夏の匂いをはらんだ潮風が、ゆるりと頬を撫でる。
その流れに誘われて、何とはなしに空を見上げた。
すぐさまに目に飛び込んでくるのは、
この身体ごと溶かすような、圧倒的な蒼。
視界に白く差し込む入道雲。
ひりつく日差し。
そして。

遠空の、浮島。






夏空の彼方






「…り。…あかり!」
びくりと。
唐突に世界に蘇った音に我に返って、思わず肩を震わせた。
視線が蒼から解放されると、そこには見慣れた顔がふたつ。
そしてそのままやっぱり唐突に、ゆっくりとした波の動きに揺られるいつもの感覚も蘇り。
今が合同練習の真っ只中だったことを、どこか遠くの方で思い出す。
「灯里先輩、でっかい変です」
「藍華ちゃん、アリスちゃん…」
こちらを不審気な瞳で覗きこんでくる彼女たちに、少し戸惑って。
「私…何か変だったかな…?」
「変よ」「変です」
即座に返ってきた答えに、ぐっと詰まる。
「あのね、練習の最中に空見上げていきなりボーっとされたら、誰だって変だと思うでしょ」
そう言って思い切りため息を吐く藍華ちゃんの目には、呆れの色が強く滲んでいた。
その隣で、アリスちゃんが長い髪を揺らしながら何度も頷いている。
「最近、先輩は空を見てそういう風になること、多いですよね」
ね、と彼女が聞くと、今度は藍華ちゃんが同じように頷いた。
「そ、そうかな…」
「そうなの」「そうです」
またしてもタイミングよく答えが被さって、可笑しさすらこみ上げる。
「二人とも仲良いねーっ」
「まったあんたはズレたところに反応するんだから…」
くすくす笑う私に、今度は完全に呆れ果てたのか、二人とも顔を見合わせて深いため息を吐いて。
「…一体、空に何があるって言うのよ…」
吐息に乗って流れてきた言葉に、一瞬だけ戸惑って。
「空がね」
一言。
「空が、あんまり綺麗だから」
ふつりと呟いて、また宙を仰ぐ。

そこには、普遍的に蒼い世界に溶け込むように、土色の小さな島が浮かんでいた。




(…元気、かな)
照りつく日差しの中、練習の帰り道。
むっとする潮の匂いに流されるように歩きながら、ふと考える。
フラッシュバックする、長くて黒い髪。
ひとつに括ったそれを揺らしながら、にっと口の端を上げて笑う。
(暁さん、元気かな)
こつ、こつと、自分の靴音だけが耳を満たす。
かげろうのように揺らぐ遠くの景色から、僅かに視線を上に上げると。
綺麗な蒼。
(お仕事、まだやってるんだろうな)
(最近暑いですよ、って言ったら、怒るかな)
眩しい太陽と街路樹が作り出す濃い影が、そこかしこに伸びる。
通りを行き交う人々の声が、不思議と聞こえない。
(声聴いてないな)
耳に残っていた筈の音が、よく思い出せない。
(顔も見てない)
ふと視線を地面に落として、その光度差に目の前が霞む。
(髪の毛…ちょっと伸びたんですよ)
めっきり誰の手にも触れられなくなった髪が、軽く風に攫われる。
(もう随分、会ってない)
こつ…。
ふと足を止める。
(藍華ちゃん、アリスちゃん)
蒼い空に全て溶かされてしまうような感覚。
(私、やっぱり変かもしれない――)
空を見上げるといつだってあの人のことが頭を過ぎる。
こんなのおかしい。
おかしい。
「おかしい、よ…」

きっと今あの人に会ったら

私は。


「もみ子?」


声。
地面から視線をゆっくりと上げる。
再び視線に溶ける蒼。それと。
風に揺れる羽織。
そして、黒い髪。
「あかつき、さん?」
ぽつりと呟くと、目の前の人は口の端でにっと笑った。
「よっ。久しぶりだな」
軽い足取りでこちらに向かいながら、片手を上げて挨拶する。
その姿が、逆光で陰ってよく見えない。
「ちょっとした用でこっちに降りてきたんだけどよ。
 丁度お前に会うとはな。奇遇奇遇」
声をようやく思い出した。
「どうだ、アリシアさんは元気でいらっしゃるか?」
輪郭が、次第にはっきりとしてくる。
「…もみ子?」
…けれど何で、ぼやけているんだろう。
「!え、ちょ…っ」

「何でお前、泣いてんだ!」

「え…?」
言われて頬に手を持っていくと、濡れた感触。
「え、え、え…」
止めようと拭っても、後から溢れてくるもののお陰で、それは無駄に終わり。
「…何で…」
そこから先の言葉が続かなくて、思わず顔を両手で覆う。
鼻の奥が痺れたように痛む。
(やっぱり)
「お、おい…大丈夫か…」
暁さんが目の前でおろおろしているのが、空気越しにわかる。
(やっぱり私、おかしい)
「なななな何かあったのか?あ、ガチャペンらにいじめられたとか…」
ふるふると首を振る。同時に喉から引き攣った音が漏れる。
「じ、じゃあ何か悪いもん食って腹が痛いとか…」
またふるふると首を振る。
「す、すいませ…っ。自分でも、よく、わからな…っ」
途切れ途切れに呟く言葉に、彼が耳を済ませている気配。
「ただ、何か…何か……」
『何か』って。
何。

(あんなに遠いと思っていたのに突然目の前に現れるから)

(だからだ、きっと)

(あぁでも、何で)


潮の匂いがする。
きっと誘われるままに振り仰げば、そこには。

圧倒的に蒼い空。


(知らない)

(こんな気持ちになんて名前をつけたらいいのか)

(私は、知らない)


この空が。
胸の中に押し寄せた気持ちごと全て、本当に全て、
むしろ丸ごと溶かしてくれたらいいのにと、


強く、願った。








2005.7.1up


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