ベトナムの女(1)

 サイゴンに住む日本人の友だちが、一昨年のクリスマスイブにベトナム人の彼女とキスをした。翌日のクリスマス、彼女の兄キが白い歯を浮かべながら、彼のもとにやってきた。
「妹と婚約してやってくれないか」
 兄キは単刀直入に切り出して、ひらひらと手を振った。
「いやなに、形だけだよ。2,3年付き合ってみて、それからのことは二人でゆっくり考えてくれたらいい。ただ妹の外聞のことを思って、婚約の形だけはとってくれよ」

 友人は兄キのいうことはもっともだと、婚約した。
 昨年暮れ、僕がサイゴンを訪れると、くだんの友人には赤ちゃんができていた。
「いや自分の子って、ヤッパかわいいねー」
 もちろん彼女とは正式に結婚し、その奥さんは隣でククッと下をうつむいて笑っていた。


 僕がかつて十ヶ月住んでいたころも、サイゴンの女たちはみんなタフ・ネゴシェイターばかりだった。

 ニュンと知り合ったのは、当時のサイゴンの高級ディスコでだった。店で写真を撮っていた僕にニュンが話し掛け、翌日、さっそく電話をかけていた。電話口で一瞬誰からの電話か見当がつかない僕を彼女は
「アイ・ヘイト・ユー」
 とささやくようにつぶやき、僕たちの付き合いは始まった。

 きっかけは彼女からでも、気持ちの傾斜は僕の方が激しかった。彼女の腕時計のガラスが傷だらけだったり、日本人なら捨ててしまうようなほつれたハンドバッグを、大事そうに抱えているのを見るとたまらない気持ちになった。何か買ってやろうか、と買い物に出かけインチキ臭い日本製化粧品店に連れて行かれこともあった。でも嬉しそうに
「日本製の化粧品を買ってもらった」
 とピョンピョンと弾むように歩く彼女を見て、また同情とも愛情ともいえない気持ちを高ぶらせた。

 ちょっとしたいさかいは、いつもベッドに引きずり込まれて僕の負け。最初の夜、彼女は“初めて“のフリをして痛がった。怪しんで追求すると「あ、バレちゃったかな」と二度目から僕の上に乗るようになった(ちなみに僕がで出会ったベトナムの女の子はたいていこの体位が好きだった)。


 でも僕がニュンの中でいちばん好きだったのは、ベッドで寝ているそばから漂う、陽に焼けた髪の毛や茶色の肌の匂いだった。それは日本人の女の子がつける化粧品やシャンプーのそれとは違う、太陽の匂いだ。
「自分は南国の、ベトナムの女と一緒にいる」
 そんな想いで胸がいっぱいになった。
 僕たちの関係はニュンから始まり、ニュンが終えた。理由は僕が結婚の約束をしないからだった。だが僕の立場から言えば、知り合って一ヶ月もたたないのに結婚の約束をしろというのが無理な話だ。

 でも彼女はいくらそう説明しても納得せず、僕が電話口で呼び出しても出なくなった。
「よかったね、騙されなくて」
 僕が振られたことを知って、わけ知り顔でこんな慰め方をしてくれる日本人がいたが、騙されて、騙して、なにが悪いのだろうか。日本人の男女だって所詮騙しあいではないか。
 だから僕は冒頭の友人が羨ましくて仕方ない。うまく騙されやがって。

 どうせなら僕もニュンに騙されたかった。
 おかげでサイゴンから帰国して4年たち、二人が出会ったディスコも場所を変えて繁盛しているというのに、僕の心のかけらはまだあの街のどこかに転がったままだ。

(96年女性誌に発表)

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