Pesce d'aprile



「知ってるか?今度オレらの浮島が切り離されて、別の土地に移されるって」
麗らかな春の日、何気なく提供した話題に、しかし目の前の少女は緑色のどんぐり眼を見開いてこちらを凝視した。
え、と短く声を発し、それきり止まってしまう。
その反応に少し驚きつつまずまず満足して、オレは話を続けた。
「景観の問題なんだってよ。ネオ・ヴェネツィアを地球のヴェネツィアに少しでも近づけるためには、先端文明の象徴である浮島が視界に入るとよろしくない、とか何とか」
まぁハイテク技術駆使して浮いてるからなー、あれ。と付け足して、チラリと反応を見る。
頷きもせず相槌も打たず、先ほどかっぴらいた目はこちらを相変わらず見つめているが、でも見つめていると言うには余りに空ろで、そのショックの度合いがよくわかる。
桃色の髪が、少し強めに吹いた風でさらりと揺れた。その数本が頬に張り付いても気にならないのか、払おうとしない。
相手が頓着しないと逆に気になってしまい、手を伸ばして払ってやろうと思ったが、考えてみれば物凄く恥ずかしい行為だということに気づいて、伸ばしかけた手を慌てて下げた。
「どこに、移されるんですか?すぐ近くの、例えば隣の市とか…」
いつになく張り詰めたような声色。急いて聞いてくる様子にますます気持ちがよくなり、どう返したものか弾む心で数秒思考する。
「詳しい場所はまだ知らされてねぇが、隣ってことはないだろうな。あすこには衛星管理センターがあるから、浮島が空にあったら邪魔になるだろ。
 そうだな…ネオ・モスクワは気候ユニットが足りなくて寒くて困ってるって聞いたことがあるから、あの辺りかもな」
少し現実味がなさすぎたか、と心の中で舌を出す。行ったこともないような遠い地が、どういう実情なのかすら知らない。
しかし向こうには然るべき効果があったらしく、希望で僅かに煌いた瞳が勢いを失くし、どよりと曇った。
「それ…遠いところ、ですよね…」
「ああ、ものすんごく遠いな」
きっぱりと言い放つ。それでますますしょげ返って、華奢な指を握りこむ。
あれ、これは違うぞ、と。予想だにしなかった反応に、罪悪感がどっと沸いてくる。
これではいけない。こいつはもっと大げさに驚いて、素っ頓狂な声をあげる筈で、それを笑い飛ばすつもりでいた。いつも交わす軽口のように軽快なノリでなくては。
こんな深刻な雰囲気になるなど。
「暁さんも、そこに行くんです、か?」
「…ああ、そりゃあ、職場も家も…浮島の中だし…」
その時の顔と言ったら。思い切り眉をはの字にして、唇を噛み締めて、頬がさっと紅潮して。今にも泣きそうだというのがすぐにわかった。
驚く顔が見たいとは思ったが、泣かせようなんて思っちゃいない。
開け放したARIAカンパニーのカウンターから、また温い風が流れ込む。それに乗ってきたのか、テーブルに置きっぱなしになっていたオレ専用のマグカップに、目の前で揺れる髪より随分薄い桃色の花びらが入り込んだ。
奥の壁にかけてあるカレンダーは捲りたてで、4月のページは真新しい。
いい加減に気づいてもいいんじゃないだろうか。今日は何月何日か。
「もみ子…」
じわじわと追い立ててくる焦りにも似た感覚から、名を呼んだ声は案外に掠れていた。
いつもはその愛称にすかさず反発を入れてくる少女は、しかし僅かに瞳を揺らしただけだった。
この雰囲気ではとても言えない。ハッピーエイプリルフール、などとは。
「あ、会いに来てやるよ。お前もオレ様がいなくて寂しいだろうからな!まぁアリシアさんのお顔を拝むついでに、だけどな!」
でっちあげた話をとりあえず続ける為の慰めの言葉。余りの恥ずかしさに余計なフォローを入れてしまったが、それは決して嘘ではない。嘘ではないが、真実でもない。
かの憧れの人の顔を見たい、というのは、いつも掲げる大義名分だ。目的と手段がとうの昔に摩り替わっているのは、自分でもよくわかっている。認めたくはないけれど。
気づいてないのは、わかりやすくて子供っぽい今日みたいな嘘を丸々信じ込んでしまう、この一人前になりたての水先案内人だけだ。
「でも、今よりずっと、会えなくなってしまいますよね」
硬質な声が返ってくる。聞いたことのないような。
「まあ、そうだけどよ…」
小さく呟く。居た堪れなくなり、意味もなく立ち上がってみる。顔がまともに見れない。
折角だから、このままゆっくり移動して、何気なくカレンダーの方へ向かおう。今日の日にちに指でも指せば、さすがに気づくだろう。
「オレ様ひとりいなくなっても、別に、お前は」
大して困らないだろう、と笑い飛ばそうとした。けれどもその言葉は、詰まった息で飲み込んだ。
突然胸に来る衝撃。全身で受け止める重み。柔らかな感触。視界には一面の桃色。
もみ子がオレ目掛けて飛び込んできた、と把握するのに、さほど時間はかからなかった。
しかし頭で理解は出来ず、ぱくぱくと阿呆みたいに口を開けて、所在のない腕を彷徨わせる。間違っても、その小さな背に回すなんてことは出来ない。
でもこいつの細い腕は確実にこちらの背に回って、ぎゅうぎゅうと案外強い力でその身体を縋り付かせている。
「も、も、もみ、子…っ?」
戦慄く口からようやく絞りだした声は目に見えるように動揺していて、何と情けないことかと自分でも思う。展開の突拍子のなさについていけていない。
体格差から肩口に密着した顔から熱を感じる。呼びかけにぐり、と額を擦り付けてきた。引きつったような吐息を感じて、泣いているんだとわかった。
途方もない罪悪感が押し寄せて、手足の指先からさっと熱を奪っていった。
「もう、お別れは、嫌…」
聞き逃しそうなぐらい小さな、くぐもった声が聞こえた。
「ひとりになった私のところに、暁さんはたくさん会いに来てくれましたよね。貴方がいたから、私は今まで、寂しい気持ちを感じないで、頑張って来れたんです」
ところどころ喘ぎながら、とつとつと吐き出される言葉。それをどこか遠いところで聞いている。耳のすぐ傍で、心臓の鼓動が煩く響く。
「髪の毛引っ張る時、痛くないようにあまり力を入れてないのに気づいた。話題に困るとアリシアさんの名前をすぐ出すの、わかってからは可愛いと思った。意地悪言っても、本当はとても優しいの知ってた。
 気がつくと、私、暁さんのことばっかり考えてるんですよ?」
オレの台詞、取るんじゃねぇよ。それはこっちが言いたいことだ。無意識にそう思って、慌てて取り消す。そんな馬鹿な。
「だから、暁さんがいなくなっちゃったら、私……」
ひ、と一際息を引きつらせ、後が続かなくなる。小さな肩が震え、桃色の頭が小刻みに揺れる。
つん、と鼻の奥が痛む。何でオレまで泣きそうにならなくちゃいけないんだ。しかも、だ。感動で涙が出そうだなんて、どうして言えよう。
その感動の意味が全くわからないから、全くどうして困ったものだ。
癪に障るので、一晩考えてきた大嘘がここまでこいつの信憑性を勝ち得たことに対して、自分は大いに感動しているのだと言い聞かせてみる。そうでなければ、このままどうにかなりそうで恐ろしい。
目の前の小さな身体を思い切り掻き抱きたい衝動を辛うじて抑えて、それでもやっぱり触れたくて、最大限優しいと思われる力加減で柔らかな髪を撫でた。
ぴくり、とそれが身じろぐのが、手の平を通してわかる。少し安心したのか、全身の強張りが緩んだような気がした。
「いいか、もみ子よ。オレ様はどこへも行かん」
ゆっくりと、含み聞かせるように言う。
「そんな気休め、要りません…」
2、3度、あやすように頭を軽く叩く。それから、身体をずらして、背中のすぐ後ろにあったカレンダーを視界に入れてやる。
「今日は何月何日だ?」
きっとその目は、捲りたてのカレンダーの左上を捉えて、そしてその日にちの下に小さく書いてある記念日の名前を読み上げて、まん丸に見開かれているだろう。残念ながら、この体勢では見ることは叶わないけれども。
そして訪れる、気まずい沈黙。
あらゆる反応に対する切り替えしを頭の中でひたすらシミュレートする。とりあえず、今まで見たことのないこいつの怒り顔が見れるかもしれないのが若干楽しみであり、少々怖くもある。そしてその確率は大分高いと見積もり、逃げ出す算段をじりじりとする。
やがてゆっくりと桃色の頭が上がり、数分振りに緑色の目と再会する。
そこに浮かんでいる表情は、くしゃくしゃの泣き顔。
わあわあと大声で泣かれ、嘘で良かった、どこにも行かなくて良かったと合間合間に叫ばれて、またぎゅうぎゅうと抱きつかれて、お陰で自慢の火炎之番人の制服がべしゃべしゃに濡れて、しかし文句を付けられるはずもなく、オレはただ慌てふためいて目の前の少女を泣き止ますのにひたすら苦心するだけだった。
少しでもなじったり責めてくれれば茶化すこともできたろうに、それを一切しないお人よしぶりに、返って困り果ててしまう。
それがらしいと言ったら、どこまでもらしいのだが。
それにしても、この浮島男児たるオレ様が女子供をめちゃくちゃに泣かせていると知られたら、母や兄やかの憧れの人やその他知り合い連中に何と言われてしまうかわかったものではない。
今この時に、誰一人としてARIAカンパニーを訪れませんように。
都合の良すぎる願いは、きっと叶わないだろうなとどこか遠いところで思った。

もみ子に嘘をつくのは金輪際やめようと、オレは心の中で固く固く誓ったのだった。




Pesce d'aprile:イタリア語でエイプリルフールの意、だそうで。


2010.04.04up

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