途中トイレに行きたくなったが、あらかじめパンフレットで仕込んだ「あらすじ」からいくと「もうすぐ終わるだろう」と思ったので我慢した。でもいい加減我慢できなくて、ふっと腕時計で確認するとまだ1時間しか経っていないのがわかり、堪らず席を立った。

 「季節の中で」は私にはその程度の映画に過ぎない。上映後、ロビーに貼られた絶賛の映画評の数々を見て、苦笑を禁じ得なかった。唯一、女優・石田ひかりの「見終わった直後の感想は、うーん」が私の心情に近い。

 どのエピソードも演出がクサくて中途半端なのである。
 たとえば元米兵がサイゴンの現地妻と自分の間に出来た子供を捜しに来る話。やっと米兵は子供(といっても成人しているが)を見つけ、喫茶店で初めて話し合う。子供の表情は最初は硬いのだが、それも彼からハスの花をプレゼントされ、笑みをこぼしてしまう程度でしかない。カメラはお互いうち解けた話をしているシーンを窓の外から映し出して終わるのだが、そりゃないだろう。自分を捨てた父親とそんなに簡単に和解できるのか。

 むしろ『天と地』(オリバー・ストーン監督)で難民で米国に逃げた主人公が久しぶりに帰国して、兄弟から最初に投げかけられる言葉が悪罵だったように、恨み節から始まるのが自然ではないか。このエピソードには「せっかく会いに来てやったんだから」という米国人の言い訳めいた視線を感じてしまう。よしんばその場は話し合いが出来ても、この親子の葛藤は再会から始まるはずだ。つまり中途半端なのである。

 シクロと娼婦の恋もそう。途中から私は「このシクロはこの女とヤらないとかぬかすだろうな」と思っていたら、本当にそうだったので、笑いをかみ殺すのに苦労した。しかもシクロが「もっと自分を大切に」と言いながら娼婦に渡す本のタイトルが「個性の輝き」。笑うでしょ、笑うでしょ。

 おそらく監督は「社会の底辺に生きる者の純愛」を描こうとしたのだろうが、「娼婦=社会の底辺」という位置づけ自体が類型的だし、二人が結ばれてハッピーエンドなのも納得いかない。身体売っていた女性と、ど貧乏に喘ぐ二人は今後もっとお互いについて苦しむはずだ。ここでも中途半端。

 他にもストリートチルドレンの少年が、ホテルのロビーに入って別世界を感じる「貧富の差」の演出のクサさとか、「ライ病」詩人の詩がおセンチでちっとも感情移入できないとか、この映画には突っ込みたいところがいっぱいあるがやめておく。

 監督のトニー・ブイは二歳のときにアメリカに移住した在外ベトナム人(アメリカ国籍を取得しているかも知れないが)。と聞いて我々が想起するのは、「青いパパイヤの香り」「シクロ」を撮ったフランスに住む在外ベトナム人監督、トラン・アン・ユンである(ネットで調べたら「トラン」となっていたのでそう書くが、もしこの監督の綴りが“Tran“ならベトナム読みは「チャン」である)。

 しかトラン監督がフランス国内の撮影だけで「パパイヤ」で熱帯の色彩感覚を、「シクロ」でサイゴンの裏通りに漂ういかがわしさを見事に演出しきったのに対して、トニー・ブイはベトナム・ロケをしながら、なにも見ていないしなにも描いていない。我々はそろそろ「ベトナム人監督」とか「ベトナム・ロケ」とか、背景事情を斟酌せずに正味の「映画作品」で評価すべき時期に来ているのではないだろうか。とくに海外制作のものに関しては。

 この映画は「サンダス映画賞」のグランプリを獲得している。どのような賞か知らないが、まだまだ映画界には上述したような作品の質ではなく背景事情で評価するような基準が存在しているらしい。そのことを知る意味にだけ、この映画を観る価値はある。あ、でも観る前にトイレは忘れずにね。
(未発表原稿)
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映画評「季節の中で」