梅田 聡一郎 さん 2005年 05月 05日 17時 52分 23秒

学術

somatology =生体学
surface anatomy =体表解剖学
kunstwisenchaft =芸術学
geometry =幾何学
aesthetica =感性学
theory of art =芸術理論
how to draw =描画技術
色彩種

ペール
ダーク
ライト
グレイッシュ
マット
ディープ



技術体系

スクラッチ     =ナイフで削る
モデリング     =マチエールをキャンバスの上で塑型する。
ブラッシュストローク=筆跡を大きく残す。
ドライブラッシュ  =筆跡を残すかすれた筆跡を残す。水分0の絵の具を筆に置き、絵の具を落として筆に残った絵の具のみで筆跡を作る。
デカルコマニー=絵の具の粘着力と(引き)を利用したマチエール塑型術。支持面ともうひとつの面の間の絵の具を挟み、開く行為。心理テストにもある。



美術解剖学内容

発生学
比較解剖学
身体寸法・比例
体型・姿勢類型
生態変化
ムーブマン  (運動・動勢)
マッセ    (量魂)
ボリューム  (量感)
色彩療法   (color healing)
リアリティー (存在感)
フォーム   (形)



下地剤

ジェッソ        = 下地剤
カラージェッソ     = 混色済下地剤
モデリングペースト   = モデリング(マチエール塑型用下地剤)
ライトモデリングペースト= モデリング(マチエール塑型用下地剤)軽質版
マットバーニッシュ   = 下地剤(マット質)
レジンサンド      = 下地剤(砂質)
ホワイトオペークフレーク= 下地剤(フレーク殻状)
メディウム       = 下地剤
マットメディウム    = マット質
グロスポリマーメディウム= 光沢質重合下地剤
    


画調

ポリプティック  =屏風画
ジャクスタポーズ =並列画
コラージュ    =紙片体構成画
アッサンブラージュ=立体物構成画
イコン      =宗教画
インスタレーション=設置象徴
スキアグラフィア =陰影画

学術

kunstwisenchaft = 芸術学
somatology = 生体学
aesthetica = 感性学
surface anatomy = 体表解剖学
theory of art = 芸術理論

筆種

フィルバート(平尖)
フラット  (平) 
ラウンド  (丸) 
ファン   (扇) 
面相

アクリルガッシュの内容物

アクリル酸+メタリクル酸+メチルメタアクリレート=アクリルガッシュ
単量体=monomer(モノマー)
重合体=porymer(ポリマー)
P V A =ポリビニールアセテート
acrylic rezins = アクリル樹脂
synthetic rezins = 合成樹脂
vinyl rezins = ビニル樹脂

「制作意図」についての論文

美術を渇望する人間は、何を手に取ろうともなにか魅せる物を作ってしまう」というのを。
 そうしたいという人間、真にそういう物を創造したいと考える人間に、媒質のハードルや技法の難解度はあまり問題ではないのだ。「その表現をするにおいての最大限のマテリアルの生かし方」が、最も重要であり、それを習うにしても、習わざるにしても、描かんと欲する人間はどうにかして、頭の中から引きずりだす。道具と道徳を思考するだけで、ある程度は解決付いてしまう。勿論そこからの教養というのが肝心なのだが、その地盤にそういう「思い」が根付いていないと、作品として「意味が分からない」のだと感じる。
 道徳を筆を取る際感覚化させるだけでも、それが充分な「技法」足りうる。
 絵の具を使う=無駄なき方法を知っている=少ない画材で良い物が沢山できる
 絵の具を使う=道徳観念がある=無駄をしない考え方をする=上記に同じ結果
 という様に、道徳観念が生み出す「思い」が、今そこに習わぬ知識を生み出す事があり、美術に携わる人間は、それが自分の手元から出てきた瞬間、それを残し、逃さずキャッチしなければいけない。そういう感覚を絶えず保有する事と、そういう「真新しさと品格の違った創造」を心が排出する精神性を保有している人間こそが天才であり、それ以外はただの全体の中の売名に過ぎない。そう、道徳性とは心の広い人間性にこそ微笑み、矮小で真新しいものにばかり走る人間には振り向かないのである。
   本当の真新しさには理由とコンセプトがある。多くの人間に目を引いてもらいたい、戦争、社会、国、等の、確固たる理由や、「自分の絵を見ている間だけでも和んでいてもらいたい」とか「こういう表現、コンセプトで表現した事を皆に伝えたい」という『理由』に基づいて作られ、その結果、多くの人間の足を止めるような技術が必要になり、『真新しさ』が表出する。要は

     『本人の一番良い自我を、技法を乗せて放出する』
 のだ。そこには、自分の引いた線、たまたま形として出来てしまった美しきストローク、筆跡のみに流されない、『本当に優れた心の持ち主』のみが到達できる『技法をちりばめてなお、爆発混在している自己表現』がある。僕は僕の絵も含めて、そういう絵を未だ目にした事が無い。
それは、その夢は、『左手で左手の肘を掻く』が如き夢である。そう、技術を一画面に纏め、一つの体系としてバランス良く表現することと、そういう『表現』という感情の曖昧さの混在の渇望は、矛盾点が多く、例えばクロッキーをいくつもかさねたとか、其れこそ面白い絵柄を作った、だれも知らない技法を生み出したとか、そういう物とは別である。『誰も知らない線の引き方が出来た』というのは、実は結構意味性に欠ける。例えば卵を投げてきれいに割れる手腕があったとして、『皆の役に立つ類では無い、意味性の希薄な趣味性の高い技』なのだ。本当に表現を渇望する人間は、適当にやっても何故かその表現したい事項が表出した絵になるのである。よって、美術をする人間の殆どが、その夢を抱いている。その夢の頂の高さにかかると、大作までもが失敗作と化す。僕は勿論出来ない。しかし、美術は技術でなく、美しきなにかの表出術であり、技法体系を美しくまとめるだけのものに終わるのも、僕自身としては寂しいような気がしてならないのである。
 前述したように、制作の意図と、癒しのバランスが作品には欠かせないのだろう。リアリティーをどれだけ保有したものでも、結局それと等量の癒しとしての絵画技術を保有したものでなければ、絵画を体感する側としても、とても息苦しい。言い換えるならば、「制作意図の為のリアルな一側面」がそこにあるのであれば、相手は気持ち悪さを感受しないし、感知もしない。逆に、いかに可愛いものばかりを扱った絵画でも、その「制作意図の為の腹黒い算段」がそこにあるのであれば、相手はなぜかそこに気持ち悪さを感受する。そういうものである。
技術というのは、とても重要である。軽んじてはいけない、皆が苦心に苦悩を重ねて生んだ思考の断片を、客観的な視覚や考え、感覚、理論によって否定したり、また肯定したり、練り直したり、技術同士を比べて、新たに生み出されたものであるか、それとも既存の技法の変容、応用的なものであるか検討したりして一つ一つがとても自由な発想と、今日の技術的修練と完成度で生み出されている。その集積が技法である以上、技術を、単なるテクニックとして否定する事は、誰にも出来ない。美術に愛着があればあるほど、本当は「できない」のである。
 ところで、6年から7年以上画面に着手した人間ならもう分かると思うが、技術には併用が可能である。ステンシルとストロークも、ステンシルの用紙の上から、筆跡(ストローク)をダイナミックにつけることができる。ステンシルの上からドリッピングすると、用紙をはがした時、用紙の切り抜いた部分にのみドリップの痕跡が残る。そのようにして、技術同士の混合が可能なこの一つ一つのぎじゅつは、とても上手く共存してる。ステンシルで直線を切り抜いて、ドリッピングを5〜6階調で行い、上から光の調節を行うようにして加筆を行うと、「ドリッピングの柱」が出来る。そのようにして、技術の併用によって出来る表現は、掛け算式に倍加する。この感覚さえ持っていれば、いかに描写力を有した状態でも、画面の真新しさを失う事は無い。「実力介在形前衛絵画」の出来上がりである。
今現在の常識の中の技術は、とても幅が出来たと感じる。しかし、肝心なのは使い手の方の心構えである。人間の、物知りげなプライドが自身の向上心に対するストッパーになることもあれば、社会における低俗な嫌がらせに屈し易い稚拙な作業をする人間のありようなどに、心を狂わされるであろう。修行僧ではないので、それが自然な事である。しかし、いくら人間が良いからといって、思いやりがあるといっても、それ全部自分の負債であるという事。なので、技術を研鑽する身になったからといって、その精神や心構えを決して変えてはいけない。そして、「ダイナミックさより密度を重視したい」とか、「知名度より節度を重視したい」のなら、まずそういう技術の習得に対して熱心でなくてはいけなく、指導者もそれを応援する義務があり、その責務から逃避した口の使い方をするのなら、心優しい人間からの、制裁を受けなければいけない。美術は、心根の綺麗な人間を、からかう為に生まれた技術ではない。ゆえに、今日も、誤った用法を呪詛的に用いた人間は、どんなに多勢であろうと、容赦なく罰せられるし、そういう正しさの方がまかり通るように出来ている。まことに不思議な感覚を覚えました。
制作意図という問題、観点もそう。制作の意図がとても深いものなら、一見単純なようでも、なぜか心の深い部分に響き、技術がいかに複雑で、さまざまな描きこみに基づいた技術形態であろうと、モナリザをぱくったような「間違った斬新さ」を持っていたら、人間は自然と素通りする。その証明のもっとも顕著な例が現代美術だといえる。おおよそ技法的な構成上の詰めや、制作上の完璧な予定、その他総てが曖昧であるものの、人間の心惹くテーマ性に満ちている。
美術という画面の応用性には、様々な悪用方法が存在する。それはいわんや、不明瞭な利用方法で、とても人間の隠れ蓑になりやすい。知識のある人間が利用して、知識の無い人間を騙しきるのだから、それは罰せられる筈が無い。よって芸術系には、逸脱した感じの人間がいる。一部の知識者によって、自覚を奪われているのだ。心を自動的にコントロールされるかのように。そういう人間の把握量の差を用いた、間抜けな失敗も美術にはあり、それは医学等がツケをもっている。現代社会に絵画が登場する事は、とっても考えにくい。なぜって今は、ビルディングのモニターの大画面が、壁画にとってかわり、そういうシステマティックな全体が、絵画という手間隙を、ぶち壊してしまったからである。そうして今、デザインという簡易で安易な物体が日常社会を占め、その量産性が格好の特異点を求める人間達を食い物にしているというわけだろうと感じる。
 自分は、絵画を一生懸命に続けた人間である。その時脇目も降らなかった。学校を辞めたり、誤解されたり、陰口を叩かれても、まるで気にしなかった。歯が欠けても、肌がボロボロになっても、その筆を、訳のわからないダスターに持ち替えてでも、辞めなかった。その事が今日の僕にほんのチョットの身分をくれた。後は、皆が喜んでくれると嬉しい。それだけだ。人間の制作意図というのは、技術を超えて人間の意志を支配する。その意図へ向けて、心燃やし、体を裂いた人間には、必ず望みが敵う。その望みが、他人がより多く喜ぶタイプのものであるのなら、なおさらである。そして、制作意図が自身の作風に沿ったものであるのならば、作品はいつも8割方の成功を収める。一人の個性ある人間が、長く作品を制作する事に従事してゆくと、どのような人間にもアクや、個性が表出する。そしてその個性に沿った制作体系を、生み出すに至る。基本的な技術体系の上にその個性が綺麗に乗ったとき、その絵画の個性はゴールインする。そう、制作意図と技術は、本当はとっても仲良しなのだ。「制作意図=個性」「個性があるから、技術を介在させるのが面倒くさい」という心理状態に陥り易い、集中制作においては、結局そういう人間の感性が完成度に対する障害と化す、という事実がある。しかし、誠に良いものが作りたい、自身の個性の先の、一番良い表現状態が見たいと感じた場合、技術のハードルというのは、そういう願望が在る人間にとっては実は「そんなに高くない」。大きくその体を使い、絵画をする大人として解釈するならば、決して困難でない。それに気付いている人間は技術を吸収する。それが総てでないのだから、技術の習得はとっても簡単な筈だ。技術は媒質である。技術は用法である。その用法の真新しさが、新しい自身を引き出す事も沢山あるはずだ。で、あるのならば、技術の幅が広ければ、制作の意図の深みも増すというものだ。長年一つの物事に従事した人間には、その内実の研鑽方法について、知る義務がある。それが制作意図に一層の深遠広大さを与える事は、言うまでもない。
 このようにして、技術と制作の意図がどれだけ重要な接点を有しているかは分かるでしょうが、ここからさらに分解し、かつ分かり易く克明に制作意図と技術の関連性について触れてみたいと思う。
 例えば在る一色、「ベージュ」によって得た感覚からイメージを膨らませて絵を描いたとしよう。その一色によって生み出せるイメージの幅と、更にもう一色、「ベージュの補色」を絡ませて描ける絵のイメージの幅では、どうしても、その「もう一色」を知っている、及び用いる事が出来る人間の絵画の方に完成度が出来るのが、当然の結果である。色数が総てでは無い。シンプルな方に注目が集まり、その魅力はシンプルである事で成立している絵画も当然沢山ある。しかし、この場合で言う所の感覚点とは、「製作意図の深みの差異」を表す。日本的な一面を内包した高名な現代絵画においては、一色の色彩だけが主立っている事は先ず皆無である。人間が魅力を感じるのは、その苦悩と正しき研鑽の集積である。結局、「癒し」というレベルを超えた解釈の感覚になると、そういう「研鑽の集積」が価値基準と化し、その中で人間はもっとも複雑にして深遠なイメージを両有するものを選出する。よって、絵画の制作意図に深みを与えたいのならば、当然制作の複雑化が必要不可欠になってくる。その技術の集大成に一つ一つの技術を付加し、その付加に自身のイメージを引っ張られてゆく事も、重要な研鑽のポイントになる。
              そう、制作意図自体も成長するのである。

美術には、いわんや人間を癒す効果がある。その役割が無くては、作品の意義は無いと言っても過言ではない。社会の恐ろしさや、戦争に対する反対意識がある作品をアンチテーゼする事は可能だが、作品がコミュニケーションの取れる媒体として存在する、あるいはメッセージを内包した状態のものでなくては、結局なんの他人に対して与えうる回復も無い。と、いう事は、メッセージの中にも、テクスチャー、あるいは絵画技術としての、「見る側への癒し」がエッセンスとして内包されていなければ、成立はしても、誰かの足を止めるような絵画としては、成り立っていない、という事は。結局作品の中には「干渉」以外の、理解力とか、心遣いというものを含ませる必要性がある。
 セラピストの基本に「共感的理解」という必要事項が存在する。セラピストには、相手の立場にたつ必要が、相手とのコミュニケーションを取る上で出てくる、というものだ。
「充分に機能する人間」という解釈でもって相手を具体的に理解しようという側面と、同時に「そういった一連の不具合というのは、どういった理由から来ているのか」という心理的側面の、2方向から人間を治療する事が重要であるのと同様に、「社会的メッセージ、公的訴えとしての絵画」「心癒す媒体の塊と、その積層としての絵画」という両側、2方向から人間にイメージを投げかける事が絵画には重要であるといえる。 美術という活動は、特に心を使い、目や内臓の疲労を増やす。密閉された部屋で行う作業という事もあって、どうしてだか精神的にも疲労する。病院に通う人間や、錠剤を常用する人間がいたとしても何ら不思議は無い。
 そういう芸術活動のストレスは、屋内作業にして『衣食住』総てに美しさや景観、彩り、人間の作業の円滑、生活の循環の浄化としてタッチする事の難易度。『思いやり』や、人間の誠意の形作りであるがゆえの心労や、心の中の悩みが日々募るが故に起こる『変な疲労』が、尽きないということです。通常の人間からすると凡そ訳の分からない理由で自殺したり、病院送りになったり、薬を常用する為、その関心事の中に入る人間の活動もなかなか分析しづらく、その人間の病理を未然に解決する事も、とても難しいと憶測します。
 要は、「美術系は患者としてはとても厄介で、故に人一倍体調管理に気をつけて欲しい人種だ」という事である。人間のなかでも、退化しやすい、あるいは退化をいとわず活動をつづけるのが芸術家であり、体は当然弱い、という事である。
美術館での景観に着目してみよう。お気づきでないだろうか。美術館の中の人間。「少々太り気味」というだけで、かなりの大柄な人間に見える事。そう、美術系という人種は、僕も含めて、それだけ脆弱な人種なのである。
そういう意識の元活動して欲しい、という人間も、内外問わず沢山存在する筈だ。要は人生を歩んだ結果としての体格や、一個体としての蓄積が、美術家は脆弱になりやすいという事だ。
 一方で、学生常設には事故が起こり易い。「大作品」の厄介さだ。大作は、ナイーブな扱いを要求する割に、相当な重量を伴うので、扱いを知りつつ取り扱う事が重要になる。
そして、実はもう一つの重要な観点がある。そういうナイーブな作品の取り扱い、実は「ためらってはいけないのだ。」
しても良いことの範疇を利用して、最大限の要領を用いるのが作品の秘訣である。それはとても感覚が難しく、要領よ美術との狭間に位置するのだ。
 
 その活動の「混合疲労」は、とても体には辛いだろう。脳と肉体が両方疲れる、という事だから。そして、さらに新たな美術品にも精力を注がない事には始まらない。
まことに美術とは、疲労の連続なのである。しかも、動きは美的な為、なかなか表出しにくい分、当人たちが倍、気を使いあわないといけないという義務がある。
 一方で、これは描き手の願望、『こう描きたい』とか、『ああいう風に描きこんでみたい』とか、そういう類の事ず酩覆鮗儺佑瓩觜坩戮砲箸辰堂鯔鏡戸・悗箸いΔ里呂箸討睫鯲・帖・箸・・・蚕僂僚限臉・箸靴討糧・儚萋阿癲・艝人のウリである以上、やはり函ρの完澄ラで ヲ艝人を上回る人種は相変わらず存在しない。
 あの石膏像や、ルネッサンス絵画といえども、積層と、重層感においては結局日本人の上を行く事などとても不可能である。日本人の気質でなければ、生み出す事が不可能な「思考的密度を組む絵画理論」で、できたインスタレーション絵画は、構図は精巧、かつダイナミックに仕上がっている。日本の気質が、オリジナリティーを奪う行為にも繋がり易くはあるのだが、結局人間は「同じ物があれば、良質な方に興味を引かれる」というのが定石なのである。
 決まり事の中で物事を煮詰める行為で世界一なのは日本人である気がする。
一方で、美術に携わる人間の感覚と、技術の駆使の天秤をとても悩みの種にする人間もたくさん存在すると思います。
なんに関してもそうですが、「万人に共通する悩み」と、「専門的に理解する必要がある事実への悩み」は、とても矛盾を抱きやすい問題が出てきます。そういう時、どちらを優先順位として持ってくるかはその人間各自の自由になると思います。あらかじめ自己心理の理解力を上げている人間は、「飲み込み」が違います。「ああしなければいけない」、という理由を心が理解するので、とっかかりなく物事を推し進める事ができます。これと美術的技術と交わらせると、同様の事が言えます。例えば、テクスチャーを作る下塗りに扱う技術を用いる、ストロークであったり、もしくはマチエール、テクスチャーであったり、その選別が正しい人間というのは、より良い選別をする人間というのは、「そうしないといけない理由」を深く理解している人種だからです。その理解に技術を乗せているから、「技術的に卓越しているにも関わらず、内的理解に乏しい」という失敗が無い、という訳です。
 テクスチャーや、地塗りは、失敗すると次の面を作るとき、その失敗した部分のみが一層厚くなり、「物体」として見た場合、不自然になります。そしてテクスチャーの失敗、しかもその色面がとても大きかった場合、上塗りにはあからさまな費用がかかる上、支持面が重くなります。
 物事の間違いには費用が掛かります。そして世の中においてその失敗は往々にして自身に帰ってきます。よって、「間違えるな」と言える人間の方が少しだけ思いやりがあるというのが事実です。
 技術的失敗の積層は、人間の心に対して「できない」という感覚を自身に刷り込む事になります。そういう「自分の刷り込んだ感覚」というのは中々払拭しずらいものです。他人が刷り込んだ感覚は距離を置く事でやがて緩和されますが、自分とは一生、一秒も離れ離れになる事ができないのです。よって、自己に対する不安はなかなか払拭しずらいものなのです。美術とは、自分の内面の表出場面であり、調子の不具合がすぐ体にでます。よって、「自身に負けない心」というものが必要不可欠になると感じます。
 他人と自身を比べてみた場合に、どうしても心理的不安が伴い、いつもの好調が出ないでしょう。しかし、そういう場合にこそ意味性を伴うような2倍の優しさと、2倍の具体的な何かでもってますますの好調を引き出すのです。





美術にはいわんや人間のメンタルに関わるという役割が存在します。人間のメンタルに画面でもって食い込む作業、実はこれかなり現代社会においては重要な役割を担っています。コンピューターや、社会の軋轢に耐えかねた人間の心理的ある一面の崩壊を、きれいさっぱり立て直す行為や、ゲームの画面に惑わされた人間、携帯電話の画面に身体的な側面を害された人間のリロード方法としての絵画が、今日存在します。
色彩は「癒し」、テクニックは「信頼」、技術は「円滑なコミュニケーションとイメージの助長」、解剖学は「正しい画面内の人体のありようとテクニックとの関連性」、修練は、「義務」、会合は「守りあう為」。
 そういう一連の行為が絵画の作品作りにおいてもっとも重要な決定付けになります。その存在が際立つ秘密の箇条はこんなところです。
 人間には、実生活、実際の世界以外の癒しが必要となります。そして、そういうぎりぎりの癒しを与える行動というのはとてもテクニックと修練の時間を擁します。その研鑽の量が確かになってゆくと、人間は障害を乗り越えるようになります。そして画面を見る人間の障害もそこから消えうせます。そういう技術の集大成に対して得る感動とは、

   「思いやり×技術」という倍加方式により一層の効用を他人全体に与えます。

 技術の無い絵画というのは、とても客層が偏ってきます。そういう場合に、自分も他人も、大変寂しいでしょう。

 


塩田絹代&前野育美 さん 2005年 05月 05日 16時 32分 46秒

塩田絹代

年齢は大体50代前半〜半ばぐらい
とりあえずコイツは人の悪口を言う事ぐらいしか能がないようだ。
中卒(厳密に言うと小卒)、引きこもり、顔・性格は腐ってる、チビ、体系はガリガリ
声と喋り方がキモイ(つーか、言語能力が無い)、髪型はおかっぱに近い
引きこもりで頭が薄い、人格障害、強迫神経症、精神異常と救いようのないキチガイ。
学校は小学校の途中から全く行かなくなり、挙げ句の果てに引きこもりだから
常識というものが一切無くかなりの幼稚。この年で働いたことが一度もない始末。
自分の思い通りにならなかったら子供みたいに暴れる。まるで小学生が体だけ
大人になったみたい。高卒、ニート、引きこもり、フリーターなどの反社会的を
異常に叩く。で、コイツはというと中卒で結婚するまで親に食べさせてもらってた。
障害者に生きる価値はないと言うが自分はそれ以下。高卒をバカにするが自分は中卒。
引きこもりはクズだの何だの散々罵ってるが自分も引きこもり。ニート、フリーターに
生きる価値は無いと言うが自分は働いたことが一度もない無い。不登校も生きる価値が無い
何で学校ぐらい行けないの?と貶しているが自分は小学校3、4年の時から全く学校に行ってない。
ハゲの悪口をよく言うが引き篭もってるから自分もハゲてる。しかも女のハゲ方じゃない。
老人に生きる価値は無いと言うが、40年以上引き篭もってるから見かけや知能、体力は老人並み。
いちいち人の顔を見て気に入らなかったらお決まりの悪口。相手が気付くようにあからさまに
嫌な顔を見せる。自分はチョン顔を潰した様な平べったい気持ち悪い顔してるくせに。
ここまで行くと顔面犯罪だな。韓国人俳優を始め、韓国人の顔はキモイなどと批判してるが自分在日(笑)
害虫2匹産んで放ったらかし。更にそのゴミに金かけて育てる腐った思考回路と無能さ。
日本語すらまともに喋れない。言動、仕草、精神何もかもが小学生レベル。ホント、お笑いだな。
夫・幹生(無職、引きこもり、パソヲタ)  長男・将史(ニート)  次男・靖広(ヒキヲタ、顔面奇形)

前野育美

自分は神だと思い込んでるキチガイ
場所や時を考えずに言いたい事があれば何でも言う
人権・差別発言もお構いなし。とりあえずコイツには
「恥ずかしい」という感覚が無い。何の取り得も無いクズが
何故これだけ舞い上がれるのだろうか
何でも自分が自分が主義で誰からも相手にされてない
ホント、コイツの存在意義って何?存在自体は蛆虫以下
こういうタチの精神障害者って本人が拒否しても強制入院させられるだろ
何も動かない家族も問題だな
夫・保男(中卒、チビデブ)  長男・仁志(ニート)  次男・邦雄(ニート)  三男・敬昌(引きこもり、ゲーヲタ)

真美 さん 2005年 05月 05日 12時 00分 29秒
URL:http://e-ezweb.jp/g4H

はっきり言って 見ない方がいいけど・・・興味でちゃうのが人間ってもんだよね?
http://e-ezweb.jp/g4H
これダヨ⇒ http://e-ezweb.jp/g4H

ゆ〜みん。。。 さん (sayo@ocn.ne.jp) 2005年 05月 03日 14時 38分 00秒
URL:http://indies-gogo.tv/?ac

ねぇ。。。このサイトどう思う?
http://indies-gogo.tv/?ac

⇒⇒⇒http://indies-gogo.tv/?ac

梅田 聡一郎 さん 2005年 05月 02日 18時 51分 11秒

まったくもって感心する。

梅田 聡一郎 さん 2005年 05月 02日 18時 50分 25秒

 感心する。

梅田 聡一郎 さん 2005年 05月 02日 18時 49分 35秒


引き篭もり   = 何かを一人で考える勇気がある          のだなあ、と感心する。
精神障害    =そこまでして思い悩む人間性があ         るのな、と感心する。
恥ずかしげが無い=そうまでしてしたい事があるのだ         な、と感心する。
中学校卒業   =最長寿大学生は僕が知ってるだけ         でも「94歳」。30歳時点での他人         の学歴じゃあ、な〜んにも言い切         れないんだな、と感心する。
顔面犯罪    =自身の顔を全くいじらない、そこ         までして時間を割く関心事もしく          は葛藤があるんだなあ、と感心         する。
僕の悪口を言う  =水面下で僕辺りにまで気が回っ          てるんだなあ、と感心する。


        以上。

梅田 聡一郎  さん 2005年 05月 02日 17時 00分 25秒

 自分は、勉強する方を選んだ。

梅田 聡一郎  学の壁(知ってしまったら、後には引けない) さん 2005年 05月 02日 16時 58分 49秒

 絵を描く、という行為には実はそこまで学歴というものが介在しないほうが有利な場合がある。勿論、スタンダードな技術を介在させる形の絵画を目指すのなら、生涯向学した方が正しい選択だと思う。でも。仮に、自身の技術体系を見せたいのでなく、自身の訴えを見せたい、それを肉迫させる為、ダイナミズムの方を取りたいのなら、無駄に学を重ねない人間の方が勝るでしょう。
 知識を得たら、得ていない頃には帰れない。その優位性をいかんなく発揮する人を、人は「個性的」と賛辞を送ります。
                 梅田 聡一郎

アクリルガッシュ&下地剤 さん 2005年 05月 02日 16時 53分 53秒

アクリルガッシュと下地の関係は、作品の仕上がりを100パーセント左右するほどのものがあり、その下地剤一つ一つにも特徴が存在する。

ライトモデリングペースト
 マチエール塑形術、「モデリング」に扱う素材。この応用で、立体に長けた人間を絵画に誘う事が出来る。通常の重量の物と、もう一つ軽質な物がある。その軽質さ故、多大なマチエールを造り、モデリングとして塑造しようとも、重量が軽質を保つ。要は支持面の重さを念頭に置かない創造が可能になるという事。この物質にはモデリングの上でとても助けられる筈。

セラミックスタッコ
粒状の樹脂が独特のテクスチャを出す。粘りが強く、固着しても、マットさと粒質感と、かつ品位も残す。
ナチュラルサンドもこれに似ている所がある。

梅田 聡一郎 さん 2005年 05月 02日 16時 44分 42秒

それを誰かに教えるとどうなるの?

梅田 聡一郎 さん 2005年 05月 02日 16時 44分 16秒

 それを言うとどうなるの?

梅田 聡一郎 さん 2005年 05月 02日 16時 43分 57秒

 それ言ってどうなるの?

梅田 聡一郎 さん 2005年 05月 02日 16時 43分 18秒

 アクリル絵の具は水で希釈できる合成樹脂(ポリアクリルエマルジョン)によって顔料を嫌ったものです。画材として合成化合物が育ったのが、壁画創作運動に伴う「対公共建築物対応壁画用画材」の需要で、
「強度」
「速乾」
「多数支持面固着」
 等の需要の為に生まれました。たくさんの支持面、鉄、コンクリート、木、等有機物、無機物を問わず固着する上、全画材中最強度を誇るものでなくては、雨天にも対応する壁画は生まれなかったのです。支持面がフラットであり続ける限り、罅割れすら起こらないというのがその強み。面相による細かな描きこみも可能で、薄め液も水になるので健康も害さない。
 こうしてアクリルガッシュは生まれ、その有能さから、絵画にも続いて応用されるようになりました。

梅田 聡一郎 さん 2005年 05月 02日 16時 35分 39秒

 どうしてそういう事言うの?

梅田 聡一郎 さん 2005年 05月 02日 16時 35分 06秒

学術

somatology =生体学
surface anatomy =体表解剖学
kunstwisenchaft =芸術学
geometry =幾何学
aesthetica =感性学
theory of art =芸術理論
how to draw =描画技術
色彩種

ペール
ダーク
ライト
グレイッシュ
マット
ディープ



技術体系

スクラッチ     =ナイフで削る
モデリング     =マチエールをキャンバスの上で塑型する。
ブラッシュストローク=筆跡を大きく残す。
ドライブラッシュ  =筆跡を残すかすれた筆跡を残す。水分0の絵の具を筆に置き、絵の具を落として筆に残った絵の具のみで筆跡を作る。
デカルコマニー=絵の具の粘着力と(引き)を利用したマチエール塑型術。支持面ともうひとつの面の間の絵の具を挟み、開く行為。心理テストにもある。



美術解剖学内容

発生学
比較解剖学
身体寸法・比例
体型・姿勢類型
生態変化
ムーブマン  (運動・動勢)
マッセ    (量魂)
ボリューム  (量感)
色彩療法   (color healing)
リアリティー (存在感)
フォーム   (形)



下地剤

ジェッソ        = 下地剤
カラージェッソ     = 混色済下地剤
モデリングペースト   = モデリング(マチエール塑型用下地剤)
ライトモデリングペースト= モデリング(マチエール塑型用下地剤)軽質版
マットバーニッシュ   = 下地剤(マット質)
レジンサンド      = 下地剤(砂質)
ホワイトオペークフレーク= 下地剤(フレーク殻状)
メディウム       = 下地剤
マットメディウム    = マット質
グロスポリマーメディウム= 光沢質重合下地剤
    


画調

ポリプティック  =屏風画
ジャクスタポーズ =並列画
コラージュ    =紙片体構成画
アッサンブラージュ=立体物構成画
イコン      =宗教画
インスタレーション=設置象徴
スキアグラフィア =陰影画

学術

kunstwisenchaft = 芸術学
somatology = 生体学
aesthetica = 感性学
surface anatomy = 体表解剖学
theory of art = 芸術理論

筆種

フィルバート(平尖)
フラット  (平) 
ラウンド  (丸) 
ファン   (扇) 
面相

アクリルガッシュの内容物

アクリル酸+メタリクル酸+メチルメタアクリレート=アクリルガッシュ
単量体=monomer(モノマー)
重合体=porymer(ポリマー)
P V A =ポリビニールアセテート
acrylic rezins = アクリル樹脂
synthetic rezins = 合成樹脂
vinyl rezins = ビニル樹脂


梅田 聡一郎 さん 2005年 05月 02日 16時 32分 27秒

 
どうしてそういう事すんの?

塩田絹代&前野育美 さん 2005年 04月 30日 14時 54分 38秒

塩田絹代

年齢は大体50代前半〜半ばぐらい
とりあえずコイツは人の悪口を言う事ぐらいしか能がないようだ。
中卒(厳密に言うと小卒)、引きこもり、顔・性格は腐ってる、チビ、体系はガリガリ
声と喋り方がキモイ(つーか、言語能力が無い)、髪型はおかっぱに近い
引きこもりがちで頭が薄い、精神異常と救いようのないキチガイ。
学校は小学校の途中から全く行かなくなり、挙げ句の果てに引きこもりだから
常識というものが一切無くかなりの幼稚。この年で働いたことが一度もない始末。
自分の思い通りにならなかったら子供みたいに暴れる。まるで小学生が体だけ
大人になったみたい。高卒、ニート、引きこもり、フリーターなどの反社会的を
異常に叩く。で、コイツはというと中卒で結婚するまで親に食べさせてもらってた。
障害者に生きる価値はないと言うが自分はそれ以下。高卒をバカにするが自分は中卒。
引きこもりはクズだの何だの散々罵ってるが自分も引きこもり。ニート、フリーターに
生きる価値は無いと言うが自分は働いたことが一度もない無い。不登校も生きる価値が無い
何で学校ぐらい行けないの?と貶しているが自分は小学校3、4年の時から全く学校に行ってない。
ハゲの悪口をよく言うが引き篭もってるから自分もハゲてる。しかも女のハゲ方じゃない。
老人に生きる価値は無いと言うが、40年以上引き篭もってるから見かけや知能、体力は老人並み。
いちいち人の顔を見て気に入らなかったらお決まりの悪口。相手が気付くようにあからさまに
嫌な顔を見せる。自分はチョン顔を潰した様な平べったい気持ち悪い顔してるくせに。
ここまで行くと顔面犯罪だな。韓国人俳優を始め、韓国人の顔はキモイなどと批判してるが自分在日(笑)
害虫2匹産んで放ったらかし。更にそのゴミに金かけて育てる腐った思考回路と無能さ。
日本語すらまともに喋れない。言動、仕草、精神何もかもが小学生レベル。
因みに、長男・ニート  次男・高校中退(ヒキヲタ) ホント、お笑いだな。

前野育美

自分は神だと思い込んでるキチガイ
場所や時を考えずに言いたい事があれば何でも言う
人権・差別発言もお構いなし。とりあえずコイツには
「恥ずかしい」という感覚が無い。何の取り得も無いクズが
何故これだけ舞い上がれるのだろうか
何でも自分が自分が主義で誰からも相手にされてない
ホント、コイツの存在意義って何?存在自体は蛆虫以下
こういうタチの精神障害者って本人が拒否しても強制入院させられるだろ
何も動かない家族も問題だな
長男・ニート   次男・ニート   三男・引きこもり(ゲーヲタ)

サザエさん さん (doratyann@livedoor.com) 2005年 04月 26日 20時 39分 09秒
URL:http://indies-gogo.tv/?K

最悪ですココ…
http://indies-gogo.tv/?K

サイアクぅhttp://indies-gogo.tv/?K

梅田 聡一郎 さん 2005年 04月 24日 17時 43分 37秒

 
 どうしてそういう酷い事するの?

梅田聡一郎の筆写 さん 2005年 04月 24日 17時 42分 44秒

Formalizm(フォーマリズム)

 この言葉の由来は、ロシアのフォルマリズムに端を発している。形式主義といういかにも内容の空疎な事を意味しているようにあるが、かたち無くして色彩が存在しない様に、形式無くして内容はありえない、又、内容を支え、形成するのが形式であったり。今日のフォーマリズムのこうした考えは、イデアの為のイデアリズムが意義を失い、眼に見えるものを基盤にする実証主義的な傾向として検討させなければいけない。そうしたとき、フォーマリズムの必然性が存在する。美術では、C・グリーンバーグのカントから借用した自己批判性を軸とした、モダニズム理論となる。とりわけ絵画の特性を「画面型」「平面性」こ┐龍颪療匹蕕譴討い襪海箸箸垢襪發里「修譴任△襦」
 彼のモダニズムの考え方は、歴史主義的かつ、進化論的だと批判される。そういうものであるが、それはその考え方が現実的な美術の展開と合致した結果を指しているに過ぎない。このフォーマルな要素の最も還元的なものは、作品を支え、形成している物体的なものだが、現代美術がそこに到達した時、フォーマリズムの正当性が証明されると同時に反フォーマリズムを生む事になった。今日の芸術が本来作品の背後の方に隠されているはずの芸術の観念を問題にせざるを得なかった。それもこれも、フォーマリズムの「自己批判性」に基づいている。J・コスースの概念芸術(コンセプチャル=アート)が、グリーンバーグを批判しながら、同じ様な相貌を見せているのも、ここに起因する。

Primary stuctures (プライマリーストラクチャーズ)

 1966年、ニューヨークのジューイッシュ美術館で、K・マkックシャインにより組織された、アメリカとイギリスの新しい彫刻を集めた展覧会。絵画による、システミック・ペインティングに対応している一方、ミニマルアートを彫刻の側からたずねようとしたものである。基本的な構造と、球形、立方体といった基本的な立体に原色がつけられた構造物であるところで、過去の彫刻との相違を明らかにしようとしている。おおむねファイバーグラス、アルミニウム、ステンレススティールなどの工業的な材料を用いた匿名的な表現、表面と、単純な球体は、かっての彫刻のモデリングやカーヴィングに代わって、構成や配置の仕方や非疑人的な表現に重きが置かれている。そしてその色彩の使用とあいまって作品から可触的な物質を排除し、重さを無くして空間に拡散す視覚性を強めている。こうした点で絵画性が強いと言われるが、それが視覚性の問題である。
 こうした視覚性は、それ自体が求められているのではなく、かつその彫刻の量塊性と、表面、形体の構成という求心的な属性ではなく、それらを含めてスケールや配置等も検討して、彫刻を開かれた空間をそのものとして表面明化しようとした所から生じている。自ずから還元的であらざるを得なかった。
 プライマリー・ストラクチュアズの先駆は、イギリスのA・カロである。ニューマン(バーネットニューマン)や、ケネス・ノーランドの「場」の絵画の影響を受けた。水平方向の配置に、面的材料とそれの着色によって、無動性、非求心性や非擬人性と、視覚性を獲得して、開放的な空間を作り出した。P・キング、D・アネスリー、D・タッカーらはその後継者である。いずれも色彩や繰り返し、並置により求心性を無くして視覚的にし、空間全体を揺り動かしている。こうした傾向と異質な作品群は、ミニマル・アート・あるいは其れに近い。



梅田 聡一郎 さん 2005年 04月 24日 17時 41分 37秒

 なんでそんな事ヒデえ事すんの?

「美術に関係ある話」 さん 2005年 04月 24日 17時 40分 02秒

「立体の前衛観と其れを与える切り口としての恐怖」論文

恐怖を煽る感覚として、心臓や内臓を用いるのがフリークスなら、理解の無い人間にも強引に理解を促す媒体としても一役買うのも、フリークス。そういう「強烈な宣伝媒体としてのフリークス」が、ポップなつくりの心臓だったり、デミアンハーストの、輪切りの豚だったり…。
 調味料で「甘辛く煮た」という表現があるでしょう。その表現と同じくして、鮮烈にポップな手法と、気持ち悪い物の2者は、とても合うのである。また、そういう手段の生成方法として、自分を追い込む為に、敢えてそういうモチーフを扱う人間も結構います。
その感覚を研ぐ、その画面内に、気持ちの悪いと俗称される媒体をエッセンスとして含んでいながら、全体としてセンスの高いものに見せてしまうというのは、実はかなり難しいのです。
恐怖を煽る媒体としてだけでなく、ポップ+フリークスは、そういう「危険な魅力」を内包しています。その問題を、解決する、また、成人男性になるにつれて、いつしか知らなければいけないリアルとしての内臓などを、やわらかく表現する、見せるにおいても、実は、社会的にとても重要な役割を荷っていますのが、このポップなフリークス作品です。レントゲン無くして医療が成り立たないように、こういう作品なくして、ナイーブな人間が人間の中身を知るには至らないのです。ダニエル=エドワード=ファブリングも、そういう意図の下、「リアルを突きつける、要求する」でなく、「知る必要がある最低限のリアルを、気持ちの良い形で差し出す」。という作品形態を持っています。
豚を焼いて、丸出しにする高級ホテルが無いように、何か気持ちの悪い媒質をモティーフにする必要があったら、人間はそれを四苦八苦して、美しく表現してあげる優しさを保有しているというワケです。
 前衛的な側面をとても大きく使わない事には、美術的に見てまとまりの悪いものになります。ある種の残酷さを保有する作品は、どうしてもそういう特徴を保有する羽目になる訳で、その辺のアイデアを煮詰めると、それだけで名が売れてしまうくらいのエネルギーを用います。
 メッセージ性としての残酷さには、あまり恐怖感が付きまといません。そういう恐怖よりも人間は先ず、メッセージを読み取る人間性を保有しているわけですから。そういう人間性に立ちはだかる壁を打ち壊す材料としてのイメージの残酷さは、実は作品には必要不可欠かもしれないな、と感じることがあります。


額縁についての論文「額縁と絵画の関連性」

額装をしない、作品の性格上したくない人間というのは結構いて、 そういう人は結構側面を背景と同じ色か、画面の拡張として扱います。 平板の側面は絵を飾ったとき、決まって目立つもので、舞台裏のような だらしなさがあるから、そのへんの杞憂もあっての事でしょう。立体と 平面の概念は恐らく、分別もって解釈されていますよ。画面を見続けて 、それを鮮やかにまとめた人間にとって、側面の悲哀は結構目につき易い ものの一つであると感じます。「処理としてのベストな判断」をなさった んだと思います。側面が空白のほうが感動するのであれば、多分余白にして おかれたと思います。船越桂さんも彫り跡を大胆に「木のもち味」と解釈 して残されますし。多分判断としてのベストさを考えたと憶測します。  画面を扱ったとき、「長方形の区画の中」を、いかに美的にまとめるか に、画家は修身します。そのため、一番の絵画の弱点とは画面のアウトライン にあって、額装とはまさにそれを救うものでもあるような気がします。  その額装が作品の風合い上合わない、という場合、絵を描く人間は往々にして 側面を塗りますし、それはインスタレーションを描く人間で結構「常識」なんだろうと感じます。
国展論文 「逸脱しなければという国画会」

国展の価値基準については、様々な物があると存じます。色んな分野の人間が、極限まで技術と表現と世界を高めた結果の産物が集まるのです。常識的に考えて、「1m以上の支持体を用いて、絵の具という媒質でもって全部その画面を埋めてしまう」という行為に及ぶだけでも、普通には出来ないのです。よって、100号常識展覧会は、その規格の時点で、色んな人間を篩いに掛けてると言えるでしょう。その中で技術を介在させようとする人間といったらごくごく少数の人間になります。その条件の下、作品を提出する人間だけでも少ない中から、さらに絞ろうというのですから、それはもう…。
 30号絵画の二科展はまだ介入余地があるとして、「100号絵画限定」の国展が、さらに高倍率を設けているのがとても高価な証拠です。国展はそういう価値基準の下、今日も第一線級の絵画世界としてあります。
 知る人ぞ知る、開光市も国展の会員です。僕は、そういう国展の会員になります。
その道はもう、決まっています。僕と国展はそういうものです。
国展自体は、「結構上手な会」みたいな感じを醸し出しています。凄く前衛テクニックを使ってるワケでも無いです。ただ、着目すべきは、中身の数名。あの数名の、達人が、国展のレベルを底上げしています。100号である事の理由。皆、著名な作家から上手な人間が、30号に無い鬱憤を晴らすかのように
技法を散りばめます。その絵画の暴れっぷりには驚嘆するばかりです。画家というのは、「式展」に心悩ますのでなく、
「祭展」に心と技術と筆と解釈の総てを踊らすのです。それは気取りというより、狂った舞のようです。
その達人のワルツに打ち勝ってこそ、国画会に一ページを刻む事ができます。
 要は、先人に勝る自身を保有しているかどうか、という事です。その事が重要になるでしょう。国展は、
「国」中の「画」面が集まる「会」と書いて「国画会」という事は、半端ではダメだという事です。
 国展は、ある種の価値観が別の展覧会です。「上手」「下手」が10割の価値を占めます。そういう意味では、
絵で飯を食ってるからといって、国展に通用するワケでは、全然在りません。
 また、そこが僕は気に入ってます。
 国展は、100号以上を受け付けない絵画展覧会でもあります。大きすぎる事には何の価値もないという事でしょうか。その事から言って、国展は、「アクリル絵画」を要求していません。理由は、公共建築用に開発されていて、発端ももちろん公共建築用の大きな壁面に対応する為に準備されたアクリルガッシュは、100号サイズの画面同士で、油彩の品位に敵うはずが無いからです。そういう意味でも、国展は、「アクリル画家」には、相当に高いハードルと言えます。
アクリルと油彩では、重合反応そのものが違います。アクリルの反応は、固着するまでは水溶性で、固着したら一切の科学反応をしないというものです。しかし、油彩は、途方も無い時間が固着にかかるから、手間がかかります。しかし一方で、油彩は水分の蒸発によって固着する訳では無いので、固着前と、固着後のマチエール差が殆どありません。
そういう意味では、アクリルはアクリルは少々難しいものです。水分蒸発系で在るゆえ、固着後のマチエールがかなり変わる物もあり、光沢も消えます。よって、最初の色と少し違う感じにもなります。
 例えば、塗りつけから固着の一つの行程によっても、これだけ質の違いを見せ付ける「頑丈な不透明水彩アクリル」
と、「油彩」ですが、一旦反応の差異を知ってしまえば、デッサン力のうちの当て込み能力として活用すると、そこまでの差異は無いと言えます。お互い、マチエールと、溶解による透かしと、描き込みを利用する、本格的な絵画思考の元にある製品ですから。なので、(二科展=ガッシュ 国展=油彩)が、妥当な感覚だと思います。
透かし、暈し、ストローク、確かに大事。しかし、最終的に総てを繋ぐのは、無論「描き込み」である。それが出来るなら、間違いなく国展に入る事が可能である。「マチエールに同調する描き込み」。これは私も少しだけ出来る。それができれば一級品であると言える。

論文「制作過程のイマジネーションの保持について」

 環境や状況から逃げない人間性と、それを承知した上での、絵画の追求としての精神性だという事。そうしたら、きっと大丈夫だと思います。そうしたら邪魔したいとか、暗くつきまといたいとかそういう規格の人間には、きっと引けを取りようが在りません。イマジネーションが人間の感覚点に悪影響を及ぼす事はありません。綺麗な志同士であるなら、きっとそういう腐った肉のようなかかわり方には成らないと確約できます。それで『そうならなかった!』という事は、100パーセントありません。先ず。
 人間には環境と技法と技術における自我の確立があります。そういう一連の邪魔も、多分その過程における人間の確執を、一層の技術覚醒に向けましょう。
 そして、次に、環境を一層一層上塗りしていきましょう。その積層を一朝一夕のじゃまで砕ける人間は、先ずいません。そういうものです。どこの大学にいってもそういう感覚は、要求されます。そういう楽しみを忘れないようにしないと、『自分が対した事無いと言い続けた人間に、足元を掬われて、泡を食ってしまいます。』
 逆に、自身が本物足りうるならば、年下に足元を掬われて、新しい仲間の誕生に歓喜するのが本物の芸術家であると感じます。そういう感覚を一刻も早く保有しましょう。私は既にそういう世界の住人。自分にも他人にも許さない。あるいは美術はそういう世界では無いかもしれないです。しかしそういう感覚が自分の中で保有されていてこそ心を許せるのが、僕の変わらない体質です。
 こういう感覚の保持が足らない人間は、しばしば過ちを犯し、一生懸命な人間の感覚に傷をいれます。しかし、その理由はつねに間違っているので、先ずは安心。これからも、素敵なイマジネーションの為、日夜努力しましょう。

 そして、あるいはそういう感覚にさいなまれるのは、芸術家だけではないのかもしれません。当然。

梅田 聡一郎 「美術関係の話」 さん 2005年 04月 24日 17時 38分 54秒

美術と健康学論文

 美術という活動は、特に心を使い、目や内臓の疲労を増やす。密閉された部屋で行う作業という事もあって、どうしてだか精神的にも結構疲労する。病院に通う人間や、錠剤を常用する人間がいたとしても何ら不思議は無い。
 そういう芸術活動のストレスは、屋内作業にして『衣食住』総てに美しさや景観、彩り、人間の作業の円滑、生活の循環の浄化としてタッチする事の難易度。『思いやり』や、人間の誠意の形作りであるがゆえの心労や、心の中の悩みが日々募るが故に起こる『変な疲労』が、尽きないということです。通常の人間からすると凡そ訳の分からない理由で自殺したり、病院送りになったり、薬を常用する為、その関心事の中に入る人間の活動もなかなか分析しづらく、その人間の病理を未然に解決する事も、とても難しいと憶測します。
 要は、「美術系は患者としてはとても厄介で、故に人一倍体調管理に気をつけて欲しい人種だ」という事である。人間のなかでも、退化しやすい、あるいは退化をいとわず活動をつづけるのが芸術家であり、体は当然弱い、という事である。
美術館での景観に着目してみよう。お気づきでないだろうか。美術館の中の人間。「少々太り気味」というだけで、かなりの大柄な人間に見える事。そう、美術系という人種は、僕も含めて、それだけ脆弱な人種なのである。
そういう意識の元活動して欲しい、という人間も、内外問わず沢山存在する筈だ。要は人生を歩んだ結果としての体格や、一個体としての蓄積が、美術家は脆弱になりやすいという事だ。
 一方で、学生常設には事故が起こり易い。「大作品」の厄介さだ。大作は、ナイーブな扱いを要求する割に、相当な重量を伴うので、扱いを知りつつ取り扱う事が重要になる。
そして、実はもう一つの重要な観点がある。そういうナイーブな作品の取り扱い、実は「ためらってはいけないのだ。」
しても良いことの範疇を利用して、最大限の要領を用いるのが作品の秘訣である。それはとても感覚が難しく、要領よ美術との狭間に位置するのだ。
 
 その活動の「混合疲労」は、とても体には辛いだろう。脳と肉体が両方疲れる、という事だから。そして、さらに新たな美術品にも精力を注がない事には始まらない。
まことに美術とは、疲労の連続なのである。しかも、動きは美的な為、なかなか表出しにくい分、当人たちが倍、気を使いあわないといけないという義務がある。
 一方で、これは描き手の願望、『こう描きたい』とか、『ああいう風に描きこんでみたい』とか、そういう類の事ず酩覆鮗儺佑瓩觜坩戮砲箸辰堂鯔鏡戸R悗箸いΔ里呂箸討睫鯲C帖@陛豕オ歃兮膤悗蓮エ饌療「房エ箸房茲蟾「鵑任い襦ヒ








美術と心理学論文 美術には、いわんや人間を癒す効果がある。その役割が無くては、作品の意義は無いと言っても過言ではない。社会の恐ろしさや、戦争に対する反対意識がある作品をアンチテーゼする事は可能だが、作品がコミュニケーションの取れる媒体として存在する、あるいはメッセージを内包した状態のものでなくては、結局なんの他人に対して与えうる回復も無い。と、いう事は、メッセージの中にも、テクスチャー、あるいは絵画技術としての、「見る側への癒し」がエッセンスとして内包されていなければ、成立はしても、誰かの足を止めるような絵画としては、成り立っていない、という事は。結局作品の中には「干渉」以外の、理解力とか、心遣いというものを含ませる必要性がある。
 セラピストの基本に「共感的理解」という必要事項が存在する。セラピストには、相手の立場にたつ必要が、相手とのコミュニケーションを取る上で出てくる、というものだ。
「充分に機能する人間」という解釈でもって相手を具体的に理解しようという側面と、同時に「そういった一連の不具合というのは、どういった理由から来ているのか」という心理的側面の、2方向から人間を治療する事が重要であるのと同様に、「社会的メッセージ、公的訴えとしての絵画」「心癒す媒体の塊と、その積層としての絵画」という両側、2方向から人間にイメージを投げかける事が絵画には重要であるといえる。 美術という活動は、特に心を使い、目や内臓の疲労を増やす。密閉された部屋で行う作業という事もあって、どうしてだか精神的にも疲労する。病院に通う人間や、錠剤を常用する人間がいたとしても何ら不思議は無い。
 そういう芸術活動のストレスは、屋内作業にして『衣食住』総てに美しさや景観、彩り、人間の作業の円滑、生活の循環の浄化としてタッチする事の難易度。『思いやり』や、人間の誠意の形作りであるがゆえの心労や、心の中の悩みが日々募るが故に起こる『変な疲労』が、尽きないということです。通常の人間からすると凡そ訳の分からない理由で自殺したり、病院送りになったり、薬を常用する為、その関心事の中に入る人間の活動もなかなか分析しづらく、その人間の病理を未然に解決する事も、とても難しいと憶測します。
 要は、「美術系は患者としてはとても厄介で、故に人一倍体調管理に気をつけて欲しい人種だ」という事である。人間のなかでも、退化しやすい、あるいは退化をいとわず活動をつづけるのが芸術家であり、体は当然弱い、という事である。
美術館での景観に着目してみよう。お気づきでないだろうか。美術館の中の人間。「少々太り気味」というだけで、かなりの大柄な人間に見える事。そう、美術系という人種は、僕も含めて、それだけ脆弱な人種なのである。
そういう意識の元活動して欲しい、という人間も、内外問わず沢山存在する筈だ。要は人生を歩んだ結果としての体格や、一個体としての蓄積が、美術家は脆弱になりやすいという事だ。
 一方で、学生常設には事故が起こり易い。「大作品」の厄介さだ。大作は、ナイーブな扱いを要求する割に、相当な重量を伴うので、扱いを知りつつ取り扱う事が重要になる。
そして、実はもう一つの重要な観点がある。そういうナイーブな作品の取り扱い、実は「ためらってはいけないのだ。」
しても良いことの範疇を利用して、最大限の要領を用いるのが作品の秘訣である。それはとても感覚が難しく、要領よ美術との狭間に位置するのだ。
 
 その活動の「混合疲労」は、とても体には辛いだろう。脳と肉体が両方疲れる、という事だから。そして、さらに新たな美術品にも精力を注がない事には始まらない。
まことに美術とは、疲労の連続なのである。しかも、動きは美的な為、なかなか表出しにくい分、当人たちが倍、気を使いあわないといけないという義務がある。
 一方で、これは描き手の願望、『こう描きたい』とか、『ああいう風に描きこんでみたい』とか、そういう類の事ず酩覆鮗儺佑瓩觜坩戮砲箸辰堂鯔鏡戸R悗箸いΔ里呂箸討睫鯲C帖C箸C@ウ蚕僂僚限臉「箸靴討糧サ儚萋阿癲トノ椰佑離Ε蠅任△覦幣紂△笋呂衄サ僂隆粟テ戮如トノ椰佑鮠絏鵑訖夕錣倭衒僂錣蕕座減澆靴覆ぁ」
 あの石膏像や、ルネッサンス絵画といえども、積層と、重層感においては結局日本人の上を行く事などとても不可能である。日本人の気質でなければ、生み出す事が不可能な「思考的密度を組む絵画理論」で、できたインスタレーション絵画は、構図は精巧、かつダイナミックに仕上がっている。そういう日本の気質が、オリジナリティーを奪う行為にも繋がり易くはあるのだが、結局人間は「同じ物があれば、良質な方に興味を引かれる」というのが定石なのである。


梅田 聡一郎 さん 2005年 04月 24日 17時 37分 45秒

「制作意図」についての論文

美術を渇望する人間は、何を手に取ろうともなにか魅せる物を作ってしまう」というのを。
 そうしたいという人間、真にそういう物を創造したいと考える人間に、媒質のハードルや技法の難解度はあまり問題ではないのだ。「その表現をするにおいての最大限のマテリアルの生かし方」が、最も重要であり、それを習うにしても、習わざるにしても、描かんと欲する人間はどうにかして、頭の中から引きずりだす。道具と道徳を思考するだけで、ある程度は解決付いてしまう。勿論そこからの教養というのが肝心なのだが、その地盤にそういう「思い」が根付いていないと、作品として「意味が分からない」のだと感じる。
 道徳を筆を取る際感覚化させるだけでも、それが充分な「技法」足りうる。
 絵の具を使う=無駄なき方法を知っている=少ない画材で良い物が沢山できる
 絵の具を使う=道徳観念がある=無駄をしない考え方をする=上記に同じ結果
 という様に、道徳観念が生み出す「思い」が、今そこに習わぬ知識を生み出す事があり、美術に携わる人間は、それが自分の手元から出てきた瞬間、それを残し、逃さずキャッチしなければいけない。そういう感覚を絶えず保有する事と、そういう「真新しさと品格の違った創造」を心が排出する精神性を保有している人間こそが天才であり、それ以外はただの全体の中の売名に過ぎない。そう、道徳性とは心の広い人間性にこそ微笑み、矮小で真新しいものにばかり走る人間には振り向かないのである。
   本当の真新しさには理由とコンセプトがある。多くの人間に目を引いてもらいたい、戦争、社会、国、等の、確固たる理由や、「自分の絵を見ている間だけでも和んでいてもらいたい」とか「こういう表現、コンセプトで表現した事を皆に伝えたい」という『理由』に基づいて作られ、その結果、多くの人間の足を止めるような技術が必要になり、『真新しさ』が表出する。要は

     『本人の一番良い自我を、技法を乗せて放出する』
 のだ。そこには、自分の引いた線、たまたま形として出来てしまった美しきストローク、筆跡のみに流されない、『本当に優れた心の持ち主』のみが到達できる『技法をちりばめてなお、爆発混在している自己表現』がある。僕は僕の絵も含めて、そういう絵を未だ目にした事が無い。
それは、その夢は、『左手で左手の肘を掻く』が如き夢である。そう、技術を一画面に纏め、一つの体系としてバランス良く表現することと、そういう『表現』という感情の曖昧さの混在の渇望は、矛盾点が多く、例えばクロッキーをいくつもかさねたとか、其れこそ面白い絵柄を作った、だれも知らない技法を生み出したとか、そういう物とは別である。『誰も知らない線の引き方が出来た』というのは、実は結構意味性に欠ける。例えば卵を投げてきれいに割れる手腕があったとして、『皆の役に立つ類では無い、意味性の希薄な趣味性の高い技』なのだ。本当に表現を渇望する人間は、適当にやっても何故かその表現したい事項が表出した絵になるのである。よって、美術をする人間の殆どが、その夢を抱いている。その夢の頂の高さにかかると、大作までもが失敗作と化す。僕は勿論出来ない。しかし、美術は技術でなく、美しきなにかの表出術であり、技法体系を美しくまとめるだけのものに終わるのも、僕自身としては寂しいような気がしてならないのである。
 前述したように、制作の意図と、癒しのバランスが作品には欠かせないのだろう。リアリティーをどれだけ保有したものでも、結局それと等量の癒しとしての絵画技術を保有したものでなければ、絵画を体感する側としても、とても息苦しい。言い換えるならば、「制作意図の為のリアルな一側面」がそこにあるのであれば、相手は気持ち悪さを感受しないし、感知もしない。逆に、いかに可愛いものばかりを扱った絵画でも、その「制作意図の為の腹黒い算段」がそこにあるのであれば、相手はなぜかそこに気持ち悪さを感受する。そういうものである。
技術というのは、とても重要である。軽んじてはいけない、皆が苦心に苦悩を重ねて生んだ思考の断片を、客観的な視覚や考え、感覚、理論によって否定したり、また肯定したり、練り直したり、技術同士を比べて、新たに生み出されたものであるか、それとも既存の技法の変容、応用的なものであるか検討したりして一つ一つがとても自由な発想と、今日の技術的修練と完成度で生み出されている。その集積が技法である以上、技術を、単なるテクニックとして否定する事は、誰にも出来ない。美術に愛着があればあるほど、本当は「できない」のである。
 ところで、6年から7年以上画面に着手した人間ならもう分かると思うが、技術には併用が可能である。ステンシルとストロークも、ステンシルの用紙の上から、筆跡(ストローク)をダイナミックにつけることができる。ステンシルの上からドリッピングすると、用紙をはがした時、用紙の切り抜いた部分にのみドリップの痕跡が残る。そのようにして、技術同士の混合が可能なこの一つ一つのぎじゅつは、とても上手く共存してる。ステンシルで直線を切り抜いて、ドリッピングを5〜6階調で行い、上から光の調節を行うようにして加筆を行うと、「ドリッピングの柱」が出来る。そのようにして、技術の併用によって出来る表現は、掛け算式に倍加する。この感覚さえ持っていれば、いかに描写力を有した状態でも、画面の真新しさを失う事は無い。「実力介在形前衛絵画」の出来上がりである。
今現在の常識の中の技術は、とても幅が出来たと感じる。しかし、肝心なのは使い手の方の心構えである。人間の、物知りげなプライドが自身の向上心に対するストッパーになることもあれば、社会における低俗な嫌がらせに屈し易い稚拙な作業をする人間のありようなどに、心を狂わされるであろう。修行僧ではないので、それが自然な事である。しかし、いくら人間が良いからといって、思いやりがあるといっても、それ全部自分の負債であるという事。なので、技術を研鑽する身になったからといって、その精神や心構えを決して変えてはいけない。そして、「ダイナミックさより密度を重視したい」とか、「知名度より節度を重視したい」のなら、まずそういう技術の習得に対して熱心でなくてはいけなく、指導者もそれを応援する義務があり、その責務から逃避した口の使い方をするのなら、心優しい人間からの、制裁を受けなければいけない。美術は、心根の綺麗な人間を、からかう為に生まれた技術ではない。ゆえに、今日も、誤った用法を呪詛的に用いた人間は、どんなに多勢であろうと、容赦なく罰せられるし、そういう正しさの方がまかり通るように出来ている。まことに不思議な感覚を覚えました。
制作意図という問題、観点もそう。制作の意図がとても深いものなら、一見単純なようでも、なぜか心の深い部分に響き、技術がいかに複雑で、さまざまな描きこみに基づいた技術形態であろうと、モナリザをぱくったような「間違った斬新さ」を持っていたら、人間は自然と素通りする。その証明のもっとも顕著な例が現代美術だといえる。おおよそ技法的な構成上の詰めや、制作上の完璧な予定、その他総てが曖昧であるものの、人間の心惹くテーマ性に満ちている。
美術という画面の応用性には、様々な悪用方法が存在する。それはいわんや、不明瞭な利用方法で、とても人間の隠れ蓑になりやすい。知識のある人間が利用して、知識の無い人間を騙しきるのだから、それは罰せられる筈が無い。よって芸術系には、逸脱した感じの人間がいる。一部の知識者によって、自覚を奪われているのだ。心を自動的にコントロールされるかのように。そういう人間の把握量の差を用いた、間抜けな失敗も美術にはあり、それは医学等がツケをもっている。現代社会に絵画が登場する事は、とっても考えにくい。なぜって今は、ビルディングのモニターの大画面が、壁画にとってかわり、そういうシステマティックな全体が、絵画という手間隙を、ぶち壊してしまったからである。そうして今、デザインという簡易で安易な物体が日常社会を占め、その量産性が格好の特異点を求める人間達を食い物にしているというわけだろうと感じる。
 自分は、絵画を一生懸命に続けた人間である。その時脇目も降らなかった。学校を辞めたり、誤解されたり、陰口を叩かれても、まるで気にしなかった。歯が欠けても、肌がボロボロになっても、その筆を、訳のわからないダスターに持ち替えてでも、辞めなかった。その事が今日の僕にほんのチョットの身分をくれた。後は、皆が喜んでくれると嬉しい。それだけだ。人間の制作意図というのは、技術を超えて人間の意志を支配する。その意図へ向けて、心燃やし、体を裂いた人間には、必ず望みが敵う。その望みが、他人がより多く喜ぶタイプのものであるのなら、なおさらである。そして、制作意図が自身の作風に沿ったものであるのならば、作品はいつも8割方の成功を収める。一人の個性ある人間が、長く作品を制作する事に従事してゆくと、どのような人間にもアクや、個性が表出する。そしてその個性に沿った制作体系を、生み出すに至る。基本的な技術体系の上にその個性が綺麗に乗ったとき、その絵画の個性はゴールインする。そう、制作意図と技術は、本当はとっても仲良しなのだ。「制作意図=個性」「個性があるから、技術を介在させるのが面倒くさい」という心理状態に陥り易い、集中制作においては、結局そういう人間の感性が完成度に対する障害と化す、という事実がある。しかし、誠に良いものが作りたい、自身の個性の先の、一番良い表現状態が見たいと感じた場合、技術のハードルというのは、そういう願望が在る人間にとっては実は「そんなに高くない」。大きくその体を使い、絵画をする大人として解釈するならば、決して困難でない。それに気付いている人間は技術を吸収する。それが総てでないのだから、技術の習得はとっても簡単な筈だ。技術は媒質である。技術は用法である。その用法の真新しさが、新しい自身を引き出す事も沢山あるはずだ。で、あるのならば、技術の幅が広ければ、制作の意図の深みも増すというものだ。長年一つの物事に従事した人間には、その内実の研鑽方法について、知る義務がある。それが制作意図に一層の深遠広大さを与える事は、言うまでもない。
 このようにして、技術と制作の意図がどれだけ重要な接点を有しているかは分かるでしょうが、ここからさらに分解し、かつ分かり易く克明に制作意図と技術の関連性について触れてみたいと思う。
 例えば在る一色、「ベージュ」によって得た感覚からイメージを膨らませて絵を描いたとしよう。その一色によって生み出せるイメージの幅と、更にもう一色、「ベージュの補色」を絡ませて描ける絵のイメージの幅では、どうしても、その「もう一色」を知っている、及び用いる事が出来る人間の絵画の方に完成度が出来るのが、当然の結果である。色数が総てでは無い。シンプルな方に注目が集まり、その魅力はシンプルである事で成立している絵画も当然沢山ある。しかし、この場合で言う所の感覚点とは、「製作意図の深みの差異」を表す。日本的な一面を内包した高名な現代絵画においては、一色の色彩だけが主立っている事は先ず皆無である。人間が魅力を感じるのは、その苦悩と正しき研鑽の集積である。結局、「癒し」というレベルを超えた解釈の感覚になると、そういう「研鑽の集積」が価値基準と化し、その中で人間はもっとも複雑にして深遠なイメージを両有するものを選出する。よって、絵画の制作意図に深みを与えたいのならば、当然制作の複雑化が必要不可欠になってくる。その技術の集大成に一つ一つの技術を付加し、その付加に自身のイメージを引っ張られてゆく事も、重要な研鑽のポイントになる。
              そう、制作意図自体も成長するのである。

梅田聡一郎  「美術の話」 さん 2005年 04月 24日 17時 35分 48秒

 美術には、いわんや人間を癒す効果がある。その役割が無くては、作品の意義は無いと言っても過言ではない。社会の恐ろしさや、戦争に対する反対意識がある作品をアンチテーゼする事は可能だが、作品がコミュニケーションの取れる媒体として存在する、あるいはメッセージを内包した状態のものでなくては、結局なんの他人に対して与えうる回復も無い。と、いう事は、メッセージの中にも、テクスチャー、あるいは絵画技術としての、「見る側への癒し」がエッセンスとして内包されていなければ、成立はしても、誰かの足を止めるような絵画としては、成り立っていない、という事は。結局作品の中には「干渉」以外の、理解力とか、心遣いというものを含ませる必要性がある。
 セラピストの基本に「共感的理解」という必要事項が存在する。セラピストには、相手の立場にたつ必要が、相手とのコミュニケーションを取る上で出てくる、というものだ。
「充分に機能する人間」という解釈でもって相手を具体的に理解しようという側面と、同時に「そういった一連の不具合というのは、どういった理由から来ているのか」という心理的側面の、2方向から人間を治療する事が重要であるのと同様に、「社会的メッセージ、公的訴えとしての絵画」「心癒す媒体の塊と、その積層としての絵画」という両側、2方向から人間にイメージを投げかける事が絵画には重要であるといえる。 美術という活動は、特に心を使い、目や内臓の疲労を増やす。密閉された部屋で行う作業という事もあって、どうしてだか精神的にも疲労する。病院に通う人間や、錠剤を常用する人間がいたとしても何ら不思議は無い。
 そういう芸術活動のストレスは、屋内作業にして『衣食住』総てに美しさや景観、彩り、人間の作業の円滑、生活の循環の浄化としてタッチする事の難易度。『思いやり』や、人間の誠意の形作りであるがゆえの心労や、心の中の悩みが日々募るが故に起こる『変な疲労』が、尽きないということです。通常の人間からすると凡そ訳の分からない理由で自殺したり、病院送りになったり、薬を常用する為、その関心事の中に入る人間の活動もなかなか分析しづらく、その人間の病理を未然に解決する事も、とても難しいと憶測します。
 要は、「美術系は患者としてはとても厄介で、故に人一倍体調管理に気をつけて欲しい人種だ」という事である。人間のなかでも、退化しやすい、あるいは退化をいとわず活動をつづけるのが芸術家であり、体は当然弱い、という事である。
美術館での景観に着目してみよう。お気づきでないだろうか。美術館の中の人間。「少々太り気味」というだけで、かなりの大柄な人間に見える事。そう、美術系という人種は、僕も含めて、それだけ脆弱な人種なのである。
そういう意識の元活動して欲しい、という人間も、内外問わず沢山存在する筈だ。要は人生を歩んだ結果としての体格や、一個体としての蓄積が、美術家は脆弱になりやすいという事だ。
 一方で、学生常設には事故が起こり易い。「大作品」の厄介さだ。大作は、ナイーブな扱いを要求する割に、相当な重量を伴うので、扱いを知りつつ取り扱う事が重要になる。
そして、実はもう一つの重要な観点がある。そういうナイーブな作品の取り扱い、実は「ためらってはいけないのだ。」
しても良いことの範疇を利用して、最大限の要領を用いるのが作品の秘訣である。それはとても感覚が難しく、要領よ美術との狭間に位置するのだ。
 
 その活動の「混合疲労」は、とても体には辛いだろう。脳と肉体が両方疲れる、という事だから。そして、さらに新たな美術品にも精力を注がない事には始まらない。
まことに美術とは、疲労の連続なのである。しかも、動きは美的な為、なかなか表出しにくい分、当人たちが倍、気を使いあわないといけないという義務がある。
 一方で、これは描き手の願望、『こう描きたい』とか、『ああいう風に描きこんでみたい』とか、そういう類の事ず酩覆鮗儺佑瓩觜坩戮砲箸辰堂鯔鏡戸R悗箸いΔ里呂箸討睫鯲C帖C箸C@ウ蚕僂僚限臉「箸靴討糧サ儚萋阿癲トノ椰佑離Ε蠅任△覦幣紂△笋呂衄サ僂隆粟テ戮如トノ椰佑鮠絏鵑訖夕錣倭衒僂錣蕕座減澆靴覆ぁ」
 あの石膏像や、ルネッサンス絵画といえども、積層と、重層感においては結局日本人の上を行く事などとても不可能である。日本人の気質でなければ、生み出す事が不可能な「思考的密度を組む絵画理論」で、できたインスタレーション絵画は、構図は精巧、かつダイナミックに仕上がっている。日本の気質が、オリジナリティーを奪う行為にも繋がり易くはあるのだが、結局人間は「同じ物があれば、良質な方に興味を引かれる」というのが定石なのである。
 決まり事の中で物事を煮詰める行為で世界一なのは日本人である気がする。
一方で、美術に携わる人間の感覚と、技術の駆使の天秤をとても悩みの種にする人間もたくさん存在すると思います。
なんに関してもそうですが、「万人に共通する悩み」と、「専門的に理解する必要がある事実への悩み」は、とても矛盾を抱きやすい問題が出てきます。そういう時、どちらを優先順位として持ってくるかはその人間各自の自由になると思います。あらかじめ自己心理の理解力を上げている人間は、「飲み込み」が違います。「ああしなければいけない」、という理由を心が理解するので、とっかかりなく物事を推し進める事ができます。これと美術的技術と交わらせると、同様の事が言えます。例えば、テクスチャーを作る下塗りに扱う技術を用いる、ストロークであったり、もしくはマチエール、テクスチャーであったり、その選別が正しい人間というのは、より良い選別をする人間というのは、「そうしないといけない理由」を深く理解している人種だからです。その理解に技術を乗せているから、「技術的に卓越しているにも関わらず、内的理解に乏しい」という失敗が無い、という訳です。
 テクスチャーや、地塗りは、失敗すると次の面を作るとき、その失敗した部分のみが一層厚くなり、「物体」として見た場合、不自然になります。そしてテクスチャーの失敗、しかもその色面がとても大きかった場合、上塗りにはあからさまな費用がかかる上、支持面が重くなります。
 物事の間違いには費用が掛かります。そして世の中においてその失敗は往々にして自身に帰ってきます。よって、「間違えるな」と言える人間の方が少しだけ思いやりがあるというのが事実です。
 技術的失敗の積層は、人間の心に対して「できない」という感覚を自身に刷り込む事になります。そういう「自分の刷り込んだ感覚」というのは中々払拭しずらいものです。他人が刷り込んだ感覚は距離を置く事でやがて緩和されますが、自分とは一生、一秒も離れ離れになる事ができないのです。よって、自己に対する不安はなかなか払拭しずらいものなのです。美術とは、自分の内面の表出場面であり、調子の不具合がすぐ体にでます。よって、「自身に負けない心」というものが必要不可欠になると感じます。
 他人と自身を比べてみた場合に、どうしても心理的不安が伴い、いつもの好調が出ないでしょう。しかし、そういう場合にこそ意味性を伴うような2倍の優しさと、2倍の具体的な何かでもってますますの好調を引き出すのです。





美術にはいわんや人間のメンタルに関わるという役割が存在します。人間のメンタルに画面でもって食い込む作業、実はこれかなり現代社会においては重要な役割を担っています。コンピューターや、社会の軋轢に耐えかねた人間の心理的ある一面の崩壊を、きれいさっぱり立て直す行為や、ゲームの画面に惑わされた人間、携帯電話の画面に身体的な側面を害された人間のリロード方法としての絵画が、今日存在します。
色彩は「癒し」、テクニックは「信頼」、技術は「円滑なコミュニケーションとイメージの助長」、解剖学は「正しい画面内の人体のありようとテクニックとの関連性」、修練は、「義務」、会合は「守りあう為」。
 そういう一連の行為が絵画の作品作りにおいてもっとも重要な決定付けになります。その存在が際立つ秘密の箇条はこんなところです。
 人間には、実生活、実際の世界以外の癒しが必要となります。そして、そういうぎりぎりの癒しを与える行動というのはとてもテクニックと修練の時間を擁します。その研鑽の量が確かになってゆくと、人間は障害を乗り越えるようになります。そして画面を見る人間の障害もそこから消えうせます。そういう技術の集大成に対して得る感動とは、

   「思いやり×技術」という倍加方式により一層の効用を他人全体に与えます。

 技術の無い絵画というのは、とても客層が偏ってきます。そういう場合に、自分も他人も、大変寂しいでしょう。

サザエさん さん (doratyann@livedoor.com) 2005年 04月 22日 20時 52分 51秒
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最悪ですココ…
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最低だよココhttp://indies-gogo.tv/?K

ポケモン さん (doratyann@yahoo.co.jp) 2005年 04月 20日 16時 20分 04秒
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最悪ですココ…
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サイアクぅhttp://indies-gogo.tv/?K

ゆ〜みん。。。 さん (sayo@ocn.ne.jp) 2005年 04月 17日 16時 32分 45秒
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ねぇ。。。このサイトどう思う?
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ミッキー。。。 さん (sayo@ocn.ne.jp) 2005年 04月 13日 16時 12分 33秒
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レナ。。。 さん (sayo@ocn.ne.jp) 2005年 04月 11日 12時 00分 24秒
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ミッキー。。。 さん (sayo@ocn.ne.jp) 2005年 04月 10日 14時 13分 45秒
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レナ。。。 さん (sayo@ocn.ne.jp) 2005年 04月 07日 20時 33分 53秒
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ミッキー。。。 さん (sayo@ocn.ne.jp) 2005年 04月 04日 09時 25分 22秒
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ミッキー。。。 さん (sayo@ocn.ne.jp) 2005年 04月 02日 13時 49分 16秒
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留美 さん (grwaghreas@greajht.net) 2005年 03月 29日 21時 31分 28秒
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私も愛用ダヨ!たまには気持ちいぃコトしよぉw(^♂♀^)w
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K子 さん 2005年 03月 28日 08時 58分 29秒
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梅田 聡一郎 さん 2005年 03月 25日 10時 32分 25秒

 私、長年美術に携わる人間です。出来る人間はやる気のある人間にあらん限りの妨害をし、出来ない人間はその手助けをする汚れた日々。

 哀れなり。向いてないなら、結託して嫌がらせする知恵くらいあるだろう…。可哀相。

梅田 聡一郎 さん 2005年 03月 25日 10時 29分 20秒

 最近、こういう冷やかしが増えました。
そして、こういう人間を利用して良い格好する美術屋も増えました。
 昔の方が良かった。

留美 さん 2005年 03月 24日 23時 01分 28秒
URL:http://sugarmixer.net/?N

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ギャラリーdotONE さん (dot1@nct9.ne.jp) 2005年 03月 18日 14時 54分 42秒
URL:http://www.nct9.ne.jp/dot1/

当ギャラリーでは
CGアートの参加募集をしております
(6月開催予定)
詳しくはHPをご覧下さい
http://www.nct9.ne.jp/dot1/

東京アート さん 2005年 03月 17日 00時 06分 26秒

銀座、金春通りの小さな(ちょっと変わった)画廊
東京アート
TEL:03−3574−1855
住所:中央区銀座8−7−7Jビル1階
(「バザール・蚤の市」の赤い看板が目印)
営業時間:午前11時〜午後6時30分

洋画・日本画・版画・陶器・アンティーク
巨匠の作品からお手頃な小品まで幅広く取り扱っております。
展示作品以外にも在庫は数多くございますので、店員にご相談下さい。
※3月31日(木)までスプリングセール中。詳しくは店員におたずね下さい。

梅田 聡一郎 さん 2005年 03月 11日 13時 23分 18秒

 誰かこの謎教えて!!!
 解釈として言えるのは、単量体とは、1粒子の状態の事を指す。そして、ガッシュ同士であろうとなんだろうと、粒子同士が絡まって、噛み合ったものは、重合体なのだ。
 
 X(モノマー)+X(モノマー)=y(ポリマー)

という公式も、そこから割り出せる。と、いうことは、

 X(モノマー)+Y(ポリマー)=Y(ポリマー)

 (XY)(ポリマーとモノマー)+xも、

 (XY)+Yも、

 ポリマーという括りが固着前に混色同時塗布される以上、重合体であると言える。
 解釈の大元として、複数粒子が絡んでいるものは全部ポリマーなのである。
 只一つ、悩むのが、「同色の混色は?粒子からまっとるけど?」っていう事なのですが、誰か教えてもらえないでしょうか…。

ユニグラバス銀座館 さん (info@uniglavas.com) 2005年 02月 08日 17時 23分 36秒
URL:http://www.uniglavas.com

管理人様
掲示板お借りいたします。

ギャラリーユニグラバス銀座館では現在
「ユニグラバス展」を開催しております。
当ギャラリーがお勧めしている作家126人の
作品を4週に渡り展示しております。

是非、ご家族ご友人をお誘いの上ご来場ください。


主な詳細、スケジュールに関しましては、
当ホームページの最新企画展情報をご覧下さい。
http://www.uniglavas.com

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会場 
ユニグラバス銀座館

東京都中央区銀座8−12−11

TEL:03−3544−6455

日時 
2005年2月28日まで開催

問い合わせ
info@uniglavas.com
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梅田 クン さん 2005年 01月 25日 11時 24分 58秒

 済みませんでした、、、、、、、、。
海よりも深く、山よりも高く、反省しております。
ただ、少々ショックだったもので。許してください、、、、。この暴言。
ごめんなさい、済みません、深く深く、反省しております。もう、穴があったら入りたい、マルスブラックがあったら塗りたいくらい、反省に反省をかさねています。ペールライラックよりも青ざめた表情で、反省しています。ヒエロニムスの絵画の中にいるくらい反省しています。

梅田 聡一郎 さん 2004年 11月 27日 03時 07分 38秒

パーチクリンってなんですか。パーチクリンって、なパーチクリンパーチクリンパーチクリン〜ですか。パーチクリンパーチクリンパーチクリン

梅田 聡一郎 さん 2004年 11月 27日 03時 05分 56秒

 すいません、パーチクリンってなんなのか、本名じゃなくていいんで、今度入れといてください。僕、俗語知らなくて、、、。

梅田 聡一郎 さん 2004年 11月 27日 03時 00分 24秒

パーチクリンってなんですか!?

和+RLD さん (momomotumomonga@msn.com) 2004年 11月 24日 15時 55分 07秒

アート作品出展者 「和+RLD」
2005年1月21日(金)京都の東寺で行われる初弘法に合わせ、東寺に隣接する「ぎゃらりーそわか」にて、アートショップ(自ら作成したアート作品を売るという形)を行います。
そこで一般の方(自分のお店をお持ちでない方)や学生の方を中心にアートショップ出展者を募集しております。

●募集のテーマ
 「現代の和」を意識したアート
●募集申し込み締め切り日
  2004年12月17日(金)当日必着
●ブースの大きさ
  床幅150×120の天井までの大きさ 壁展示あり
●出展料
  1ブース2000円 マージンあり
●応募方法
  氏名、年齢、住所、連絡先、作品説明を御記入の上宛先までお送り下さい。

●宛先
  〒617ー0844
   京都府長岡京市調子1ー25ー1
   大阪成蹊大学 芸術学部 美術工芸学科
   立体複合表現領域 「モノプロジェクト」宛

※募集多数の場合、こちら側で選考させて頂きます。
 ご了承下さい。

ご質問等がありましたらE-mailまで問い合わせ下さい。


マリアの心臓 さん (info@mariacuore.com) 2004年 11月 19日 09時 38分 03秒
URL:http://www.mariacuore.com

 渋谷 マリアの心臓からのお知らせです‥‥……━★

【木村龍人形展覧会】

<真夜中の子供達>
木村龍の新作を含めたドールが渋谷マリアの心臓に
この度初めて結集。等身大の少女たちが妖しい魅力で迫ります。

11月27日(土)〜12月5日(日)
13:00〜19:00 † \1,000
*VEXATION 演奏会 12月5日(日)
 open 18:30 start 19:00
当日、13:00より整理番号付きチケットを販売致します。

【マリアの心臓常設ドール】
天野可淡・恋月姫・四谷シモン・三浦悦子ほか
※人形入替えの際には休館となります。
今月の休館日:11月24日、25日
*皆様のご来展を、こころよりお待ちしています。

マリアの心臓
http://www.mariacuore.com

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