行間のせつなさを

──六〇年代終わりから七〇年代のフォークブーム、九〇年代のJポップ、その間をつなぐ八〇年代にデビューされた大江さんが目指した音楽は?
 男のせつなさをポップに歌いたかった。かっこ悪かったり、めめしかったり、男が聞いてキュンとする世界を歌う人が、あの頃は他にいなかったから僕がそれをやってやろうと、すごく意識してました。一見脳天気に見えても三分間の中に小宇宙があって、聞く人が聞けば哲学だけど、聞き流してしまう人もいるかもしれない。その存在こそせつない。ポップなんて風船みたいなもんと言われるけど、ぱっとはじけて歌っていく中に命を込めるような歌があってええんちがうかなと思ったし、そんな歌をビジュアルも含めて、存在自体ポップにやりたかった。男がこぶしを振り上げて、わき毛を見せて(笑)歌うようなスタイルには抵抗があって、クールやけどいったん好きになったら溶けるまで聞くでという感じをめざしてました。当時はヤマハのポップコンが大きな存在で、僕の同期ではツイストをはじめ関西のアーティストがたくさん上位に残ったりして、刺激を受けました。ただ音楽的には僕は自分のオリジナルの世界で勝負したかった。デビューしたのは学生時代やったし、無我夢中でしたね。

──当時つくった歌詞で特に記憶に残っているのは?
 日本語には独特の味があるから、英語を安易に使ったりしたくないなと思いながら書いたのが『天気図』という曲で、これで僕は歌詞に目覚めた。歌詞とメロディを結婚させて、それを自分の声に乗せると、せつなさが立体になる。「天気予報が当たったというだけで今日はついてる」「たぶん明日も晴れるといいね 今日一日がまぶしければいい」という歌詞なんですけど、今歌っても自分でぐっときますね。「なんや学生ソングやん」という人もいるかもしれないけど、「そうやな」とうなずく人とか、「結構深いやん」と思ってくれる人もいるかもしれない。書かれた文字の行間をあぶりだすと、いろいろ聞こえてくるような、そんな歌詞が好きやったし、書きたかった。

──ほどよい距離感を保って自分の世界を押しつけず?
 押しつけが嫌いなんですと言うこと自体、押しつけかもしれない。ニール・サイモンの映画って、男と女のお話でなかなか結論が出なくて、この二人どうなるんやろなと思ってもどうにもならなくて、ラストになっても結論が出なかったりするけど、現実でも出ないことの方が多いでしょう。だから、こうしなきゃだめだよ、と言う歌は昔から嫌いで、結論の出ない歌、聞き手が自分の中で勝手に答えをつくって楽しめる世界をつくれないかなと考えてました。この曲は大学三年の時に作ったんやけど、今でも歌う度に近づけるというか、ひだが増えるというか、僕にとって特別な曲です。半ズボンをはいて夢中で音楽をやり始めてたあの頃の自分が懐かしいし、あぶりだした歌詞の行間からせつなさが立体になるのが自分にも見えて、時間をおくとまたそれが無意識に出てくるみたいなところがええなと。

──歌詞には大阪の風景が出てくる?
「夕焼けのモータープールに借りてたレコード返しにいく」という一節があるんやけど、その当時、僕が所属していた東京のレコード会社の人たちの間で「モータープールって何?」とえらい話題になった。大阪みたいな月極駐車場は東京にはなかったんです。『天気図』の入ってるデビューアルバムには、『ワラビーぬぎすてて』という曲も入ってて、誰も知らない言葉をしばしば使ってました。「ワラビーって何だかわからないけど、でも彼の価値観はこうなんだ」と思ってもらうことでコミュニケーションをつながれへんかなという感じで。
 大阪の風景でいうと、人ごみとか、クラクションの音とか、街の風景で音が聞こえてくると僕は必ず、高島屋の前から南海通りに入っていく、あの交差点がまず思い浮かぶ。僕は大阪のディープサウスに生まれて、南海高野線で通学してましたから、渋谷もニューヨークもパリも経験してるけど、結局あそこに戻るんですね。大阪の匂いとか気配とか理屈じゃない部分、僕が多感だった時期に強烈に刻まれたものにやっぱり返っていくんやなと、最近つくづく思うんですよ。恋愛もそうで、初めて女の子と手をつないだ時、汗ばんだ手を離したいのにタイミングがつかめない、それだけのことなんやけど、それを超えるようなどきどきする体験ってなかなかない。歌詞を書くって、そういうドアを抜けていくようなところがあるんです。

──歌詞はどこから生まれる?
 例えば学生時代に阪急今津線に乗ってたんですけど、車窓の景色がどんどん流れて変わっていった。僕は流れたくないから、とどめようとする。それが自分の中でドラマになった。「(即興の歌を口ずさみ)流されてく街の中で変わりたくない ガラス越しのコーヒーは……」とどめようとするからせつなさが自分の中で逆流する。旅の中で生まれた曲、周りのスピードの中で自分をとどめようとする中から生まれた曲がけっこうありますよ。オリンピックというアルバムの中の『夏渡し』という曲がそれです。八〇年代後半、貨幣価値がどんどん変わって、エンターテインメントの世界にいた僕も周りが怒濤のように流れていく中、そのスピードにさからっているようなところがあった。一見静かな曲だけど、自分の中ではゴーゴーと音が鳴ってたんです。
 今振り返ると、九〇年代の頃のことより当時のことがすごくビビッドに思い浮かびます。僕は私小説的なアルバムをつくったり、ばーんとはじけて超ポップなところにいったりしてきましたけど、何年かのサイクルで自分の中でローテーションしてるんやろうね。デビューアルバムをつくってた半ズボンはいてた僕は現在の僕に「ちょっと重いんじゃないの」と言い、今の僕は「ちょっとあなたは軽すぎるよ」と自分の中でキャッチボールしたりもする。それを一八年間、やってきたんですね。根っこは変わらないと思うけど、その時々で色を変えながら、ぐるぐる回って螺旋みたいに年を重ねているんやなという感じです。

──年代に応じて歌詞も変わってきた?
 毎日変化してるんですけど、他人から見ると、僕はすごく変わったつもりやのに変わってないと言われたり(笑)。ただ僕の世代は媚びるのは許せない。同じものを見てきた世代の、にじみ出てきた色とか匂いを大事にしながら、自分にしかできない空気感で勝負していきたい。一言で言うと、本気で思ったことを軽く言おうよ、ということかな。その時に、自分が責任を負う部分と突き放す部分がしっかりしてないと、それが言えない。それができたら、ちゃんと聞く人は聞いてくれてると思う。その点については僕はシビアやったし、寛容ではなかった。でも寛容になってしまったら、歌をつくる感性が鈍ってしまうんです。

──最近の世代の歌詞は?
 面白いと思いますよ。昔はサビでネイティブが聴きとれない英語を歌ったり、恥ずかしいケースが多かったんやけど、今はそんなことない。韻もきちんと踏んでたり、摘まれるのを待ってる花というか、聴く側に能動的にさせる歌が多くて、うまくやってる。ただ、やや語彙が狭くなっていますね。誰もが知ってる言葉でコミュニケーションしようよ、ということなんやろうか。僕が八〇年代にやってた歌詞とはそのへんがちょっと違うけど、それはそれでひとつの文化かな。

──大阪のアーティストについては?
 ロスでレコーディングした時、なんでこんなにピアノの音が違うのと思った。基本的にバイブレーションがちがう。aikoさん、花*花さんとか大阪のアーティストの感覚は東京を通り越して、海外に近いんやね。僕の中にはノリの良さとか、本音じゃなきゃ嫌というのがあるけど、これは大阪の血みたい。そういうのってすごい面白いじゃないですか。だって自分でも、なぜそうなんだって解明できないでしょう。もちろん、それは単に大阪出身だからということやなくて、マインドの問題ですけどね。その部分はこれからも大事にしていきますよ。

 

(大阪人 2001年4月号)
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