年に何回か書評の仕事をさせて貰う。これが難しい。

 以前、週刊誌で持ち回りの書評を月イチで連載していた。私以外はプロの書評家さんで、読み比べていてわかったのは、優れた評論はタテ軸とヨコ軸がはっきりしている、ということだ。タテ軸とはその本が取り上げているテーマの歴史(過去にどんな本が書かれていたか)あるいはその作家の作品歴。ヨコ軸とは現在、同様のテーマでどのような本が書かれているのか。

 タテ軸とヨコ軸がはっきりすることで、その本の「いまそこにある価値」が浮かび上がってくる。逆にいえば浮かび上がらない本は書評に値しない。

 一緒に連載していたプロの書評家たちの文章は、このタテ軸とヨコ軸がしっかりしていた。困ったな、と思った。私にはそれだけの芸がない。そりゃライターではない同年配と比較して多少は本を読んでいるかもしれないが、書評家たちと読書の蓄積量がかなり違う。そこで私は「これは本当の書評ではなくて、本をきっかけにしたコラムなのだ」と勝手に頭の中に置き換えて、それぞれの時期にあわせた出来事・事件にひっかけた話を書くようにした。このHPにある「ガリバー旅行記」もそのひとつである。

 いま依頼していただく本は、やはりベトナムものが多い。編集の方も「本の筋を紹介するというより、神田さん個人の体験も交えて紹介してください」と言ってくださるので、気が楽だ。

 やっかいなのは、読んでみて褒めようがないとわかったとき。とある月刊誌から、在日外国人女性の活躍について書かれた本の書評を依頼された。読んで見て、ムカムカするくらいその女性が気に入らない。書いた人の姿勢も大いに疑問があった。さかさにふっても褒めようがないのだ。褒められない本は書評に書けない。みんなに読んで欲しいから取り上げるのだから。編集の方に電話して率直にそう話すと、「仕方ないですね。他の方に依頼します」と冷たく言い放たれた。できあがった別の人の書評を読むとやはり私と同じ感想がつづってあり、「それみたことか」と思ったが。

 それからしばらくして、同じ月刊誌の同じ編集の方から別の本の書評をまた依頼された。ノンフィクション作家の某大家の手による、重厚なテーマの本だった。分厚い。しかも締め切りは一週間ない。「どうして僕みたいなのがこの本の書評するんですか」と正直に尋ねたら、「ぶっちゃけ、急なお願いでできる人が他にいないんですよ」と正直に言われた。

 もちろん断れない。分厚いその本を二回繰り返し読んで、大切と思われる箇所に付箋を貼り、何度も原稿を推敲して渡した。締め切りまで朝昼晩ずっとその本についてかかりっきりだったと思う。ちなみに原稿料は3万円なかった。

 ちなみにこのタテ軸とヨコ軸というのは本だけに限らず、全ての「評」に使える。典型的なのはパソコン誌で、新モデルのパソコン、ソフトについての評でわかりづらいものは、ほとんどがこのタテ軸とヨコ軸を欠いている。逆に「評」すること自体が売り物となっているカメラ誌では、新しく出たカメラのヨコ軸とタテ軸について、かなり詳しく書いている。

 かなり前に某パソコン誌でノンフィクション作家の吉岡忍氏が、新しく出たパソコンの評を書いていた。どうやらご本人が好きで自ら手を挙げたらしい。その内容はやはりヨコ軸とタテ軸がしっかりしていて、さすがだった。

(書き下ろし)

書評を書くということ

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