白い手を見送る



遠くで、鐘の音が聞こえた。
「あ。結婚式ですね」
隣に居た少女は、影踏みをしていた顔を上げて、口元を和らげる。
それに少々居た堪れなくなった俺は、彼女と同じ方向を見る振りして目を逸らした。
「…教会なんか、近くにあったか?」
「ありますよーっ。それはそれは綺麗な教会で…」
日ごろ観光案内の練習で身につけたのだろう知識をつらつらと並べる声を聞きながら、内心で全く違うことを思い浮かべる。

白いドレス。レースのヴェール。銀色の指輪。
それは全て、きっと目の前のこいつにもいつか訪れる未来。
きっといつか。

「暁さん!聞いてますか?」
気付くと、眉根を顰めた幼い顔と目が合った
羽織の裾を僅かに引かれ、そこに鮮やかな現実感。
「…ん」
返事とは言えないような返事を返し、路地の冷たいレンガ壁に寄りかかる。
秋口の風が、僅かに頬をくすぐった。
「なぁもみ子」
「はひ?」
いつも通りの呼び名で呼びかけると、いつも通りの返事。
当たり前のやりとり。
これもいつか。
「お前も、その…花嫁とかに、憧れたりするのか?」
すぐに訪れる沈黙と、送られるきょとんとした視線。
頬に血が集まってくるのがわかる。
言わなきゃよかったと心の中で毒づいてみた。
「えと…そりゃあ女の子ですし、もちろんっ」
やや困惑したような色が滲んでいたが、深くは考えなかったのだろう、素直な答えが返ってくる。
こういうところには、たまにすこぶる救われる。
「ウェディングドレスはやっぱり憧れますし…何より、花嫁さんって皆幸せそうで」
未だ止まない鐘の音を探すように、彼女は静かに目を閉じた。
「一番好きな人と並んで、笑顔で、腕を組んで。教会のアーチをくぐれたら」

「それはきっと、この上なく幸せなことなんでしょうね」

狭い路地に降り注ぐ午後の日差しを浴びて、瞼を伏せたまま微笑む。
その睫毛の影に迂闊にも見惚れた俺は、何も言えずに浅い呼吸を繰り返した。
瞼の先にはきっと、まだ見ぬ花婿の影。
どうしてだか指先がちりついて仕方ない。
「暁さん?」
ふと声がかかり、そこで初めてぼんやりとしていたことに気付く。
「大丈夫ですか?」
心配そうな表情を寄せる彼女から慌てて顔を背け、取り繕う。
「何でもない。大丈夫だ」
言葉に出せば中身もそうなるかと思ったが、そう都合の良い造りはしていないらしい。
それでも無理矢理に口の端を上げれば、きっと気も晴れる。
「アレだな、もみ子の相手はどんな物好きなんだろうな」
「えぇっ!物好きって…あ、暁さんの相手こそ」
「オレ様の相手はアリシアさんに決まっているだろう」
そうだそれは決定論で。
(…何で決定論なんだっけ)
いつから、どこから。
はたと止まる。
視界の端で、くるりと赤桃色の髪が舞った。
「それじゃあ、アリシアさんが物好きってことになっちゃいますよ」
「ああ…ってもみ子!どういう意味だ!」
笑い声を響かせながら、彼女は再び影踏みを始める。
その背中が一定のテンポで少しずつ、離れていく。

(もし誰かの隣であいつが幸せそうに微笑んでたら)
(でもそれはいつかきっと訪れる。明日にだって)
(なんだってこんなに落ち着かないんだ)
(ああそうだきっと今までみたいに髪を引けなくなるから、じゃれあえなくなるから)
(だからこんなにざわざわするんだ。あいつの隣は居心地がいいから)
(ただそれだけだ、それだけだから)

(行くななんて、言えるものか)



揺れる白い手だけが、やけに映えていた。
手を伸ばせば触れられる。
でも、触れてはならない気がして。

俺は呼吸すら忘れて、その手を見送った。





2006.9.4up


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