Ordinary Tea Time



「おいもみ子」
「…はひ?」
太陽が真上から大分西に傾いてきた、昼下がりのサン・マルコ広場。
その一画のカフェ・フロリアンの真白い円卓に陣取っていた暁は、丁度その対面に同じく座っている少女に陰険な視線を送っていた。
それに全く気付かないのか、睨まれている本人は相変わらずの幸せそうな顔をしている。
「オレはお前に、『どうやったらアリシアさんに振り向いて頂けるか』という重大な議題を持ちかけて、その会議を実行するのにぴったりな場所へ案内するよう言ったよなぁ…?」
「はい、だからココにっ」
灯里はそう言うと、たしたしとテーブルを軽く叩いた。
「…確かにARIAカンパニーじゃいつアリシアさんに聞かれるかわかったもんじゃないから、それ以外の場所を選んだのは賢明だと認める。…が」
ぐるりと周りを見渡すと、午後のティータイムにしゃれ込んだ客たちが、他のテーブルを殆ど満席にしていた。
「これじゃそんな議題話すにも話せないだろぉがぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「あ、暁さん、落ち着いて…!か、髪の毛引っ張らないでくださいぃぃっ!!」
唐突に立ち上がってぐいぐいと両手に力を込めて詰め寄る暁からやっとの思いで髪を救出し、涙目で見返して。
「えぇとですね。ココはテーブルとテーブルの間が結構開いてますから、大きな声で話さなきゃ他の人には割と聞かれないものなんです」
ずびし、と人差し指を立てて説明する灯里に、暁はそーいうものかと僅かに呻いた。
「それに」
「…それに?」
「こういう晴れた気持ちのいい日は、外でお茶するのが一番ですしっ」
がくり。
もったいぶった台詞の後に続いた言葉に、暁は思いっきりこけて机に突っ伏した。
「…そういう奴だよな、もみ子は…」
「え?何か言いましたか?」
僅かな嫌味も全く届かず、こっそりと嘆息する。
暁は仕方なく、改めて周りを見渡した。
(サン・マルコ広場、ねぇ…)
空は抜けるように青く、夏前に相応しい小さな入道雲が、地平近くに留まっている。
南中を超えた太陽を遮るものはなく、けれどそれは案外に優しく光を注いでいた。
広場の石畳には、大鐘楼や寺院から落ちた複雑な影がかかって、見るに飽きない。
周りの客が交わす穏やかな談笑は、決して耳を邪魔するものではなく。
時折思い出したように、はしゃいだ子供の声と駆け回る足音が、遠くの方で聞こえた。
(…まぁ)
「――悪くは、ないけどな」
思わずぼそりと言われた言葉を聞いて。
広場に目を注いでいた暁の視線の外で、灯里はいつもより幾分も増して幸せそうな笑みを浮かべた。

「お待たせ致しました、アイスカフェラテになります」
突然テーブルにぬっと落とされた影から、水滴のついたグラスが2つ差し出された。
「うぉっ!?」
ぼーっとしていた所での俄かな出来事に慌てる暁を他所に、灯里は笑顔でそれを受け取った。
「ありがとうございます、店長さんっ」
「店長…?」
暁から訝しげな視線を送られた、ずんぐりむっくりした黒スーツの紳士は、被っていた黒い帽子を持ち上げて挨拶をした。
「どうも初めまして、当店の店長でございます。以後お見知りおきを」
「は、はぁ…ご丁寧にどーも…」
堅苦しい挨拶に慣れておらず、どうしていいものかと迷ったような暁に、紳士はにっこりと笑いかけた。
「出雲暁さん、ですかな?いつも灯里さんからお話は伺っていますよ」
「…へ?もみ子から?」
「わ、店長さん!」
灯里が「しーっ」という仕草を送ると、楽しそうに眉を上げて彼は口を結んだ。
「…もーみー子ー…。貴様、人の居ないところで噂話とは感心しねーなぁ…」
「きゃーっ!ごめんなさいごめんなさいーっ!!」
じっとりとした視線を送りつつワキワキと手を伸ばしてくる暁から、髪の毛を庇いながら逃げる灯里。
そのじゃれついたやり取りを見ていた店長は、くすりと笑うと咳払いをひとつした。
「それでは私はこの辺で失礼するとしますよ。どうもお邪魔みたいなので」
「えっ?」「な…っ」
どちらともなく慌てた様子で店長を見る。
「あ、お金払います!伝票は…」
「いやいや、これは特別に私からサービスということで」
カバンから財布を取り出そうとする灯里を制して、にっこりと笑って。
「私の大切なお友達とその彼氏さんとの甘い時間に、少しだけ貢献させて下さい」
『!!!!!』
ぼん、という音さえ聞こえるようだった。
一瞬でゆでだこのように顔を真っ赤にさせて、金魚のように口をぱくぱくしつつ微動だに出来ない二人を尻目に、黒スーツのずんぐりとしたシルエットは満足気な笑い声を上げて店内へと姿を消して。
あーとかうーとか言う意味不明なうめき声をそれぞれ漏らしながら、視線を合わせることもできず、灯里も暁も所在無さげに咳払いしたり、大して尻も痛くないのに椅子に座りなおしたり、とにかく思いきり動揺を隠せずにいた。
考えてみれば、周りの客は割と男女の2人組が多くて、なるほど勘違いされてもおかしくはないな、とふと思う。
思ってみて、余計居心地が悪くなって、ますます視線は噛み合わなくなるばかりだった。
「……か、勘違い…されちゃいましたね」
やっとのことで搾り出された上ずった言葉に、暁はむぅ、とただ唸って。
「後でちゃんと、誤解は解いておきますから…」
「う、うむ…」
「とんだ勘違いですよねぇっ?」
「…うむ」
「暁さんは、アリシアさんが好きなのに」
あはは、と照れ笑いを浮かべる灯里を、はたと見つめて。
暫く視線を合わせなかったから、目が慣れずそう映ったんだろうか。
いつもと同じ筈の彼女の笑顔が。
少しだけ、本当に少しだけ、寂しそうに見えて。
何とも言い表せない不思議な感情がじわりと涌いてきて、暁は同意をしようと開いた口をつぐんだ。
「暁さん?」
怪訝に思った灯里が、おずおずと彼の顔色を覗き込む。
その翠色の目と視線がぶつかって。
「あ…や、な、何でもねぇ」
顔を僅かに逸らして逃れる。
すると視界の真正面に、先ほど置かれたグラスが2つ。
薄茶の液体の上に真っ白なミルクが注がれているそれは、境目が混ざりかけてぐるぐると複雑な色合いを醸しだしていた。
かろん、と溶けた氷が軽やかな音を立てる。
そういえば先ほどから突拍子もないことが起こりすぎて、喉がひりついているのを今更ながらに思い出した。
「…ここの店のカフェラテは飲んだことあるが、冷たいのは初めてだな」
ぼそりと呟かれて、灯里はぱっと顔を輝かせた。
「そうなんですか?じゃあ、是非飲んでみてくださいっ」
そんなにウキウキと促されたら、飲むしかなくなるじゃねーか。
口には出さずにぼやきながら、軽く中身をかき混ぜて。
ストローに口を付ける。
「――うまい」
その言葉は驚くほど素直に暁の口から滑り出た。
冷えたカフェラテが渇いた喉に染み渡る。それからじんわりとほのかな甘さが広がって、後には上等な珈琲のほろ苦さが余韻を残す。
今まで飲んだどのアイスカフェラテよりも、遥かに素晴らしい味だった。
「ね、美味しいですよね!」
自分も1口飲みながら言う灯里に、暁はしきりに頷いて2口目を飲もうとして。
「だから、暁さんと一緒に飲みたいなって思ってたんです」
噴き出しそうになる寸でのところで止まった。
そのまま固まって動きを再生できない暁に、尚も灯里は嬉しそうに話しかけた。
「せっかく久しぶりにこっちに降りてきてくれるなら、美味しいものをご馳走したくて」
「…ああ、『いつか』じゃなくて、『今日』の話か…」
ようやくフリーズが解けた暁の台詞の意味がよくわからず、目の前の少女はにこにこと小首を傾げる。
でも、いずれにしても。
「お前、ときどきずるいよな」
「ほへ?」
何でもない、とカフェラテを啜る暁に、灯里は意味がわかりません、と抗議の声を上げた。
そのまま他愛のない話を交わして。
日差しは少々強いけれど、まぁ我慢できないほどではない。
時折頬を撫でる海風は涼しくて、そして穏やかだ。
こうしてのんびりとカフェラテを飲みながら、ゆっくりとした時間を過ごしていると。
「あー……もう最初の目的とかどうでもよくなってきた」
「え、会議しなくていいんですか?」
「うむ。こんな腑抜けた状態でアリシアさんのことを考えたら失礼だろうが」
「あはは、なるほど」
小さくなった氷が、先ほどよりずっと高い音でからんと鳴った。
「じゃあ、ここに来た目的がわからなくなっちゃいましたねー」
割と意味不明な理由でここまで連れて来た奴が何を言うかと、暁はストローでカフェラテをぐるぐるかき混ぜている灯里を睨んだ。
そしてひとつ嘆息して。
「ま、だったらいいんじゃねーのか」
「…はひ?」
「お前とここにカフェラテ飲みに来た、ってことで」
言って、また一口ストローに口を付ける。ずずっと下品な音がして、薄くなった珈琲の味。
もう中身の殆どないグラスを残念そうに見つめる暁に、灯里が小さく呟いた。
「暁さんだってときどきずるいですよ」
「あ?何か言ったか?」



そろそろ陰追いの時間になるかと、様子を見るのに広場に出て。
先刻に自分がグラスを持っていったテーブルがまだ楽しげに談笑を続けているのを見た紳士は、くすりと口元を綻ばせて。
そして、どうやら2杯目のおごりが必要なようだと、いそいそとその姿を店の奥へと引っ込めた。




2006.6.25up


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