『もみ子っ。今から浮島来れねぇか?いや、つーか、来い。今すぐ来い』
こんな電話が唐突にやってきて唐突に切れたのは、つい一時間ほど前のことだった。
とある夏の日の夕暮れ。それまでアリア社長と夕涼みを楽しんでいた灯里は、いきなりの電話の有無を言わさぬ強制力に負け、色々不条理な気分になりながらもこうして浮島行きのロープウェイに乗っている。
窓からは、遠ざかるネオヴェネツィアの町並みと、すっかり藍色に染まりつつある夕空。
目を細めながらそれを見送り、頬杖をついてロープウェイの振動に身を任せること十数分。
振動の終わりと共にゴンドラの扉が開き、一歩外に踏み出すと、ネオヴェネツィアとは少しだけ違う風の匂いが鼻をくすぐった。
(…あれ?)
ロープウェイステーションを出口に向かって歩いていく内、灯里の目に見慣れぬものが飛び込んできた。
(あれは確か…『浴衣』…?)
それは、ずっと昔の地球の日本で着られていたといわれる、伝統的な衣装で。
その色とりどりの『浴衣』を纏った人々が、見慣れた洋装の人の波にちらほらと紛れている。
(…本物、初めて見た…)
ずっと映像資料の中でしか見たことのなかったものが今自分の目の前に存在している状況に、暫し見とれて。
「なーにボーっとしてんだ」
唐突にかかった声と共に、くいっとばかりに横の髪を引っ張られ、灯里はびくりと身体を強張らせた。
「あ、暁さん…!!」
このようなことをしてくる人物に他に心当たりがなく、確信を抱いて自分の髪を掴んでいる人物を振り仰ぐ。
と。
「よぉ。遅かったじゃねぇか。…ん?どうした?」
「…え、あ…その…」
ちょっとした驚きに、灯里は上手く言葉を出せず。
それというのも、目の前にいたのは確かに想像していた通りの人物であったが、その彼の装いがいつもとあまりに違っていた所為で。
「…ゆ、『浴衣』…」
「は?――あー、コレか」
渋めの色の布地に、細く黒い帯。
袖をひょいっと持ち上げる仕草にひとつに結った黒髪が揺れて、少々どきりとする。
「今日は七夕だからな。ホレ、そこら辺にも浴衣の奴らがうろうろしてるだろ」
「『たなばた』…?」
言われた単語の意味がよくわからず、オウム返しに尋ねて。
「…ま、付いて来いよ」
答えを言わずにすたすたと歩いていく暁の後ろを、灯里は慌てて追いかけた。

それから歩くこと十数分。
暁が住んでいるという住宅街にたどり着くと、「ちょっと待ってろ」とだけ言葉を残し、彼は込み入った路地の中へと消えていった。
(…此処、暁さんが住んでる所なんだ…)
ネオヴェネツィアとはちょっと違った町並み。でもどこか懐かしい。
先ほど暁が消えた方向の反対には、灯里の腰丈くらいの柵が道沿いに巡らせてあって。
眼下には段々になった浮島の町並みが、そして視界全部に、何にも遮られることのない夜空が広がっていた。
(凄い、空が近い…)
ちかちかと夏空に星が瞬いて。
柵に両手を置いて、思わず身を乗り出してそれを仰ぐ。
「お前、そんなことしてると落ちるぞ」
ふとかけられた声に我に返り、振り返る。
と。
「――わぁ…っ!」
しゃらしゃらと、風がそよぐ度に涼しげに音が鳴り。
路地から再び現れた暁の肩に担がれているそれを見て、思わず感嘆の声が漏れた。
「そ、それ、『笹』ですよね…!」
笹を見てしきりに興奮する灯里に、暁はおぉ、と簡素な返事をする。
「この時期になるとよく出回るんだ。これはちっと小さいけどな」
そう言いながら灯里のいる方に歩み寄り、軽く気を吐いてそれを地面に置き、柵にバランスよく立てかける。
すると、その葉が一層しゃらしゃらと鳴った。
「私、こんなの植物園でしか見たことないです…!
 でも、これがどうしたんですか…?」
笹の葉を触りながら彼を振り仰ぐと、暁はにっと笑った。
「『七夕』って祭、知ってるか」
先ほども出た単語だが、やはり意味がわからず、灯里は首を横に振る。
「…昔、地球の日本で行なわれていた祭でな。
 空に、『天の川』って呼ばれてる星の群れがあるだろ」
そう言って、暁は空に向かって指を差す。
その先には、深い藍色の闇の中に広がる、白々とした星の川が流れていた。
「ま、これはただの御伽噺なんだけどよ。
 ひょんなことから神サマの怒りを買って、あの天の川を挟んだ対岸に引き離されて、永遠に会えなくなっちまった男と女がいたんだそうだ。
 しかしそいつらがあんまり嘆くから、ちょいと可哀想に思った神サマが情けをかけてな。年に一度だけ、そいつらを会えるようにしてやったんだってよ。
 それが、地球暦での7月7日で、火星での今日ってわけだ」
まるで小さい子に聞かせるかのような甘い声音で語られたそれに、灯里はほぅ、とため息を吐いた。
「…素敵…。何か、すごくロマンチックですね」
言われて改めて恥ずかしくなったのか、暁は僅かに頬を高潮させて、頭をがしがしと掻いて。
「と、ともかく!そんな話はどうでもいいんだよっ。
 本題はコレだ、コレ!」
ぴらり、と。
灯里の目の前に、色とりどりの小さな紙が数枚、差し出された。
「七夕祭ってのは、ここからが本番だ。
 毎年この日、この紙に自分の願い事を書いて笹に飾ると!」
びしぃ、と差し出された指に、灯里は思わず喉を鳴らし。
「…なんと、願い事が叶うのだ!!」
「え、ええーーーっ!!」
どうだと言わんばかりの台詞に、思い切り目を見開いて驚いた。
「ほ、本当ですかっ!?」
「いいや、ただの言い伝えだ」
がくっ。
きっぱりと夢を壊されて、今度は思い切りこけてみる。
「でもまぁ、こういうのは縁起物だからな」
もう一度ぴらりと、色紙をはためかせて。
懐からペンを2本取り出して、暁はにっと笑った。
「…書いてみるか?」
「……は、はひっ!」

もうすっかり空も暗いので、光源を求めて煌々と光る街灯の下に移動して。
灯里も暁も、懸命に笹に飾る願い事に考えを巡らした。
「…暁さん。暁さんは、どんなことをお願いするんですか?」
うんうん唸りながら尋ねる灯里に、暁は自慢げな笑い声をあげる。
「ふ、よくぞ聞いた、もみ子よ…。
 オレ様の願いその一!アリシアさんと深い仲になれますように!その二!とっとと一人前の火炎之番人になれますように!その三!この世の全ての人間がオレ様に頭を垂れますように!その四…」
「ち、ち、ちょっと多すぎませんか…!?しかも一部スケール大きいような…」
「馬鹿を言うな、この位の量・質の願いを叶えられなくて何が神だ。そんな奴、オレ様が蹴散らしてくれるわ!」
そう言って高らかに笑う暁に、一方灯里は乾いた笑いを漏らすしかなく。
「で、もみ子は何て書いたんだ?」
いきなり質問を返され、少々言葉に詰まる。
「え、えぇと…私も、早く一人前の水先案内人になれますように、って…」
願い事、と言われてまず頭に浮かんだことをそのまま素直に表した言葉に、暁は大きく頷いた。
「うむ、よい心がけだ。…じゃ、これを笹に飾るとするか!」
ウキウキと笹の立てかけてある方に向かうその後姿には、全くこの行事を『ただの言い伝え』と思っている様子はなく。
それに苦笑して、灯里は彼の後についていった。

しゃらしゃらと、笹の葉の擦れる音が静かに響く。
それとは異質の、紙が擦れる音が、僅かに入り混じって耳に届いた。
「…綺麗、ですね」
ネオヴェネツィアよりもぐっと空に近づいた此処は、星の光も一層明るく届くように感じる。
その微かだけれど確かな光に照らされて、色紙が闇色の世界の中で浮きたって。
緩やかな風に小さく揺れるその様は、本当に綺麗だと灯里は思った。
「…悪くないだろ、七夕」
柵にもたれかかって空を見上げていた暁が、ふとそう漏らす。
その姿があまりに穏やかで。
灯里は、ずっと気になっていたことを、ようやく彼に問いかけた。
「――あの、何で今日、私を呼んでくれたんですか?」
その答えは、すぐには返ってこなくて。
でも、決して気まずくはない沈黙の中、灯里は彼の言葉を待った。
すると、暁は暫く空に置いていた視線を灯里の瞳に合わせ。
「地球にはもう、こんな風習ないんだろ」
ぽつりと言われた言葉に、頷く。
「オレは、日系の火星移民の子孫だからな。日本の昔からの風習とか、言い伝えとか、そういうの小さい時から身近にして育ってきてよ。
 それで、日本の文化っつーか、そういうのが…好きで」
しゃらりと、笹が鳴る。
「ずっと前に、お前らと花火見たじゃねぇか。あの時、ホログラムでしか花火を見たことないって言ってたお前の言葉が、何か胸の中に残っててな」
静かな世界に、水滴を落とすような穏やかさで、彼は言葉を紡ぐ。
「だから、な。
 オレがいいと思った日本のこと、お前に教えてやれたらなって。
 …そう思っただけだ」
ふつりと止んだ言葉の後。
とてもとても穏やかで甘い笑みを向けられて。
色々な感情が押し寄せてきゅっとなる胸の奥をどうすることもできず。
灯里はただ、いつの間にか熱を持っていた頬に当たる夏の風が案外に涼しいということをぼんやりと思いながら、そこに立ち尽くしていた。
「あ、そうだ。お前、浴衣着たくないか?」
「え、あ…は、はいっ」
唐突に思い立っただろうことを言われ、ついつられて返事をする。
「確かお袋が昔着てた奴があった筈だから…
 来年七夕やる時は、それ着ろよ」
「…へ」
「やっぱ、こういう行事には浴衣が付き物だからな。うむ」
しきりに納得したように頷く暁に、灯里は口をぱくぱくとさせる。
「ら、来年?」
「ん、来年」
聞き返す言葉に返ってきたのは、非常にシンプル且つきっぱりとした答えで。
(神様、どうか)
片手でくしゃりと前髪を掴み、目を閉じて。
頬の温度が先ほどより一層上がっていることを改めて確認して。
(どうか、この願いだけ)
胸の奥の苦しさも一緒になって倍増していることに、諦めにも似た笑みを零して。
笹の葉の揺れる音が、灯里の耳を静かに満たした。

先ほど渡された色紙のあまりに、返しそびれたペンでこっそりと文字を書き。
それを、暁に気付かれないように、灯里はそっと、笹の葉の一枚に括りつけた。


『来年も、再来年も、ずっとずっと
 暁さんと七夕を過ごせますように』






2005.7.8up