真夜中メランコリア



ひんやりと、冷えた空気が辺りを満たしていた。
天窓を見上げると、黒い絵の具を落としたような闇。
そこに、小さな星の光が一面に煌いていた。
何も変わらない、ネオ・ヴェネツィアの冬の夜。
「…う〜ん…」
今夜何十回目かの寝返りを打って、灯里はうめいた。何故だか、なかなか寝付けない。
いつもはストンと落ちるように寝入ってしまうのだけれど、何故だか今日に限ってそれが出来なかった。
(何でだろう…別に明日に何かあるわけでもないし…)
もう一度寝返りを打っても、覚めてしまっている目は一向に重くならない。
明日ももちろんゴンドラの練習があるのだから、早く寝なければいけないことは重々わかっている。
わかっているけれど。
「…眠れない〜〜」
むくりとベッドから起き上がり、時計を見る。午前0時とちょっと。
はふ。溜息を一つ吐いて、伸びをする。
そして、温かいミルクでも飲めば少しは眠くなるだろうと、冷たい床に素足を付けたとき。
コンコン。
(――え?)
階下から、小気味良い、でも少し遠慮を感じる音が、辺りに響いた。
コンコン。
もう一度。
どうやら、誰かが玄関の戸を叩いているらしい。
きっと、この静寂の中でなければ気付かなかっただろう、微かな音。
(アリシアさんかなぁ…。でも、こんな遅くに?)
不思議に思いながら、灯里はカーディガンを引っ掛けて、早足で階段を降りていった。
コンコンコン。
ノックは更に続く。
今度は少し、苛立ちの色が滲んでいた。
「あわわ…今行きますーっ」
小声で、半ば独り言のように口の中で呟く。
気持ちは急いでいるのだが、何分暗くて視界が悪く、迂闊に走ったりは出来ない。
…明かりを点けるか何かすれば良いということは、完全に頭から抜けていた。
コンコンコンコン。
ノックの主の苛々が、次第に積もっていくのが易々と感じ取れる。
「え〜ん、もうちょっと待ってぇぇ〜」
情けない声を出しつつ、足取りははかどらない。
ドアの前にたどり着くまでに、ノックの回数は相当なものになっていた。
コンコンコン……ドン!!
部屋中が振動するような大きな音。
いよいよ我慢の限界に来たらしい音の主は、力任せにドアを叩くことにしたらしい。
それに慌てふためいて、灯里はあたふたと玄関のドアノブに手をかけた。
鍵を外し、ノブを回す。
僅かに開いた隙間から、冷たい夜風が吹き込んでくる。
「あの…どなたですか?」
と。
ガッ。
その隙間から侵入してきた手が、いきなりドア板を掴んだ。
(え、えぇーーーっ!?)
強盗。
または変質者。
その言葉が頭を過ぎって、灯里は自分の血の気が一気に引いていくのを感じた。
「だ、誰ですかぁぁぁっ!?か、帰って下さいぃぃーっ」
ドアを閉じてしまおうと必死にノブを引っ張るが、凄い力で引っ張り返されて、びくともしない。
「ふぇぇぇぇぇんっ!!アリシアさぁぁぁぁんっ!藍華ちゃぁぁぁぁぁんっ!!」
ほとんど混乱して、半泣きで腕に渾身の力を入れる。
それでもむしろ、ドアは外側に開き始めていた。
「か、帰ってぇぇぇぇぇぇぇっ!!!!」
「こ、こら!もみ子!!頼むから入れてくれっ!!!」
…はた。
聞き覚えのある声に、灯里は思わずノブから手を離した。
「どわっっ!!?」
当然、つかえの無くなったドアは力のかかっている方向に思い切りよく開く訳で。
ドタン!
「―――――〜っ痛ぅ…」
景気良く尻餅をついたらしいその人は、尻をさすりさすり起き上がり、涙目で灯里を睨んだ。
「何すんだもみ子!!!」
「あ、暁さん!?何で暁さんがここに!?」
驚きの余りに呆然としている灯里のもみあげが、ぐいっとばかりに引っ張られた。
そして、思いっきり顔を寄せられて、より一層のじと目とばったり目が合う。
「それよりまず、今の非礼を詫びろ…」
「ひぃぃっっ!ご、ごごごめんなさいごめんなさいーーーっ!!!」
あわあわと頭を下げる灯里の姿に満足したのか、暁は掴んでいたもみあげを解放する。
「全く、お前は接客もろくに出来んのか」
憮然と言う暁に、灯里は口を尖らせた。
「そ、それは、だって、あんなことされたら誰だってああしますよ!
 最初なんか、強盗か変質者かと思ったんですから――って」
ヤバい、口が滑った。と思うより早く。
「ほーぅ、貴様はオレ様を強盗や変質者のような野蛮な輩と勘違いしたわけか。ほーぅほーぅ」
再びもみあげを掴まれて、笑っているけれど微妙に笑っていない笑顔が近づけられる。
「か、髪の毛を掴まないで下さいぃ〜!もう、本当に怖かったんですからねぇ!?」
今も十分に怖いけれども。
「大体、こんな夜中にどうしたんですか?」
それは――
質問に答えようと口を開いた暁が、そのまま固まった。
「…ふ」
「…ふ?」
「――ふぇっくしょんっ!!」
特大のくしゃみの後、鼻をすすりながら彼は言った。
「……ひとまず、中に入れてくれ……」



「今暖炉に火を入れますから、それまで少し待ってて下さいね」
「おー…」
まだぐずぐずと鼻をすすりつつ、やる気なく応える声。
それにこっそり嘆息しつつ、灯里は薪を暖炉に放り込んだ。
マッチを擦って火種を燃やすと、暖炉の中に暖かな火が点っていく。
すると薄暗かった部屋が、柔らかな橙色でほのかに染まった。
「ほら、暁さん。もう少しこっちに来ないと寒いですよ」
「んー…」
渡した毛布を引きずりながら、暁は緩慢な動作で暖炉の傍に寄ってきた。
その様子を尻目に見ながら、キッチンへと向かう。
「ホットミルクでいいですか?」
「あー、もう温かいモンなら何でも良い!くれ!!」
何だか言い草が妙に彼らしくて、灯里は少し笑った。
ミルクを小鍋に満たして、火をかける。
そしてはたと思いついて、リビングへと顔を出した。
「――それで、どうしてこんな時間にここにいるんですか?」
あぁ、と今思いついたような声が上がる。
「そうなんだよ。まあ聞け、もみ子よ」
「…はぁ…」
鍋の様子を気にしながら、適当に相づちを打ってみる。
その呆れた調子には気付かないのか、暁は腹も立てずに話を続けた。
「オレはまぁ、野暮用でこっちに下りてきてたんだがな。その…折角だから、あ、アリシアさんに会いたいと思ってだな」
「………ま、まさか、暁さん…アリシアさんに夜這いを……?」
ずごしゃ。
遠巻きに暁を見つめる灯里に、当人は大コケする。
「だぁっ!違うわっ!!」
「違うんですか?」
「違うっつってるだろーが」
「…ちなみに言っておきますけど、夜はアリシアさん、自宅に帰ってますよ?」
「ふ…そんなことはとっくの昔に調査済みだ」
キラリと目を光らせて言う辺り、何だかなぁ、と思ったことは口には出さない。
「とにかく、だ。オレは、折角アリシアさんに会うのだったら、何かプレゼントを用意せねばと思った訳だ、もみ子」
「……はぁ…」
「で、ついついプレゼント選びに夢中になってしまってだな」
「…なってしまって?」
「今日がロープウェイの定期点検だってこと、すっかり忘れちまってた訳だ」
「――………」
「――気付いた頃にはもう、時計は8時を回っていた……」
ちなみに、定期点検のときの空中ロープウェイは、6時で運休である。
「…暁さん……」
「し、仕方ねぇだろ!!それほどオレ様のアリシアさんへの愛が深いってことなんだよ!!!」
心底呆れたような、哀れみのこもった視線を受けて、思わず暁はおおよそ言い訳とは言えないような弁明を叫ぶ。
少し顔が赤くなっている辺り、乗り遅れた事実がよっぽど恥ずかしかったらしい。
「そ、それで……今の時間まで、何を?」
そうこうしている内に十分に温まったミルクを二人分のカップに注ぎ、暖炉まで慎重に運びつつ聞いてみる。
しかし、その答えはなかなか返ってこない。
「…暁さん?あ、はい、これどうぞ」
何とか零さずにミルクを運びきり、その片方を暁に差し出して、ついでに顔を覗き込む。
その表情はいつにもまして不機嫌そうで、眉間に深く皺が寄っていた。
取り敢えず灯里は、彼の隣に腰掛けた。
暁は礼も言わずにカップに口をつけ、一口目を飲み込んでから、ようやく口を開いた。
「――だからオレは、地上の土地感なんてもんは全然持ち合わせてないって、前々から言ってたじゃねぇか」
…は?
言われたことの意味がいまいちピンと来ず、灯里は首をかしげた。
「あの、それって…」
「それでも、ホテルなんかに泊まる金は持ち合わせてないし、かと言って地上の知り合いの家なんてここ以外知らん」
「……まさか…」
彼が言わんとしていることを思いついて、おずおずと言ってみる。
「――――道に、迷ってた…?」
その一言に、一層眉根をぎゅっと寄せて、暁は思いっきりのしかめっ面で苦々しく頷いた。
「え、えぇーーーっ!?今までずっとですか!?こんな寒い中…4時間も!?」
「悪いか!!こっちの地理なんてさっぱりわかるかってんだ!!ここにだって何回も来てる訳じゃねぇんだから、そんなにほいほいたどり着けるか!!!しかも夜だぞ、夜!!!暗いってんだよ!!!つーか、むしろ今ここにいること自体奇跡だ!!この寒空の下、凍死するかとまで思ったぞっ!!!!」
もはや逆切れ同然に、ムキになって喚き散らす。
道理で、指先も耳も、真っ赤にかじかんでいた訳だ、と灯里は思った。
「あの…電話は…?」
「…あ?」
「電話……して頂ければ、迎えに行きましたけれど…」
………。
「…っあ゛〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!」
盛大に頭を抱え込んで、悔恨のうめき。
何だか言ってはいけないことを口にしてしまったようだな、と心の中で少し謝った。
「あー…そうだよな…電話か…電話…おのれ……」
中々ショックから抜けられないらしく、暁はぶちぶちと恨みがましく呪いの言葉を呟く。
…そういう仕草を、少しだけ可愛いと思ったら、怒られてしまうだろうか。
「――まぁ、いいじゃないですか。こうして無事、たどり着けたんだし」
にっこりと微笑んで、隣に在る顔を見つめる。
それに閉口して、暁はまだ不機嫌な顔で――僅かに頬を染めながら――そっぽを向いた。
「……まーな」
「?」
その照れの意味には全く気付かず、灯里はにこにことミルクに口をつけた。
口の中にやんわりとその温度が広がっていって、どこかほっとする。
「…はぁ〜。ホットミルクって、美味しいですよね」
幸せ顔の彼女にならい、暁も二口目のミルクを飲む。
「…うむ」
そして少し訪れる沈黙。
パチ、パチと、薪の爆ぜる音だけが辺りに響く。
とても静かで。
今この瞬間、自分たちしか存在していないような錯覚にさえ陥るような。

「…くしゅっ」
静寂を破ったのは、突然のくしゃみ。
それに思わず、暁は隣に視線を投げた。
さっきの誰かのように鼻をぐずぐず言わせて、灯里は照れ笑いをする。
「えへへ…暖炉をつけてても、やっぱり寒いですね」
言う通り、暖炉の前の空気は暖かでも、広い部屋全体にそれが行き渡るにはまだ時間が足りていないようだった。
少し上を向いて呼吸すれば、ひんやりとした冷気が肺に滑り込んでくる。
そういえば、パジャマにカーディガンを引っ掛けただけなんだから、寒いのは当たり前か。
そう思って、灯里は少しでも暖を取ろうと、僅かに暖炉に近づくよう身じろぎした。
「――……来るか?」
「へ?」
唐突な言葉に、間抜けな声を出してしまう。
見ると、暁がそっぽを向いて、包まっていた毛布を僅かに開かせていた。
それで初めて言われた意味がわかって、急速に顔に血が上っていく。
「え…あ…で、でででも……っ」
二階に別の毛布がありますから。
そう言う前に、向こうを向いている彼の耳が、さっきよりも赤くなっているのに、気付いて。
「――――はひっ」
少し強張った顔で、頬が火照っているのを感じながら、灯里は毛布の端っこを掴んだ。
そろそろと、それを捲ろうとする。
と。
ばさっ。
見兼ねたように、毛布が大きく開かれた。
そこに丁度空いている、一人分のスペース。
「…ん」
顔は絶対にこっちに向けないまま、ぶっきらぼうに言い放つ。
それに誘われるまま、灯里は恐る恐る、毛布と暁との間に入り込む。
肩と肩とが触れ合う。
頬の熱は引くどころか、ますます上昇してしまっていた。
「おい、寒いから毛布、早く閉めろっ」
言われて、慌てて毛布を引き寄せて、外気を遮断する。
すると、先ほど感じていた寒さが嘘のように、じわりとした温かさが身体に浸透してきて。
「……毛布、あったかいです」
「…そっか」
「――これが、暁さんのあったかさ、なんですよね」
ふふっ、と笑って、ぎゅっと毛布に肌を寄せてみる。
「………もみ子、恥ずかしいセリフ禁止」
「えぇー」
いつも通りのやり取りを交わす内、次第に恥ずかしさとか、そういう感情は薄れていって。
段々落ち着いて、そして耳を澄ませてみる。
自分の少し速めの心音が、トクン、トクンと響いていた。
この人の鼓動は、今どんな速さで鳴っているんだろう。
ぼんやりとそんなことを考えながら、灯里は軽く目を閉じた。
時たま忘れたように爆ぜる薪の音。
炎の温かさ。
そして、毛布の中の体温。
何故だかわからないけれど、口元が自然に綻んだ。
ちらりと盗み見た暁の顔は、少し照れくささを滲ませて、でも心地よさ気に暖炉の火を見つめていた。
もっと毛布の隙間を埋めようと手を持っていくと、何かに触れた。
彼の指。
(冷たい…)
ずっと寒い中歩きこんでいた所為か、暁の指先はまだかなり温度を失ったままだった。
深く考えることなく。
灯里はその手を自分の手で包み込んでいた。
「なっ、も、もみ子!」
いきなりの行動にたじろいで、暁が非難の声を投げかける。
「暁さん、知ってますか?」
灯里の手から逃れようと、彼が手を引いてしまう前に、ぽつりと言う。
「寒い時には、人肌が一番温まるんですよ」
そして軽く笑って、暁を見上げた。
「…暁さんの指、凄く冷たい」
それに何も言えなくなってしまって。
暁は俯いて、自分の表情が彼女に見えないようにした。
「……お前のも、結構冷たいぞ」
「暁さんのほうが冷たいですよー」
じんわりと、互いの指先が温まってくる。
「…私の体温が暁さんに、暁さんの体温が私に。…なんか、こそばゆいですね」
そこだけ、一つになったみたいに。
切ないような、嬉しいような。
色んな気持ちの塊が、胸の中を満たす。
恥ずかしいセリフ禁止。
そう言われると思っていたけれど。
「あぁ…――こそばゆいな」
ひどい仏頂面で言われたセリフに、灯里は思わず吹き出した。
彼の頬が、ひどく赤かったから。
「何笑ってんだよ!」
「あはは、ごめんなさいーっ」
ひとしきり笑った後、再び訪れる沈黙。
暖炉の紅い火を見つめている内、次第に瞼が重くなってきて。
幸せな眠気に、灯里はうとうとと身を任せた。
「暁さん」
「あ?」
繋がれた手は、心地良い温かさ。
「暁さんがこんな寒い中、4時間もかけて、アリシアさんも居ないってわかってるのに、此処に来てくれたこと」
眠れなかったのが嘘みたいだ。
「そうするしかなかったってわかってるんですけど、やっぱり」
外ではきっと、澄み切った夜空にたくさんの星が煌いている。
きれいな夜。

「私、ちょっぴり、うれしかったんです」

「それは…」
今にも飛び出しそうなほど心臓が高鳴っているのにどぎまぎしながら、暁は繋いだ手を握り返した。
ややぎこちなく、隣の少女に顔を向ける。
と。
…すぅ。
「……寝息…」
灯里はまっ逆さまに夢の中へと直行していた。
「…早すぎだろ…」
心の中で軽く突っ込みを入れて、なかなか収まりそうにない動悸に苦笑する。
「ったく」
ちょっとだけ、お前に会いたいって思った。
何て、言えるはずもなく。
深く息を吐いて、幸せそうな灯里の寝顔を見つめる。
すると、何だか色々考えるのが馬鹿らしくなってきた。

そう言えば、ポケットに入れっぱなしのプレゼントはいつ渡そうか。
眠気でぼんやりしながら、今更ながらに思い出す。
(…アリシアさんの『ついで』だからな、断じて!)
誰にでもない言い訳をしてみる。


「ほんっと、何やってんだろうな、オレ」




2004.6.1up


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