳元で響く音に、どうしても集中してしまう。
それほどまでに無言だった。
暁さんが何も喋らないから、私も必然的に何も話さない。
もしかしたら、付いてこられるのが嫌だったのかもしれない。そう考えると、何だか言いようがないくらい悲しい気持ちになる。
「今日、アリア社長いなかったな」
突然かけられた声に、反射的に慌てた。
見上げても、傘が邪魔をして表情が見えない。
「あの、社長は、アリシアさんの家にお泊りに行っちゃいました」
水先案内人は雨が降ると仕事にならない。余程のことがない限りその日の予約は皆キャンセルになるし、街へ出てのお客探しもまず成功しない。
朝から雨が降り続く今日みたいな日は、どうしても暇になる。その暇を持て余しているアリア社長に、私がそう勧めたのだった。留守は私が守るから、と。
ふぅん、という気の無い返事。やっぱり表情が見えなくて、それが堪らなく不安だ。
「じゃあ、今日はお前一人だったのか」
どきりとする。
そして何となく言い訳を探してしまう。たまたま雨漏りに気づいたんです、だから電話したんです、一人が寂しくて呼んだわけじゃないんです。
それは口をついて出たわけではないけれど、傘越しに伝わってしまったようで少し怖い。
沈黙。雨音だけが耳を満たす。
決して嫌いじゃない。でも雨音だけなのは。
「子供の頃な。今日みたいな雨の日に、お袋も親父も兄貴もいなくて、一人で留守番してたことがあったんだよ」
突然切り出された昔話に、思わず目を丸くしてしまう。
暁さん、と声をかけようとしたけれど、まぁ聞けよ、と押し留められてしまった。
「そうしたら、家の中は誰もいないから当然何の音もしなくて。窓の外からはざーざー雨の音だけがしてて」
それは、さっきまでの私と同じ。
「その時何だか無性に、寂しくなっちまったんだよな」
心の真ん中の、柔らかいところを押された気がした。
何も言えず、気づけば私の足は歩みを止めて、ぴたりと立ち止まっていた。それに気づいて、暁さんも立ち止まる。
「で、そういう時の対処法は色々あるけどよ。一番いいのは」
そのままくるりとこちらに向き直り、私の傘をぐいっと持ち上げた。久方ぶりに目が合う。優しく笑っているその目と。
「誰か適当に探して、一緒に居てもらうことだ」
オレ様はその時ウッディーの家に転がり込んだな、と付け加えて。
ふと気づくと、傘を叩いていた雨音が止んでいた。
傘の外に手をかざす。湿った空気だけがそこに触れ、雨粒は感じられなかった。
「雨、止みましたね」
ぽつりと言う私の言葉に頷くと、暁さんは大きな傘をつぼめて水滴を振るった。
私もそれに倣ってお気に入りの傘の水滴を落とした。
お気に入り。雨が好きだったはずなのに。雨音だって好きだった筈なのに。
そうか、私は寂しかったんだなぁと。今更今日一日の自分の感情に名前が付けられて、やっとすとんと腑に落ちた気がした。
「オレ様は雨の日があんまり好きじゃねぇけどよ」
だってやりたいこと制限されちまうしな、と頬を掻く仕草。
「お前はこういう日のいい過ごし方、いっぱい知ってそうだよな」
ちょっと照れたように目をあさっての方向に泳がせて言う姿を、いつもなら可愛いと思いながら笑うのに。
何故だろう、今はただひたすら真摯な気持ちで、この人を見つめていた。
「雨の日は開店休業なのだろう?暇見つけたら遊びに来てやるから、せいぜいオレ様を楽しませろよ」
言い方は相変わらず横柄。でもとてもとても優しいその言葉。
私が寂しいと思うとき、いつも傍に居てくれる人。
「暁さん」
「あ?」
自分の言葉の恥ずかしさを噛み締めて堪えているような複雑な表情のまま、暁さんは呼びかけに応える。
「私、暁さんのこと、本当に本当に大好きです!」
「……はぁ!?」


水溜りに、やっと出てきた月が映りこんでいる。
それにブーツで飛び込めば、波紋と一緒に月明かりが揺らぐ。
自然と緩む口元で、大して長くも無い帰り道を辿る。
もうこの辺でいいから、と真っ赤な顔で追い返されてしまった。でも、全然悲しくも寂しくもない。
雨の日の過ごし方、どんなことが素敵だったっけ。
私は指を折りながら思いつく限りのことを考えて、次の雨の日を心待ちにした。
世界を満たす静かな雨音が、あの人を連れて来てくれる。
それが無性に嬉しくて、私はもう一度水溜りに飛び込んだ。
ぱしゃり、と派手な音を立てるそこには、ゆらゆら揺らぎながら、我ながら恥ずかしくなるほど嬉しそうな自分の顔が映りこんでいた。




2008.6.22up

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