ちょっと一言     2007年 10月21日(日  )
     題     名   「赤福さんに学べ」              
 赤福さんに学べ、などといえば、きっと世の中から袋たたきに遭うだろう。法を犯してもよいというつもりはないが、赤福さんの今回の事件には、学ぶべき点があると思う。
 今回の事件の要点は、紙ではなく、赤福おはぎの「あん」と「もち」を、再利用していた点にある。食品衛生管理法を犯すものであるという。少しまえ、ミートホープという食肉会社が、豚や鳥の肉を混ぜながら牛肉と偽って販売したのとは、本質が異なる。
 今日もひとつ、秋田の比内地鶏の肉と卵の燻製と偽って、30年間も、名もない鶏のそれを販売して利益を稼いだというニュースがあった。赤福さんは、この不正とも異なると思う。
 うがって考えると、赤福さんに「一子相伝」の「おはぎづくり」の秘法があったとすれば、「食材を粗末にするな、余ったものは、極力、再利用して使え、それが、もち米やあずきを作ってくれたお百姓への恩返しだ」「もちろん、お客さまを腹痛や病気にすることは、決してあってはならない。ただ、春夏秋冬、ものが傷むには理屈があるので、それをよくわきまえ、安全な範囲で食材は再利用せよ。そこを見極めるのが、おはぎ屋のプロたるゆえんだ」ということでなかっただろうか。
 赤福さんは、300年も営々と経営してきたそうである。おそらく江戸、明治、大正、昭和の最近まで、そうした経営の要諦があったに違いないと推察する。赤福さんの経営が長続きしたのは、味がおいしいのはもちろん、こうした
「食材を粗末にしないことで利を生む」秘伝があったからにちがいない。材料費を切り詰めるのは、何時の時代でも
「利を生むものづくり」の基本だからだ。
 こうしたなかで、赤福さんに特に学ぶべきは、「食材を破棄しては、ただのゴミでしかない」「食べられるうちは皆、有用な資源、つまり地球の宝物」という食材再利用の発想であると思う。
 捨ててゴミにすれば、食材としての価値がゼロになるばかりか、社会的に廃棄の費用がかかる。「使う、再利用する」と「捨てる」では天地の差があると思う。
 もう60年も昔の話だが、廃棄の食材を再利用するのはあたりまえで、そういう廃棄の流通が成り立っていた。私の母の実家は、京都の上鳥羽で確か鶏2000羽程度の零細な養鶏場を営んでいた。私の7、8歳の記憶では、鶏の飼料として新品で購入するのは、とうもろこしと麦とぬかと牡蠣の殻で、あと、京都市内のいくつかの魚屋を廻って「魚のアラ」を、また、近くには野菜の出荷業者があったのでそこの新鮮な廃棄野菜を、それぞれ安価購入し、「魚のアラ」は炊いて骨粉として、また、野菜は刻んで飼料に混ぜて栄養源として再利用していた。戦時中は、飼料が手に入らず、一時、京都墨染にあった確か京都師団37部隊から、大量の残飯を払い下げしてもらっていた。こうした小回りの効く廃食材の再利用は、零細だからこそ、可能だったにちがいない。 
 いま、日本中のコンビニ、スーパーから「期限切れ」新品食品がどれくらい廃棄されているだろう。日本中のレストランや食堂など飲食店からどれくらいの残飯が廃棄されているだろうか。しかも、それらの60%は、自給率からいって、世界から輸入された貴重な食材なのである。
 赤福さんを冷笑してはならないと思う。今日の「大量生産、大量廃棄」の企業システム・個人ライフスタイルに何の疑問ももたない「文明社会」に対し、赤福さんの経営姿勢は、「ほんとうに、これでいいのかしら?」と、「一子相伝」の疑問を投げかけている。
 お客に「食の安全」以下の食品を提供することは許されない。しかし「期限切れ」という法の網にかかった食品をすべて新品廃棄するのは、広い視野に立てば、ほんとうに「正しいこと」なのだろうか…。                                                    

                                  閉じる