私の神戸

ステージ上で弾けていた。歌っている間、肉体はほとんど静止することはなかった。踊り、走り、跳ね、軽快なMCで客席を湧かせる。ファンも弾けていた。1曲目から総立ち。40歳の大江千里の歌に酔い、劇場に充満したあたたかい気分に包まれていた。ミレニアムの最後を締めくくる東京・新大久保の東京グローブ座での連続公演。そのリハーサルの合間を縫ってインタビューに答えてくれた大江千里さんは、とてもリラックスした表情で、やわらかな関西弁を織り交ぜながら、神戸について、音楽について語ってくれた。

 昨年の9月6日、神戸国際会館でコンサートを開いた。この日は大江さんの40回目の誕生日であり、この年の全国ツアーの皮切りでもあった。

「誕生日のコンサートが神戸でできるって聞いて、う〜ん、何かぐっとくるものがありましたね。あの頃のいろんなことを思い出しながら、選曲なんかを何度も考え直しました」

 あの頃とは20年近く前、関西学院大学在学中に本格的な音楽活動を始め、プロデビューを飾った80年代前半の数年間のこと。大江さんにとって神戸は特別な街だった。

「学生の時、ユーミンのコンサートのチケットを買って、楽しみにしてたんです。それがバイトで押してしまって、開演時間ぎりぎりになり、文化ホールへ向かって坂道を汗いっぱいかきながら走って行ったんですね。お腹が減っててクラクラして、立ち止まる。すると風が吹くんですよ。山から海に向かって風が。その時、なんか自分が物語の主人公になったみたいでね」

 神戸の思い出は、と聞いて、即座に答えてくれたエピソード。大江さんのイメージとしての神戸原体験かもしれない。

「母が神戸生まれで、年をとったら神戸で暮らしたい、神戸ってエエ街やという話を毎日のように聞かされてました。それで神戸に対する憧れがすごくあって、過剰に膨らんでたんでしょうね。その頃は歌を書いて自分を表現し、何者かになりたいという思いでいましたから、”ドラえもん”のどこでもドアじゃないけど、イメージで膨らんだ神戸のシーンを切り取って、そこを入り口にしたんだと思うんですね。神戸、阪神間で右往左往しながら生活していた自分を表現し、残したいという思いが当時作った曲になったんだと思います」

 大江さん自身は大阪生まれ。神戸に対する思いは少し屈折している。

「僕は関学でしたからね。梅田駅から阪急電車の神戸線に乗って西に向かうと、だんだん神戸に近づいてきて、イメージやメロディーが頭に浮かんでくる。『渚のONE-SIDE SUMMER』とかね。ところが、神戸の一歩手前の西宮北口駅で今津線に乗り換えなきゃならない。すると今度はクルッ!と進行方向が変わって北に向かっちゃう(笑)。結局、毎日、神戸にアクセスしてるんだけど、神戸には行きつけない。途中で別れて行く切なさ。憧れていても手に入らないもの…音楽的にも自分の『旬』の時期に神戸にかすってたんだけど、そのかすり方がすごく痛くて。それが何なのか、今も書き綴っているけど到達できないでいます」

 40歳を目前に、大江さんは自主レーベルStation Kids Recordsを設立した。自分の歌と年齢とのギャップに悩んだ30代の一つの区切りだった。約1カ月後、先の神戸国際会館でのコンサートの日、40歳のバースデーに19枚目のアルバム「Solitude」を発表。

「自分の実年齢に合った曲をしっかり書いて、同年代の人に『いいねえ、切ないねえ』と共感してもらえるものを作ろうと思い始めた時、そうだシンガー・ソングライターとして生まれて育った神戸でステージをやろう。正直言って怖い、見たくない部分もある、不安もある、でも帰ろうと考えたんですね。長く東京に暮らしていて、もう神戸からは離れているのに、何か、離れたくない症候群のようなものがあって、それに区切りをつけようと。自分はもう神戸には戻れないけど、大事な部分はいつも引き出しにある。『イングリッシュマン・イン・ニューヨーク』じゃないけど、東京にいて作る等身大の歌の中に、神戸という言葉を使わなくても神戸のあの風景や気分を、こうチラッチラッと行間に表現していけばいいんじゃないかと思えるようになってきました」

 星の数ほどいる音楽家の中で、大江さんほど神戸への思いを強く抱き続けている人はいないかもしれない。大人としての陰影が増した大江さんの歌と肉体から、青春期の甘さと切なさ、そして神戸の匂いが消えることはないだろう。

 

(大人の神戸 2001)
(注)Solitudeツアーの初日は神戸国際会館ではなく福岡DRUM ROGOSです。
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