旅のエッセー

1.アメリカ温泉体験

 一風変わった温泉好きにたまらないのが、五月のコロラド温泉である。
 ネイティブアメリカンのプエブロを訪ねてニューメキシコ州を車で回っている最中、ハーバードの学生が実際に旅をした経験をつづった"Let's go"という本をぱらぱら見ていると、やたら温泉マークが頻出している場所があった。とにかくほこりっぽく乾燥している砂漠の一本道に少々疲れ気味だった僕は、ゆっくり湯につかりたくなり、リオグランデ川を北上してその地を目指すことにした。アメリカで温泉に入れる。それだけで胸は高まった。
 一年の多くをスキー客でにぎわせているというコロラド温泉は、リオグランデ川沿い上流にある。川のほとりに大きな池があり、ここがすでに温泉なのである。そして、そこに流れ込んでいるお湯というのはその上の池から流れ込み、で、さらにそこに流れ込んでいるお湯はそのまた上の池から流れ込み…と。いわゆるコロラド温泉は、温泉界の段々畑とでもいった様相なのである。
 しかし、オフシーズンのせいか、いったいアメリカ人は露天ぶろがあまり好みじゃないのか、人一人として入っている様子がない。誰もいない段々温泉はそのてっぺんのわき出しから、じゃああと寂しい音を辺りの山々にこだまさせながら、下へ下へと落ちていっている。
 とにかくここまでやって来たのだ。いざ水着を装着して露天ぶろへ。高く晴れた空には入道雲が広がり、その下に西部劇っぽい世界が広がる。
 さっそく足の先で様子見。一番上はさすがに熱過ぎたのでその下へ。そこもまだ熱いのでその下へ。段々を下り下って、結局一番下の池からお湯につかり始めることにする。
 池の淵を蹴ってターンすると、何かきらきら光るものがいっぱい目に入った。自ら温泉につかる地獄谷温泉のサルたちは有名だが、なんとここにはたくさんの小魚たちがいる。手ですくおうとするとさっと逃げるのだが、僕がじっとしていると肩やひざのあたりでむこうもじっと結構な湯を一緒にいただいている。嵐でも来ればリオグランデ川に流れ込んで、いずれはカリブ海をさっそうと泳ぐ魚に成長するだろう。せいぜい湯あたりに気をつけてくれたまえ。
 コロラドの青い空。岩場や苔、竹、ヒノキといったわびさびとは程遠い、思いっきりアメリカンな温泉。水着を付けて入るのは混浴だから仕方がないが、タオルで隠し隠し入るいつもの温泉情緒ってもんが全くない。しかし考えた。いったい誰が最初にこれを掘り当てたのか、この湯船の気持ちはやっぱり万国共通なんだなと思った。
 将来のカリブの出世魚たちと湯につかり、わびさびとは程遠い大味なアメリカ温泉体験をした僕だが、自分で探し当てた満足感でいっぱいだった。忘れらない旅である。

2.メキシコ 遺跡紀行

 今回はメキシコのユカタン半島。マヤアステカ文明の四つのピラミッドをまわった話である。
 一つ目はチチェンイツァ(井戸のほとりの水の魔術師)の壮大なピラミッド。聞くと見るとは大違いでかなりでかい。神殿のチェックモール像の手には、昔いけにえの心臓が供えられたという話である。なんか血で血を争った歴史の重みも、ラテン系太陽の下ではあまりにもあからさまでドライである。ひとつひとつの石の彫り物の顔もキュートで、ポップアートのように見えた。
 二つ目はウシュウマルのピラミッド(魔法使い)。ここの神殿は女性の腰のラインのようにふっくら見えるのに、実際は急勾配で命綱に捕まって登る。高所恐怖症気味の僕にはかなりしびれる。あたりのピラミッド群は夜になると赤黄緑にライトアップされ、スピーカーからは詩の朗読と音楽が響く。
 悠久の時の流れと朗々と訴える詩の旋律が、運転に疲れた身体をぼおっとさせ、頭はトランス状態。
 なんかみそぎをはらった気分でおごそかに次の場所へ。三つ目のパレンケ(密林のピラミッド)はひっそり山の緑の中にある遺跡だ。オペラのセットを自然の中に散らかしたよう。で、実はてっぺんから神殿内部に下りる細い階段がある。かがまねば入れないくらい低い天井。奥から逆に上がってくる人と擦れ違うと抱き合うくらい狭い幅。しかもすごい暑さと湿気。でも人々は一様に笑いながら「ソーリー」などと交わし合ってハッピーそうだ。いま、石が崩れたら終わりだと思いながら、「何でここに来たの」(欽ちゃん風に)と言ったら、白人のおばちゃんに「イエス!」と返された。"遺跡の輪!"である。
 八世紀に全盛を迎え、九世紀にはそのほとんどを突然放棄したマヤ文明だが、なぜ突然「やんぴ」なんだという疑問も強く残る。エナジーぶりぶりの建築や彫刻に見られる大胆な写実は、彼らがいかにエモーショナルで繊細な人たちだったかをうかがわせる。遺跡のあちこちに見られるノミひとつで彫られたであろう浮き彫りは、彼らの中にたくさんのピカソやマチスやダリがいたことを思わせる。手でさわるとぽろっとこぼれ落ちるほど無造作にあるだけだったりして、こっちが結構びっくりする。
 最後はメキシコシティ郊外のテオテイワカンに行き、ピラミッド遺跡の旅を締めくくる。公害で街中スモッグだらけの中、最も観光化された「太陽と月と神殿」の斜面を一歩一歩上がる。
 成田で買った二千円くらいのデジタルウオッチを、自分で売り歩いているピラミッドバッジ十個と交換しろという土産売りのおやじがいたので、思わず「二十個」と言ったら商談成立してしまった。ぶつぶつ独り言を言いながら、頂上で写真を撮っていて、ふと足元を見ると、二、三十_以上の高さの細いステップを僕はいとも簡単にぴょんぴょん歩き回っていた。

3.サンセットマーキースホテル

 ロサンゼルスのサンセットマーキースホテルは、ミュージシャンフリークにはたまらない伝説の場所だ。
 以前、MTVでヒューイルイスが「おれたちってシスコの音にこだわりたいんだよね」とかなんとかインタビューに答えていたが、その場所はサンフランシスコではなくロスのマーキースのプールサイドだった。つまりそれほどここは有名なアーティスト御用達系ホテルなのだ。
 ちょっと誰かと会うならマーキース。どうせインタビューするならアーティストも喜ぶマーキース。音楽雑誌で見るミュージシャンの写真のバックに、このホテルのプールサイドやピンク色の瀟洒な壁が写っていたのを知っている。
「redmonkey yellowfish」というアルバムのレコーディングで初めてマーキースホテルに泊まった僕は、毎朝起きると眠い目をこすりながらも、ホテルの中央にあるプールへと通った。スタジオに入る前の小一時間ここでのんびりエクササイズしようと決めたのだ。
 プールサイドにはヒューイルイスの背景に写りこんでた、あのレストランがあるではないか。コンチネンタルブレックファーストとカリフォルニア産オレンジ100%のジュースが飲めるその場所で先に自分のオーダーを済ませ、僕はのんびりプールに入る。
「今日はフィルコリンズがチェックインしたらしい」。水に浮いてても耳栓してても、その手の会話は聞こえるもんだ。へええ、あのイージーラーバーのフィルがチェックイン?(知り合いでもないのに)すいすい背泳ぎで「エクスキューズミー」なんて追い越させてもらった。相手がちょっとミーハー入りますが、イギーポップ。大江千里に抜かれる背泳ぎのイギー。か、格好悪いかも。
 そういえば向こうでエンジェルヘアーのスパゲチをくるくる回して食べていらっしゃるのはキムベイシンジャー先生では。でも「"ナインハーフ"よかったす」なんて、言えるわけないか。プールにちゃんとかけ水をして足先からゆっくり入っていらっしゃるのは、あのギターの名手ジェフベック。一方、エレベーターに乗り合わせたのはあの世界的エンジニア、ヒュウパジャム様。
 とどめは、オールマンブラザーズ再出発コンサートへ行って感動に酔いしれて帰ってきたらマーキースの前に、何とそのグレッグオールマンそのお方が。「す、ステイボロズ、ぶ、ブルース、よ、よかったっす」。あわてて駆け寄って両手を握ると、倍くらいの強い力で握り返してくれた。
 サンセット通りからちょっと入ったところにあるマーキース。人をすっかりグラミー賞授賞式にでも来ているようなハイな気分にさせてくれる。かなり通受けなホテルだ。
 今週から僕は香港っす。

4.ドパワフルな町 香港

 香港三泊四日の旅から帰ってきました。今まで世界のあちこちのチャイナタウンが、なぜあんなに活気があるのか不思議だったが、初めて触れた香港は九十八%の湿気以上にドパワフルでキッチュで迫る魚眼レンズでした。
 よく中華街の店先に北京ダックがだあああっとつるされているが、九龍の街角でも同じようなショーウインドーを見ながら、今まで強力なチャイナ信号を感じながらなぜそれを見過ごしていたのか。ロスでも、NYでも、長崎でも、神戸でもつるされていた、あの北京ダックの先の「どこでもドア」を開けてなぜもっと早くここへ来なかったのか。そう思うとなんだか悔しさでいっぱいになってしまった。
 世界で一番高価な壺も金もベンツも指輪も全部ここにある。なんて根拠もなく書いてしまうが、半端じゃない物や人の勢いが充満しててテンションが高い。どでかい看板、窓からさおを出して干しまくられた洗濯物、隣接した高層ビルの間にがんがん降りてくるジェット機。夜になると一斉に灯る莫大な数のネオン。もう負けそ。
 香港自体がぎとぎとにショーアップされた一大パビリオンな感じ。しかしながら香港で僕が会った人は皆、恥ずかしがりで素朴で好奇心おう盛でした。実は五月二十二、二十三日にNHKホールでやる僕の十五周年コンサートのビデオパンフレットを撮影していたのですが。
「ほらムービースターよ。映画の撮影よ」「きゃああ、玉置浩二じゃない」「いやん、私ノーメイクなの。写さないで」一応に皆さん立ち止まったり、こそこそ言ったり、照れてみたり。道をちょっと尋ねると「さっき教えてあげた店勘違いしてたの。本当はね…」なんてわざわざ追っかけてきて教え直してくれたり。
「私はセイリーンと言います。日本語勉強してます。あなたの名前何ですか」。いきなり話しかけてきた語学フェチの女の子もいた。試しに「なぜ日本語を習うのですか」と聞いてみると、「私は日本語を勉強する学生です」とにっこり笑われてしまったが、まあこれはご愛きょうです。
 コーディネートをお願いした辻村さんに、「普段仕事関係の人に教えたくない安くてうまい広東料理食べに行きましょうよ」と言ったら、「うううううむ」とかなり迷ってらしたが、ガーリックフレイクに埋もれたタラバガニがでてくる「竹家荘」(2783-8664)という店に連れてってもらった。
「地下鉄はどっから入るんでしょう」の漫才で有名な三球・照代の故照代さんそっくりのマネジャー、アリスさんはどこをどう切ってもちゃきちゃきの東洋人だが、名刺にはなぜかALICE LEEと書いてある。
 にらのつぼみ炒め、くらげのぶつ切り、しゃこの空揚げ、梅茶に白玉と、どれも文明開化の鐘がなる的おいしさなので思わず「デリシャス」と言ったら、アリスさん「誠に恐れ入ります」とていねいに頭を下げた。そしてすぐその後、「IS THIS RIGHT?」。僕に向かってぺろっと舌をだし、肩をすぼめた。
 カオスとハイテクと美味と人情。僕は香港のファンです。

5.古都トレド ビデオ撮影

 トレドはヨーロッパで最も古いスペインの都市。城壁で囲まれた市街は、まるで要さいのよう。この市の中心の広場では着々と僕のビデオの撮影の準備が進んでいた。相手役はマリア。二十歳。豊満な肢体に漆黒の髪が情熱的だ。巨大なクレーンも発注済み。
 さあ、石畳の広場では、やじ馬やエキストラであふれ返り、今か今かと緊張の時を待つ。太陽は昇り、雲一つない空にカテドラルの尖塔が浮かび上がる。
 広場を横切るロバも到着。画面に映りそうなコーヒーショップでは、緊張気味にテーブルを磨く店員。お土産屋の業者の間からちょろちょろ頭をのぞかせるおやじ。
「さあ、一回やってみよう」。監督が日本語で指示を出せば、即通訳の人がスペイン語に訳す。
「音楽、スタート」
 古い石造りの町並みにラジカセの音がこだまする。僕とマリアは路地の階段を駆け上がる。人々は手拍子でこたえる。さっきまで緊張の面持ちだった土産物屋のおやじも役者してる。子供たちもリズムに合わせ、体を動かす。僕を中心にどんどん人の輪が広がり、パレードがトレドの旧都を埋め尽くす。
 と、その時である。
「ちょっと待った」。監督が叫ぶ。音が止まる。
「ちょっとそれ短すぎない?」監督は現地スタッフが用意したクレーンを指して、そう言った。それもそのはず。巨大クレーンが空からワイドに僕らの表情に迫るはずが、よく見ると二_弱のレッカー車みたいなのが必死にカクカク動いている。
「気持ちはわかるんだけど、それじゃ入れ歯だっちゅうに」。一同作業中断。不安な面持ちで通訳を介しての緊急ミーティング。
 そのうち、このミニクレーンがトレド最大のものであることが判明。仕方なく、気を取り直してもう一度トライ。マリアも僕もスタンバイの路地に走る。
「盛り上がろう」。言葉は通じなくとも、身ぶり手ぶり。僕は胸の前でりんごをつかむようなジェスチャーをする。
 が、一体どういうことだ。マリアが露骨に「けっ」と言ったきり、僕を無視し始めたのだ。重要な恋人役が、ひと言も口をきいてくれない。これで、撮影はまたもストップ。僕は通訳の人に事情を話した。すると彼は意外にも「ああ」と納得したようにうなずき、「トレドのような田舎町の子はピュアですからね。マリアって胸が大きいねって誤解されたんでしょう」。おまけに「スペイン人は開放的に見えて敬けんなカトリックが多いんですよ」。
 度重なるアクシデントはまだ続く。スペイン名物シェスタタイムがやってきた。まだなにもせずして、みな家路をたどり始めたのだ。広場にはロバも眠っている。「ナタリー〜。ナタリー〜」。街の飲み屋の開け放たれたドアからフリオイグレシアスがこだました。

6.不思議体験 空港ホテル

 昔、旅慣れた誰かが、飛行機の上こそわが家と言っていた。またある人は、大事な友達が多くいる場所こそわが街だと言った。
 僕も思い当たるふしがある。中学に入って大阪から九州に引っ越すとき、生まれて初めて小型プロペラ機に乗ったが、一時間の飛行機の旅は大冒険で、雲を追い越してぐんぐん飛ぶジェット機が不思議でしょうがなかった。このときが住み慣れた街からはるか遠くに引っ越す最初の体験だったが、方言も習慣も全く違う場所で自分がゼロからスタートできるんだということも初めて知った。
 仕事を始めていろんな場所へコンサートツアーで行くようになり、大好きな飛行機であちこちを転々とすることが多くなってきた。
 旅は振り子のように大きく揺れたり小さく揺れたり、今日も僕をどこかに降ろし、部外者の気楽さで日常と非日常の間を行ったり来たりさせる。
 ツアー中の朝、目を覚ますと布団の中で「あれ、ここどこだっけ」って思うときがある。自分で一瞬どこにいるのかわからなくなるのである。これがエスカレートすると、たとえばニューヨークの地下鉄なんかで、このままふと次は四ツ橋あたりに着いちゃったりなんて真面目に思ったりすると結構楽しい。
 イメージのドアを開けて、昔見た印象的な瞬間と現在とをつないで、なんか自分の中で勝手にこねくり回して関係つけていったりもする。自由な自分だけの地図と時間軸。そういえば、このまえ千歳の空港ホテルに泊まったとき、最終で降り立った人たちがすっかり出払ってがらんとした空港の上に滞在するという不思議な体験をした。
 それはまるで国際線の飛行機の中で一夜を明かす気楽さとは程遠い心もとない体験だった。しーんと静まりかえった空港は、しばし羽を休める飛行機たちの寝息でも聞きながら、今日一日空港を行ったり来たりした人々の足音を思い出しているかのようだった。
 だれもここに泊まらず通り過ぎていくだけの場所に一晩泊まりながら、昼間は人通りの多い交差点の真ん中に夜中ベッドを引っぱり出して、星でも見ながらうとうとしているような気分でもあった。
 朝起きて空港内のレストランで朝食を食べながらふと周りを見回すと、だれもがこれから旅立つもしくは旅から帰ってきたばかりの人たちだった。
 自分の部屋に戻りながら飛行機の離陸する轟音を聞いて、無性に寂しくなってきた。今まで経験したことのないとらえどころのない寂しさだ。
 旅は行為だから人の心の見えない場所には残っていくが、空港という場所は現実人々がいくら昼間ひしめきあっても、ここは単に人の通過地点にすぎない。僕はその日の自分の宿の玄関を激しく行き来する人たちを見ながら、僕もまた数時間後には旅人としてここをチェックアウトしなければならないことに気がついた。
 一度またいつかきっとどっかの空港ホテルに泊まってみようと思う。それまでは大好きな飛行機で、まだまだ日付変更線をあっち行ったりこっち行ったり旅していたい。
 さて、来週はがらっと変わってジャマイカ。お楽しみに。

7.ジャマイカ レゲエの街

 ジャマイカのネグリルは七〇年代白人ヒッピーたちがはいかいした街である。レゲエをフルボリュームでかけながら走るタクシーの窓に、その残党と思える男たちがちらほら黒人に混じって歩いているのが映る。
 僕が交渉したタクシードライバーの名はブライアン。ばりばりのネイティブジャマイカンで最近離婚したばかり。五歳の娘がいる。「ボブマーリーがそんなに好きなら1日三十_(一九九五年当時のレートで三千円ちょいくらい)でおまえの専用ドライバーになってやる」。
 だいたい例によって僕は三泊四日の短い旅だから、地元の強いロコが一人ついてると鬼に金棒だ。おまけに手持ちのキャッシュは三百_弱。僕はこんな身軽な旅を四年くらい前、NYにアパートを借りて、そこを拠点によくやった。「いざという時はカードがあるでしょ」と自分に言い聞かせるが、いつも思い立ったらの旅なので、この旅は本当にきゅうきゅうだった。
「夜二時くらいからレゲエの催しがあるけれどいかへん」「頭ドレッドヘアにしてみいひん」。たくさんのジャマイカンが明るく僕に声をかけてくれる(なぜかパトワイングリッシュは関西弁に聞こえる)。最初は「NO!」と断っていたが、あまりにしつこいので「ほんまに金ないねん。おまけに時間も少ないねん。でも滅茶苦茶楽しみたいねん」というと、小さい男の子が「リスペクト」と言って、緑と黄色と赤のジャマイカカラーの三色針金で作った指輪をくれた。僕がお金を払おうとすると「NO PROBLEM」と言って受け取らない。なんか胸が熱くなった。ええ話やないかい。
「おれのかみさんな、ホイットニー・ヒューストンそっくりやってんで」。ブライアンは随分まだ奥さんに未練があるようで、「NYなんか行きよって…、娘とおれ残してよ。どう思う」。僕はうっと言葉に詰まってしまい、「なあ、明日僕とダイビングでもせえへん」「ほんまかいな。それやったら、おれの友達がボート出したるわ。二十_や。とりあえず明日ボブマーリーのテープ持っていくわ」って切り替えがちょっと早すぎるっちゅうに。
 さあ、翌朝海に、日本人見物を兼ねてネグリルの男どもが集まった。「これを積んでけ」と特大CDラジカセでブジュバンダンをかけるやつ。「命の次に大事なんや」と指でマイCDを指す。「サンゴは絶対傷つけんなよ。おれたちの宝やからな」。
 皆に送り出された舟は出たが、一旦ブライアンの友達がどっかの岸辺で手を振ってたりすると、たちまち自称キャプテンことブライアンの友達の操縦士は、舟を容赦なく岸に戻す。そのうち舟ががくんと止まったかと思うと、そいつジョロジョロ海におしっこをし始めた。おのれ。こっちは時間がないっちゅうとんのに。マイペースすぎるっちゅうに。
 結局雨が降り出して一同浜辺に引き返す。しかしヤギ肉を食べたり、古い民家を貸し切ってのダンスホールにいったり。
 ボブマーリーがキーワードで、随分楽しい旅ができた。ブライアンとはこのあとはがきでやりとりしたが、その後、彼がはまっていたのは日本人レゲエアーティスト、ナーキらしい。

8.スイッチOFF のんびりハワイ

 スイッチをOFFにしたりONにしたりがすごく苦手だった僕だが、ハワイを訪れてからOFF状態の気持ち良さを知った。
 昔はのんびりしようと二、三冊の本を持って南の島へ来ても結局あちこち飛び回って自分を"無の状態"にできなかった。全部スイッチを切り、電話が鳴ろうと誘いがあろうと何にもしないでただ、ただ、時の流れに身を預ける。それは何とぜいたくで貴重な時間であろうかと思う。
 ハワイに最初行ったのは、パックツアーで妹と一緒だった。まず空港に朝着くと、時間つぶしか旅行代理店と懇意のショップに連れて行かれ、アロハやマカデミアナッツを物色させられた。チェックインまでの時間、聞こえはいいが、めちゃくちゃまずいウエルカムランチを食べ、新婚さんに混じっての記念撮影、パールハーバー見学、と鬼のように連れ回された。
「だれやハワイに年末来たいなんて言うたん」。僕はカラカウア通りでほとんど切れかけていた。「自分がついてきて言ったんやん。たのむで」。妹は冷静に言い放つとマカデミアナッツをぽんと口に投げ込んだ。結局十二月三十一日のニューイヤーのカウントダウンは、右も左も僕らのような大阪弁の団体に挟まれて、なんだかどこにいるんだかわからないような年越しであった。
 そこで二回目のハワイは、小さいアパートを借りて一カ月くらい曲書きのために滞在した。冷房なしのシャワーのみという部屋で心配だったが、毎日窓を開けると風がすうっと抜けていくのが気持ちよく、一階のバルコニーでパンとコーヒーやジュースを自由に頂けるというのもおおアメリカって感じで、すっかり気に入ってしまった。一泊日本円で四千円くらいのアパートでぜいたくであった。
 観光客の多いメーンストリートから少し入ると、安いコンビニやらコインランドリーがあり、それを一歩外に出ると緑の公園と青い海と休めるベンチがある。珍しい鳥がチュンチュン寄ってきては、僕がこぼしたパンくずをつまんでいく。時間がゆっくり流れる。十日くらい何もしないでボーっとしてたら、ある日鏡に映る自分の顔がやけにふにゃふにゃなのに驚いた。
 朝ゴーグルをつけて目の前の海に入ると、小さい熱帯魚がいっぱいいる。少しワイキキから離れたところにある無人島に行ったり、突然スコールにあったり、地元の人がよく行く焼肉屋を見つけたりしながら夢のように時間が過ぎていった。
「ハワイには、究極のバランスがあるんですよ」。サンフランシスコから住み着いたという郵便局員の女の子は言っていた。ハワイの古本屋で見かけたアロハシャツの本のページの最後に、おじいちゃんとおばあちゃんが手をつないでアロハを着ている写真がある。人生究極のリラックスの絵柄である。

9."分解"可能な優れものバッグ

 よしだやかばんから、でかいバックパックが出るらしい。取り外しがきき、かなり便利らしい。そういえば、最近ちゃんとした旅支度をしなくなった。なんか旅先にないものってほとんどなくなったし、なるだけ動くときは身軽でいたいしって考えると、持っていくものって自然と限られてくる。
 これじゃなきゃだめだっていうマイ歯ブラシ、マイヘッドホン、せいろがん(これには重宝します)、メモ帳、高校から使っている三省堂英和辞書(手垢まみれの)。あとはもうすべて現地調達だ。ソックス、下着、電池、文庫本、CD、野球帽…。
 今回出るという優れものかばんは、とにかく四つにも五つにも分解する。たとえばウエストバッグだけ必要なんてことになれば、その部分だけ身につければ良い。もちろん命の次に大事な順にまとめて、身体の中心部分から配置するも良し。まさにこんなバッグ欲しかったって感じです。(とはいっても発売日も正式に決まってないらしい。絶対ほしいんだけど)。
 旅の服装ってのもなるだけ着なれた、とにかく目立たない、そして身軽ってのが一番良い。着の身着のまま普段の延長戦ですすっと旅に入っていければ、たとえば昨日のスタジオのたばこの匂いに、赤道上空で気がついたって良い。
 寒いところ(一般的に)に行くならば、脱ぎ着ができるもの。暖かいところなら、Tシャツとかを多めに。洗濯もホテルのシンクでやってしまう。旅先で買い足す日常雑貨や薬は、意外におみやげがわりにもなる。オーガニックの口に含むタイプの風邪薬、変わったペン、カラー綿棒、珍しい絵はがき。
 旅写真も撮ると、あとで見返すと結構笑えていいものだが、最近は両目でシャッターをかっと切り、忘れないよう頭で復唱し、そのあとマイメモ帳に書き込む。あとから読むと随分身勝手な解釈や勘違いもあるが面白い。
 ハーレムでソウルフードのヤムいもを食べた感激、モロッコの市場の騒音のすさまじさ、マニラの映画館の異常な湿気、松江城からのなだらかな眺望、ボンベイ(現ムンバイ)のめちゃ辛いカレーサンド、皆僕にとってはくしゃくしゃなしみつきの紙切れとともにある。ニューオーリンズでミシシッピ川を渡ったとき、どっかのおやじに足を踏まれたこと、ヒューストンで見た男の幽霊(やはり南部男は背がでかかった)。
 最近は、毎朝晩一日二回の犬二匹を連れての散歩で通るケヤキ並木が、ものすごい勢いで緑を茂らせて、これもうんこを拾うビニール袋と少しの小銭しか持たずのわずか三十分の小旅行だが、なかなか飽きない。
 そろそろ次の旅用に新しいバックパックを買おう。それを担いでニューアルバム「ROOM802」のツアーへ出よう。ぜひどこかで会えるのを楽しみに。
 二カ月間の旅日記、付き合ってくださってありがとう。次週は番外編を。

10.縁は異なもの ニューヨーク

 今週はおまけの一回。旅の話の最後はNY(ニューヨーク)です。
 僕が最初に行ったNYは今から十年前、マイナス一〇度を超える寒さでした。しかもクリスマス後で人はほとんど休暇中です。街中に残ったツリーもJALのショーウインドーに折りづるがあるくらいで、路上のマンホールからもくもくと出る湯気以外は、NYは眠ったような静けさだったのです。
 右も左もわからないけど、あまり大胆に地図を街中で広げるのもなんかなと思い、ビルのすき間に隠れてこそこそ現在地を確かめつつ、一人で地下鉄を駆使してあちこち行きました。風が吹くとひええと大声を張り上げたり、歯をがちがちいわせたりして。
 そして、そんな男が一人いようがいまいが全く関係なくNYシェラトンホテルの屋上の電光掲示板は、マイナス一六度というデジタル表示を淡々と浮かべ、僕はそれをミッドタウンの歩道から一人ぼおっとさみしく見上げていました。
 ただ、人生わかんないもの。そのあと偶然知り合った女性のアパートに僕はなぜか転がり込むことになり、その女性は女性でさっさと前から決めていたロンドンバカンスに旅立ち、僕はいきなりダウンタウンのアパートのかぎを渡され、そこで雪が降る窓を全開にして、部屋に置いてあったピアノで「APOLLO」という曲を完成させたのです。
 彼女から紹介された全く初対面の人とヴィレッジボイスで調べた年越しグレイスジョーンズライブに突入。デリ(コンビニみたいなもの)で買った寄せ弁当を雪の公園に持っていき、ちょろちょろ寄ってくるリスと一緒にのんびり食べたり(しかし外はマイナス一六度ですよ、マイナス一六度)。で彼女のアパートの隣にはビースティボーイズのメンバーが住んでいて、ちょうど彼が引っ越しだったので、彼のトラックにレコード積むのを手伝いましたがな、わたし。
 まあそれは置いといて、縁は異なものと言いますか、そのあと僕もすっかり魅せられたNYにアパートを借りて住み始めるようになってから、偶然電気屋さんでまたその彼女に会い、今度は僕の小さな部屋で一緒に曲を作ったり、僕のアルバムにコーラスで参加してもらったり。
 僕にとってのNYは不思議な友達みたいな場所で、人とばったり会ったり知り合ったり、ちょっと大阪のミナミに似てる。元気のあるときは倍元気になり、しょげているときは余計落ち込む。
 NYの人たちは、だれがどこから来ようが全く関知しないようだ。でもいったんNYに来たらだれでもその日からニューヨーカーになる。
 いつか将来NYにまた住むような気がしている。そんな予感がして、家財道具は友人たちのアパートに点々とばらけて置かせてもらってます。
 

(1998年 読売新聞)
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