■長岡寛厚氏の近況です。
メルマカ12号拝見しました。11月は部の応援で人参等資材購入に
駆け回り試合応援に上京し、この5日には又全日本対抗試合応援に
又上京と多忙に過ごされ、秋にはシルクロードの一週間の旅を実現
されたのを知り、貴殿の旺盛な活躍ぶりに感心しています。
特にシルクロードの旅は我々日本人の手の届かぬ夢の行程と言われる
もので、戦前の日本人のあこがれのハワイ旅行以上の旅で、良くぞ実現
されたものと感心しています。
特に小生は現役時代病後の療養に毎年夏比叡山の三泊四日の夏季講座に
十数年参加で精神修養をし伝教大師のシロクロードの業績も学んだので特に印象が深く感じています。
最近は特に足腰が弱り5分と立ち続けるのも困難な体調に閉口しています。
写真は結婚63年記念 10 月四条 美濃店にて では又。 平成24年12-3 19:14 京馬町 長岡
   
長岡寛厚氏より恒例の近況メールです

先日健蹄会のメール拝見し寛厚 遺文史掲載を見て思い出し、インターネットで
長岡 寛厚を検索して見た所3Topをクリックした所、掲載記事が以前と変って
健蹄会のホームペイジそのものが掲載されて、記事が時折更新されている事を
しりました。
小生この6月は91歳より無年金生活をつづけています。それは卒寿を迎えた折
人生の終着駅に達した事を自覚し、長生を感謝するとともに報恩の方法として
健蹄会と母校金沢一中同窓会に毎年10万円宛て寄贈し続けています。
もうこの老齢では旅行も出来ず、食事も半人前で十分で、趣味のゴルフも
月一回が限度となったので、年金が一回減っても影響が無く、安心立命の
心境が心を豊かにしてくれ、來性は地獄行きは無いものと自己満足しています。
写真は農園と感謝状。
では又。  平成23年7月4日  12:04   京馬町  長岡

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■長岡寛厚先輩(昭和
16年卒)の「寛 厚 遺 文 集」より

  郷土史(石川県)「加能人」に掲載された寄稿文より転載させて頂きました。

   *なお、原文は<縦書き、旧かなづかい>を一部変更。

※平成17187歳)田辺厩舎 初乗り会にて 

・・・「米寿を迎えて」 平成177月・・・

平成141月号に7回目の午歳を迎えて「バーディの午歳」の記事を掲載して頂きましたが、今年は米寿「ゴルフで言えばイーグル」の年を迎える事が出来ましたので有難く一筆啓上させて戴きます。

お陰様でここまで長寿出来た以上はせめて卒寿「ホールインワン」迄は頑張りたいと思いおります。

先般JR福知山線尼崎駅の列車事故の如く本人には何ら過失がないのに貴重な人生が失われる時世なので、人間の生命は如何ともし難く天命と思わざるを得ません。

今は時折遠い昔の事どもが懐かしく思い浮かんできます。小学一年生は父が欧州留学中なので、母の実家仙台市で過ごしましたが、当時の仙台市の小学校のクラスでは服装は着物で洋服はクラス3~4名でしたが、二年生の金沢「付属師範」では全員洋服で、金沢では市電が動いていたが、仙台では市電が工事を始めた頃で加賀百万石と仙台伊達藩五十五万石との差に驚かされました。

弥生町の市営住宅では我が家側四軒並びの向い側は十軒余りの長屋で我が家の裏は広い広場で、当時珍しいラジオを10メーターほどのアンテナを庭に建てて聞き、又父土産の8mパテ・ベビーの映写を広場から見えるようにしたので、広場が人出で賑わったことも思い浮かびます。          (注:仏パテ社の9.5ミリ映写機)

小生小学生五年生の時に今のイジメの問題で六年生を「肥後の守」のナイフで切りつけ、父が教育者の為大事件となり自宅が新聞記者で一杯になりお目玉を食らいましたが、幸いに軽傷なので新聞記事にはならず転校はしましたが、金沢市の小学校はそれ以来ナイフの所持は禁止となりました。

金沢一中時代は校舎とグランドとの間が本多町通りになっていたので毎朝近くの本多男爵家の美人令嬢が第二女学校に通学で通る姿がグランドにいる桜章男児の血を沸かせて一同大騒ぎしていたことも思い出されます。中学三年生の時、伊藤校長の排斥運動がストライキに発展し、首謀の五年生は出校停止で四年生と三年生は謹慎となる事件がありましたが、全国でも古参の伊藤校長を愛知一中より文教刷新の為迎えた訳ですが、多数の老齢教師を刷新し修学旅行も禁止したので生徒が反抗してストライキとなったもので、結局校長は退任され前教頭の青地校長と交替されました。当時の金沢は祝賀のたびに市中の提灯行列が有り賑わいました。

このストライキでは別の経験もありました。小生同志社大学生の折軍事教練の演習で鴨川の流水の中を腰まで水につかり渡らせられた事もあり、時局ながら軍事教練が厳しくなったのに反抗して学生が中間試験をボイコットしてチャペルに集まりストに突入した折、小生はスト反対を表明して脱出した事も懐かしく思い出します。

大学時代は馬術部に所属し「深草の騎兵隊」で軍馬を借用して練習していましたが、当時の軍馬は兵器同様貴重品扱いなので拍車で馬腹に傷をつけぬ様に苦労しましたが、或る時小生が下級生の障害飛越を指導している折、馬が飛越に失敗し転倒頸骨を折り即死した事件があり、是の処理で担当の兵隊には大事な兵器を無くされたと憤慨され下級生は殺されんばかりに驚かされ身の危険を感ずる程でしたが、幸い中隊長の温情で無事解決できたことも深い想い出となっています。当時は満州や中国の戦地に送る軍馬が徴集され騎兵隊に集められたので、この馬の調教に学生も応援させられた為暫時登校せず騎兵隊に通い続けた事も思い出されます。

大学卒業後は大阪商船の“あるぜんちな丸“に乗船して大連航路から南方輸送の軍徴用船勤務を経て、日米開戦前夜の昭和16127日京都祇園で学友の送別会を受け開戦の8日は大阪商船本社で社長以下諸氏の激励を受け、父の任地岡山六高の官舎に帰宅し10日宇品港より輸送船で釜山港に上陸し、鏡城 重隊に入隊し又馬との生活が始まり学生時代の馬術の腕を活かしましたが、19年夏中支那船舶輸送司令部漢口支部に転属になり度重なる空爆にもうまく生き延びて株州で終戦を迎え洞庭湖湖畔で一年労役で過ごし21年夏無事帰還できたことは人生最大の幸運を手にしたものでした。

(注、あるぜんちな丸:世界一周航路を巡る豪華客船、12,800t、全長166m

その後関西汽船勤務中半年目に肺結核で2年の闘病生活を送り左肺肋骨を8本切除の手術を受け、人生も終わりかと思われた身がその後殆ど医師不要の生活で米寿の年を迎えられた事は我ながら不思議で、昭和50年冬ホームコース“加茂カントリー”でホールインワンを実現したのと同じく真に強運に恵まれた人生であったと感謝しています。

しかし昨冬早朝、農園に行く途中90キロのスピード違反で30キロオーバーの罰金と講習費で10万円近くの罰金を支払うアンラッキーもあり、我ながら年甲斐もなくと苦笑させられています。

今は老人性膝関節炎に苦しめられながらも月3~4回のゴルフと週2回の農園作業で体力を維持し84歳で覚えたパソコンでデジカメとメールの交信で頭脳の衰えを防止して、すでに厚生年金は5500万円以上の支給を受け有難き老人天国の生活をさせて戴いていますので、余りにも楽しく過ごせた人生に来世はその反動で苦界の波に泳がねばならなくなるかと、要らぬ心配をさせられているこの頃です。

 


*平成22年1月 平安神宮 初詣へ 



・・・「満九十歳(卒寿)を迎えて」 平成206月・・・

平成206月満90歳を迎えて我ながら予想外の長寿に驚かされています。同年輩には故田中角栄元首相や現存の中曽根大勲位がいますが、中学や大学の同級生が殆ど他界した現状では、ゴルフ趣味の小生から言えば卒寿は“ホールインワン”になるので、昭和501月にホームコースでホールインワンを果たした小生としては、人生においても“ホールインワン”を果たしたものと感無量のものがあります。

特に昭和16128 日米開戦2日後の10日に入営し朝鮮と中支那にと転戦し昭和216月、5年振りに空襲被害の無い金沢の自宅に父母兄弟全員集合出来たことは誠に幸運に恵まれた身と有難さを痛感しています。

30歳で結婚し半年目に結核となり、休職2年の退職直前に復職可能の医師診断書を無理に書いてもらい復職したが大阪への通勤は無理なので、会社近くの社員寮で1年半の独身生活で月に12度京都の自宅に帰ることで身体の回復に努力した事でした。当時は健康保険は一病2年しか受けられぬ規定なので、保険も切れ1年間は自費治療を続けた次第でした。

当時の肺手術は玉込め治療が失敗で肋骨切断に切り替わった頃で、マイシンの保険適用が少ないので、傷病手当金七千円の頃 自費で17千円のマイシンを数本購入させられましたが、無事復職出来た事はラッキーな人生でした。

入院中に医師の限界も悟り肺病は英語でコンサプション即ち消耗である事を知り、月に34ポンドのバターやチーズをオブラードに包み飲み込み、自主的に栄養の補給に努めた事が回復を早めたものと思います。

又毎年比叡山延暦寺の34日の夏期講習会に10数度参加し、これを心の人間ドックと自称し座禅や講和で精神面の補給に努め、医薬依存から脱却したのが体調回復への効果をもたらしたものと思っています。

結婚早々当時死亡率最大の肺病にかかった身では物資不足な不況の世相の中では50歳まで生存できるとは予想もできない状態なので子供も諦め自己のみ56年生存できたら良いというような心理状態でしたので、子供が出来た後は家内が教員を継続して責任を持つ事にしてくれたので、家や子供の事は忘れて自己保身に専念できたのが、長生きできた原因になったものと現在は家内に感謝しています。

父は60歳、母や兄弟3人も70歳を超える事が出来ずに他界し一番短命と思われた小生が長生きできた事は、ただ幸運に過ぎたものと感謝するのみです。

老後孫の世話離れの間にと昭和62年に家内と初めての海外旅行を開始し、アンカレッジを回る英国航空でローマ・ベニスを回りスイスでアルプス登山も果たしライン河下りでドイツ・フランス・英国と観光して、見るもの聞くもの全てが珍しくお上りさんの野次喜多道中を続け、ムーランルージュの大ホールでは同行の婦人連とダンスも楽しみましたが、家内は外人の我等夫人に対するサービス振りの親切さには大満足でしたが、反面日本男子の男尊女卑の横暴さを指摘されたのには些か参りました。

小生は会社の後輩連を集め、毎年春は北陸、秋は岡山湯郷温泉付近に車45台でゴルフを10数年続け、諸氏との団欒を深めた事が老後の貴重な楽しみでした。

82歳からパソコンも始めて又デジカメで写真作成も楽しみ、メールで交信仲間も広げ手紙より便利に時折の交信を楽しみ、戦中戦後を苦労した身なので現在の物資豊富な世相の中でゴルフも楽しめる年金生活の有難さには、ただ感謝を捧げるのみです。

小生定年後の生活は農園工作とゴルフで手を取られボランティアの社会奉仕は出来なかったので、せめて金銭面の社会奉仕として、毎年ユニセフ・京都児童福祉協会・大阪水上隣保館・琵琶湖止揚学園等に寄付を毎年続けさせて戴いています。

現在は老人性膝関節炎で夫婦旅行も断念せざるを得ぬ状態ですが、もう海外は数回・国内は20数回の夫婦旅行も続けたので、もう未練もなく今は天命を待つのみです。

 *平成23年93歳 まだまだお元気です!

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