閑かな夜に月の降る






瞳はただ、歪に、そして柔らかに光る、二つのちっぽけな月を見ていた。


アリアカンパニーのバルコニー、温かみのある白い床板の上に4人並んで座り、お団子を頬張りながら、何やかんやとお喋りをして。
夜の帳はますます下りて、空は黒に限りなく近い藍。
そこに小さな月が二つ、柔らかな黄色い光を黒々としたキャンパスに滲ませていた。
満月、と言えるほど丸くない、ごつごつした塊。その周囲は思いの他明るくて、星はそこだけを遠巻きにするように、遠い空にぽつりぽつりと輝いて。
幻想的な月明かりの下、何気なく視線を横に送る。
藍華ちゃんとアルくん。隣に座る彼女たちは、何故だか前とは纏う雰囲気が違う。温かい、とか、そんな単純な言葉では言い表せない。
何気なくて下らない話をしている筈なのに、二人の笑顔は胸が詰まるほど切なくて、指先までじんわりするほど温かくて、何故だろう、不思議だ。
いいなぁ、と、思う。
思ってみて改めて、夜空を見上げる。
煌々と光る二つの月。私が求めていたものは、見えない。

「藍華ちゃんは凄いね」
アリスちゃんとアルくんを送る帰り道。何気なくぽつりと呟いた言葉に、藍華ちゃんが振り向いた。
「はぁ?」
振り返る彼女の眼は、彼ら、ううん、彼との別れを惜しんで切なげで、でもしっかりとした確信と自信と愛しさを秘めて、とても綺麗だった。月明かりの下で。
「ごめんね、本当は二人きりにしてあげるのが良かったんだけど」
アリスちゃんや藍華ちゃんをこんな夜更けに1人で帰すわけにはいかない、そう言って連れ立った帰り道。本当は私はついてくる必要がなかった。
でも何でだろう、1人になってしまうと要らないことを考えてしまいそうで、半ば無理矢理同行を願ってしまった。きっと月があまりに綺麗だからだ。
アルくんは私の意思を察してくれたのか、自分が二人を送っていくという願い出を辞退して、こうして藍華ちゃんと私を二人きりにしてくれた。
その藍華ちゃんは私の言葉を受けて、さっと頬を紅潮させて、口をぱくぱく動かした。
「な、な、何を言ってんのよ!別に私はアルくんと二人きりになんか…っ」
「私、別に『アルくんと』だなんて言ってないよ?」
何も言えなくなったのか、耳まで赤みを侵食させた藍華ちゃんは、がっくりとうな垂れる。こんなところが、たまらなく可愛いと思う。
あまりにたまらなくなってしまったので、思わず腕を伸ばして、私より頭半分ほど背の高い彼女の頭を、できるだけ優しく撫でた。
それを不本意そうな顔をしつつ受け入れた藍華ちゃんは、はっと気付いたように言った。
「あんた、質問の答えになってないわよ!私の何が凄いって?」
ああ、そういう話だったっけ。どこか他人事のように思い出す。思わず出てしまった言葉で、先に何と継げばいいか全く考えていなかった。
「ううん、何ていうんだろう」
彼女の頭から手を外し、眼から視線を外し、少し歩みを進める。石畳がかつかつと鳴る。
音が高いな、と思ったら、小さな橋の上だった。黒々とした水面に、ゆらりと揺れる黄色い光。夜空がそのまま映しこまれたそこは、吸い込まれてしまいそうな引力を持っていた。
橋の頂点、少しだけ空に近くなったところで、私は柵にもたれて空を仰いだ。
藍華ちゃんもそれに倣って、私の隣、ほんの数センチのところでやっぱり同じように柵にもたれ、その金色の綺麗な瞳に月を映した。
「アルくんのこと、誘えて凄いなぁって」
びくりと、隣にある肩が震えた。彼女の頬が再び熱を上げたのをなんとなく気配で感じて、それから少し気まずそうな嘆息が聞こえた。
「ごめん、私たち3人でのお月見だったのに、ね。私、勝手に…」
「何言ってるの!むしろ、藍華ちゃんとアルくんが仲良くしてるの、私は凄く嬉しいよ!」
図らずも気を遣わせてしまった自分を恥じて、思わず声を大きくして言う。藍華ちゃんはそれに少しびっくりして、そして顔をやっぱり赤らめてごにょごにょと何か言った。ありがとう、そう聴こえた気がした。
その言葉に私の頬は緩んで、夜の少しひんやりとした風に撫でられて、思っていたことを何となく形作られていくようで再び唇を引き締める。
私の強張りに気付いたのか、藍華ちゃんはその綺麗な瞳をこちらにずっと向けたまま、私が言いたいことを切り出すのをゆっくりと待ってくれた。
黒くゆらゆらたゆたっている水面に溶け込んでしまえばと、私はとつとつと言葉を吐いた。
「私ね。月を見たいって思ったときに、一緒に見たいと思う人に、頑張って声をかけて、本当に来てもらって、小さな願いを叶えられる藍華ちゃんのこと、とても凄いと思ったんだ」
私にはとても無理だから。
最後の言葉は口をつくことがなく、ただ私の頭の中だけをぐるぐると回った。無理、ということは、そうしたかった、というのの裏返しに、なるのでは。
私は最初に、いいなぁと思った。藍華ちゃんとアルくんの絆が、とても羨ましいと。
私はとても誘えない。
…誰を。
「灯里」
ぽん、と旋毛辺りに心地よい重量感。藍華ちゃんのしなやかな手。
「…ごめんね。私、自分のことしか見えてなかった。そうよね、あんたも、私と同じだったのね」
ぱちくりと、眼を数回瞬かせる。藍華ちゃんは何を言っているのだろう。
「だから。あんたも誘えばいいのよ。誘いたいと思う奴を、誘いたいと思うときに」
金色の、お月様みたいな瞳に覗き込まれて、どきりとする。
「…そんな人、いないよ。藍華ちゃんにとってのアルくんみたいな人、私には」
「いるでしょう、そんな奴。知ってるわよ、だって私」
くしゃり、と髪に指がもぐりこみ、優しく梳かれた。
「あんたの親友だもの」
鼻の奥が痛むのは、きっと月があまりに綺麗な所為だ。
何もかにも見透かされているような、綺麗な瞳。私がほんの一瞬、脳裏に浮かべた人の顔を彼女は手に取るようにわかっているだろう、そんなはっきりとした確信すら感じる瞳。
でも、と紡ぐ。藍華ちゃんにとってのアルくんじゃないんだよ。私とあの人にそんな絆はないんだよ。そんな思いはない筈なんだよ。ぐるぐると頭を巡る思いは、唇をすり抜けることはなくただ私の頭の中で反響した。
「でも、誘いたいって思ったんでしょう?」
逡巡する私の眼を、藍華ちゃんの瞳は相変わらず優しく強く捉えている。
少しの間を置いて、私はこくりと頷いた。
「じゃあ、ただ声をかければいいのよ。勇気はいるけど、一息で終わるわよ」
ああ、その勇気があれば、藍華ちゃんとアルくんみたいな、素敵なところに辿り着けるのかな。
ああ、でも私にそんなことはできない。だって。
「…理由がないよ。声をかける理由がない」
いつになく萎んだ気持ちで呟く。自分ごと、夜の海に吸い込まれてしまうんじゃないかという程の。
「バカね」
くすりと笑う声。見上げれば、綺麗な笑顔。月明かりに照らされた、愛しさに溢れた、それはそれは綺麗な。
「あんた、前に似たようなこと私に言ったでしょう」

「誘いたいと思った、『それ』が立派な理由よ、灯里」

ただ、並んで月を見れたら素敵だなぁと思った。
他愛ない話をして、お団子を頬張って、ぼんやりと月を見上げて。
夜風に優しく撫でられながら、温かみのある白い床板のバルコニーで、すすきのさらさら鳴る音を聞きながら。
あの人と、月を見れたら。








りーん、りーん。
甲高いベルの音。母は夕飯の準備で手を離せないから、今は電話番はオレの役目だ。
ガチャリと受話器を持ち上げて、少し冷たいそれを耳に当てる。
「はい、出雲ですが」
『あ、暁さんですか!?私、水無灯里と申します』
一声目で聞き分けたのか、すんなり自分の名前を言ってきたのは、聞きなれた声だった。いや、こうして受話器を通して聞くのは、そんなに多くないかもしれない。
「おぉ、もみ子か。珍しいな、電話なんて。何か用か?」
自分から出た声が思ったより弾んでいて、誰が見ているわけでもないのに「しまった」というような顔を作る。違う、ただ珍しい奴からの電話が嬉しいだけで、深い意味はない。ないはずだ。
少しの間にぐるりと色々考えるうち、あちらから反応が返ってこないことに気付く。機械ひとつで繋がった向こう側で、戸惑ったような、迷っているような空気。あいつがこんな雰囲気をさせるのは、本当に珍しいように思う。
「なんだなんだ、歯切れ悪ぃな。何か言い辛いことなのかよ?」
『…あの』

『今夜、お月見でもしませんか?』





2008.3.12up


閉じる