ここ数年、テレビドラマや映画、小説、漫画でベトナムが舞台になったり、主人公がベトナム人という作品が増えてきた。主人公がタイ人だったりマレーシア人だったりする作品はなかなかお目にかからないから、やはり世間はベトナム・ブームなのだろう。だがその質について、ベトナム屋の物書きである私はなかなか満足できない。わずかに映画では『地雷を踏んだらサヨウナラ』(五十嵐匠監督、浅野忠信主演)、小説では『グッバイ・サイゴン』(ニナ・ヴィーダ著、講談社文庫)という収穫があるくらい。とくに日本人作家の小説は正直、きつい。

 理由のひとつは舞台のベトナムに振り回されて雰囲気を醸し出すのに精一杯になり、小説より安っぽい観光ガイドになってしまうこと。次に舞台はよく理解しているが、ベトナム人が書けておらず、名前も容姿もベトナム人なのに中身は日本人という登場人物だったりする。舞台をベトナムにする必然性がなく、「流行だから借りてきました」というあざとさだけが残る。


 本作品でも主舞台はベトナムである。幹部の女性に手を出し、組織の紛争に巻き込まれた主人公のヤクザ坂口修司が、追っ手から逃れるためにベトナムのホーチミン市に逃亡する。そこでシクロ(ベトナムの人力車)ドライバーの若者たちと出会い、ボートピープルとして彼らと一緒に日本に帰ろうとする。「黄金の島」とは極貧に喘ぐベトナム人たちから見た、日本のことである。

 率直にいって、やはり前半の三分の一くらいはつっかえながら読んでいった。シクロの運転手だけでレックスホテルのティールームでアイスクリームを食べたり(「シクロ乗りだけでホテルに入れるんか?」)、英語が達者な警官がいたり(「そんだけしゃべれたら警官やってへんでぇ」)、シクロの料金が1200ドンだったり(「そんな安くベトナム人でも無理やろ」)。しかもマジェスティック・ホテルの名前について、事実を取り違えている記述もあった。ストーリーと直接関係ないのだが、作者がリアリティのために書き込めば書き込むほど、皮肉なことに私にとってのリアリティが薄まってしまった。


 だが、ストーリーの半分を過ぎて彼らが船に乗り込む展開になって、俄然面白くなる。衝撃的なラストを終えて本を置くときに、私は、この小説はベトナム人の大切な部分を描いていると確信するようになった。

 それはベトナム人の心に潜む闇、「裏切り」だ。外国人相手だけではなく、ベトナム人同士、友人同士、親族の間でも、彼らの「裏切り」話をよく聞く。品性の問題ではなく、中国・フランス・アメリカに支配され、「解放」されたあとも共産主義の厳しい統制で暮らしてきた彼らにとって、ときにはそうやって他人を食べないと生きていけない現実があったのである。

 読者はラストに向けて、雪崩のような裏切りを目の当たりにする。強引と感じるかも知れない。予定調和的だと思うかも知れない。しかしそれこそが、私がベトナムに抱くリアルなのである。一方で坂口を見つめるシクロマンのチャウの純粋な心も、リーダーのカイの一本気な性質も、すべてベトナム人の心が持つ特質だ。彼らの内に秘める「美」も「醜」も見事につかみ取ったという意味で、この小説は他のベトナムものと一線を画す存在になったといえるだろう。
(01年週刊誌の書評欄に発表)

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書評「黄金の島」(真保裕一著・講談社刊)