不届き者の大学受験

 関西学院大学を受験したのには、多少なりとも理由がある。高校生の頃からミュージシャンとして飯を食っていくことを志してた僕としては、大学=プロになるための猶予期間ていう頭で、やはり東京の大学に是が非でも入って、早くバンド組んでバリバリ音楽やるぞと、ずううっとマジに考えていたのだ。今思うと、否、今でなくともそうだが、親に出してもらうお金で、さらさら勉強する気などなく、しゃあしゃあと大学に入ろうとしていたわけだから、こやつ不届き者もいいところだ。しかし、それはそれなりに悩みもし、やはりこりゃ東京にいきなり行くのもどんなもんかと躊躇をし、それならいっそのこと大学受験などやめて、音楽の道で生きていこうと思い、父親にそのことを話すと、「自分でやる自信があるのならピアノを持ってこの家を出てってやれ」と、これも確かに理にかなったリアクションをされた。家を一応いきおいで出たのはいいものの、そこいら近所をぐるっとまわってすごすご帰ってきてからというもの、いくらなんでも全てに対してバツが悪く、自分の将来のばくぜんとした夢と目の前のシビアな現実の狭間で悶々としていた。

 親は、毎日作曲のためと称してピアノの前に四〜五時間座る息子の姿を見てて、どんな気分だったか今ならさっしはつくが、その時は僕なりに必死だった。何かに逆らうかのようにすごいぎょうそうで鍵盤をたたくしか道は開けない気がした。腕がつってもまだ足りないのは確かな前進の手応え。まだまだこんなんじゃ何者にもなれやしない。かと思うといったんいいメロディーがうかぶとやっぱり俺は天才だと一気に自己陶酔の頂点に登りつめる。現金なものだ。

 しかし端から見ると客観的に受験の落ちこぼれの図でもあったらしい。ある日、仲のよい友達が電話をかけてきてこう言った。

「おまえ勉強すんのやめたってほんまか。まあ自分のスキなことできてるからそれはそれでええわな。でも一応言っとくけど、関関同立は申し込み近いで。共通一次も年明けたらすぐや。どうせ受けへんねんやったら言ってもしゃあないねんけど、みんなけっこう、あいつどないしたん言って心配してるでぇ」

 これが一二月の頭のことだ。浪人してたので、友達やみんなとは、目標を同じくして四月にそろって机を並べた予備校の同級生であった。

 ぼんやり自分のふがいないちゅうぶらりんを思い、なすすべもなくふらっと電車に乗って、その時気がつくと僕は神戸に向かっていた。

 別にとりたててどこどこへ行くというようなしっかりした行き先があるわけでもなく、まあぼんやりどっかの大学のキャンパスでも見おさめに行こかなあ、くらいの感覚で西宮北口で下りた。ちょうど大学生も試験中なのか、コピーをたばねて片手に持ち、ぶつぶつ口で唱えながらあるく学生たちがわきを通る。関学が北口からのりかえて二駅というのは、知っていたのでなんとなくその群れにまぎれながら大学生のフリをして関学を目指した。そして甲東園という駅で電車を降り、そのあとバスにのり込む人達と歩き出す人達と二手に分かれてしまい、一瞬どっちへいこうと迷ったが、なんかこれ以上お金を払う自分というのにもイヤ気がさし、てくてく歩くことにした。人の流れは、自然の多い木々の間をくねくね高台の方へと上がっていく。高級住宅地が広がる目抜き通りにはえそろった何だったかの並木が続く。そして、その先の先の方につまようじくらいの時計台がちょこんと見えた。

「ほおあれが関学か」が「うお、すっごいええかんじの場所やん」に変わるにあまり時間はかからなかった。僕はちょっぴり罪悪感を感じながら偽関学生としてキャンパスに足を踏み入れる。左側の経済学部の校舎の横から時計台をまさに時計回りに社学の前をぬけて文、神学部そしてチャペルの前まできてふとふりかえる。えんえんと広がる芝生に、学生がのんびり横たわって談笑してる。そのうしろに赤いかわらと白亜の壁のバランスのとれた時計台が、すくっと背筋をのばしてそびえ立つ。時がフリーズしたように一瞬止まり、僕の中でそのシーンはすぐに絵ハガキになった。「おいでませ関学へ」。まさにそんなかんじである。僕はもうゆっくりぶらぶらはしなかった。足早に、時計台をふりかえりもせず、すたすたすたすた、来た道を戻り(勿論バスにはのらず)梅田まで一気に戻ることになる。

「すいません。関学の赤本下さい」

「ああ、ごめんなさいねえ。この時期だと来年のはまだでてないんですよ」

「いえ、今年のやつです。今回の受験の」

 梅田の紀伊國屋書店のレジの女の子が、怪げんそうな顔で一瞬「え゛っ」と言ったのが忘れられない。

 結局僕の中では「最後の親孝行」だの「浪人したからには、決着はきちんとつけとかんと」だの、「合格してもケッたんねん」とかわけわかんないことをいいながら、恥も外聞も捨て去って思いに忠実に生きることにした。ムガム中であの絵ハガキの中の画がくに自分がいることを只ひたすら想像して暗記に没頭した。自分が受かって万歳してる姿を思いうかべ、試験用紙が配られる二〜三秒前までしつこくねばった。ミュージシャンになるなど、このゴにおよんではあとにおいといて、とにもかくにも、この勝負だけはハズれるわけにはいかなかった。

 そしてまあなんとか関学に入学してまず向かったのが軽音楽部の部屋だった、なんて話今じゃもう時効だよね。しかしこの怒とうの最短受験暗記期間や四年間の西宮北口近辺での楽しい日々を思うと胸のどっかがきゅうんとする。

 今思うに、僕はなぜあのとき関学をえらんだのか、なぜ関学は僕をえらんでくれたのか、本当のところはわからない。でも、今だに時々、関学をまた、再受験して、「ヤバイよ」なんて冷や汗かいてる自分の姿を夢で見てしまうのはなぜだ?

 

(1998年 ニューひょうご)
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