瞑想・妄想・随想

不安(2000.10.23)
わけもなく不安になることがある。
あの不安はどこから来るのだろうか。なにに対する不安なのかすらわからない、不安。 鼓動がはやくなり、いつも思考は悪い方へと回転し始める。 思考を止めようとしても脳みそはいうことを聞いてくれない。回転は加速度を増していく。
こういう不安は、眠れない夜に現れることが多い。思考が回転を増すたびに眠気は遠くに行ってしまう。 そしてようやく眠気を捕まえると、今度は決まって悪い夢を見る。それまで考えていたことと区別がつかないような、不安な夢。
本当は眠れない夜は、しあわせな空想の中で遊びたいのに。そんな空想もできない脳みそになってしまったのだろうか。それがいちばん不安なのかもしれない。

略称(2000.1.4)
ドリフターズをドリフと呼ぶ。
もちろんオンリーユーのドリフターズではない。 ドリフの大爆笑のドリフのことだ。 この感覚はすばらしいと思う。 ドリフはドリフ以外の何者でもない。 この略称によってオンリーユーのドリフターズとドリフの大爆笑のドリフが見事に区別される。 もしかしたら日ごろあまりドリフに触れていない十代の若者たちは、 ドリフの正式名称がザ・ドリフターズだといっても信じないかもしれないくらい、 ドリフはドリフなのである。

古い友人と旅客機(2000.1.4)
夜の駅。古い友人に出会った。
久しぶりに再会して意気投合した僕たちは、ドライブに出かけた。 いろんなところをいろんなことを話しながら走った。 そしていつしか車は懐かしい顔でいっぱいになっていた。
どれくらい走っただろうか、やがて暗い山道にさしかかった。 遠くに空港が見える山道。辺りは真っ暗だ。しかしそこは見覚えがあった。 そこの交差点を越えると左に駐車場がある。 僕たちはそこの駐車場に車をとめた。そしてあきもせず馬鹿話を続けていた。
空港では、旅客機が急上昇したり急旋回したりしていた。 どうやらトラブルのようだった。 そしてその旅客機はこちらに急速に近づいてきた。 上昇したり下降したりを繰り返しながら。 僕たちはよけようとしたが間に合わなかった。 旅客機は僕たちの真上で急激に高度を下げた。僕は地面に伏せた。 次の瞬間背中に何か触れた。つぶされる。。。
しかしその感触はその一瞬だけだった。 旅客機は何とか持ち直して、 上がったり下がったりしながらまた空港へ戻っていった。
時刻は午前5時30分。再び深い眠りに落ちていった。

落書き(1999.3.20)
春。そろそろベスパに乗るのも苦にならなくなってきた。
ご存知の方もいると思うが、東京に引っ越してきてから3年近く一度も洗っていないから、もうすごく汚い。ほこりやみずあかで大変。
話は変わるが、うちの近くには小学校がある。うちの前の細い道は通学路になっていて、下校の時間は子供が大声で叫びながら帰るのでとてもうるさい。
ある昼下がり、太陽を背にしてベスパに乗っていると、ふとほこりだらけのバックミラーから視線を感じた。ミラーをよく見るとそこには、スマイルマークが。。
丸いミラーに積もったほこりに指で書いたそのスマイルマークが視線を送っていた。なぜだかあったかい気分になった。

犯罪(1998.12.2)
今年は厄年だったせいか、いくつかの犯罪の被害にあった。いや、もう厄のせいにするのはやめたんだった。
最近では「今日のあゆむんち」にも書いたが、変造500円玉ってやつを手に入れてしまった。手に入れたというと誤解を与えるかもしれないが、僕は被害者である。1000円札を自動販売機に入れて、出てきたおつりの500円玉のふちにギザギザがついていた。つまりまるまる500円、損をしたことになる。
万引、痴漢未遂を目撃したことがある。盗み、偽金(今回)の被害を受けたことがある。これらは、「法」以前のモラルの問題である。「法」うんぬんよりも、何で被害を受ける側の気持ちになれないんだろう。
そういう人たちに、そういうことを期待するのは無理なんだろうけど。

人間観察(1998.11.14)
大学に通う電車の中、本を読むでもなくぼ〜っとしてる。
そして向かいに座っている人の顔を順番に見ていたりする。
いろんな人が電車に乗って移動しているものだ。落ち着きのない人、本を読む人、新聞を読む人、寝ている人、、、。みんなどこに行くんだろう。
ところで、僕の乗る電車の沿線には競輪場がある。競輪の開催される日には、客が多い。しかし競輪場に向かうおやじたちは、見た目でだいたいわかる。みんな同じような顔をしている。不思議。

ヤクドシ(1998.10.23)
ヤクドシなんて信じてなかった。
でも、厄年はやってきた。今年が厄年だなんて知りもしなかったのに、そいつはちゃんと知っていた。次から次へとやってきた厄の中でヤクドシに気付いた。そして厄払いに行った。効果はそれなりにあったようだ。
厄年とは、長い人生の中でそれなりの疲れや、ガタや、ツケが回ってくるころをいうらしい。まんざら昔の人たちの言うことも迷信ばかりではないなと思わせられる。もしそれを自覚していたなら、信じていたなら、気を引き締めて何事にも向かっていたはずで、ヤクドシにつけいる隙なんて与えなかったかもしれない。
でも、来年が本厄。まだまだ厄年は続く。

種の保存・子孫繁栄(1998.10.20)
あさがおを育てて考えた。
何であさがおは、花を咲かせ、たねを作り、「あさがお」という種を後世に残そうとするのだろう。あさがおだけではない。おそらく地球上のすべての、ありとあらゆる生物が、たねを作り、また子供を作り、自分の分身を残して死んでゆく。
その反面、生物、特に動物たちは、ほかの生物を食べ、いわば踏み台にして生きている。踏み台にされている生物たちが種を残そうとしているのにもかかわらず、そうしないと自分の種を残すことができないから。
でも、そんなにまでして、なんで自分の種を残さなければならないの?いや、そうやってご先祖様たちが人間という種を残してくれたから、いまこうやって人間という種を残そうとする僕という存在があるわけなんだけど。
世の中不思議なことだらけだ。

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