阪神大震災と私

まえがき

  今回の阪神大震災に際しまして、皆様には、大変なご心配をおかけし、且つ又心暖まるお見舞いとご配慮を頂き、本当に有り難うございました。
  御礼の気持ちと、今ここに生きている喜びをかみしめながら、「阪神大震災と私」として、現場の状況と私の偽らざる心境をまとめさせて頂きました.是非ご一読をお願い申し上げます.
 若干、テンションが高く、興奮した状態での記述になっていると思いますが、私自身、あの1月17日午前5時46分に死んでいてもおかしくない状態でしたので、臨死体験に近い極限状態にあったということで、ご容赦賜れば幸甚に存じます。
 いずれにいたしましても、これからが本当の意味で大変だと思っておりますが、あの瞬間に生まれ変わった生命だと思って、亡くなられた方々の分まで、精一杯明るく、すべてを前向きに、すべてに感謝しながら、仕事も一生懸命やって生き抜いていく決意です.
 皆様には、今後とも何かとお世話になりますが、どうぞ宜しくお願い申し上げます.

平成10年8月15日



阪神大震災と私
--奇蹟の生還--1.17を忘るべからず

 今回、この体験談をまとめるにあたり、まず全国の皆様に御礼を申し上げます.
日頃、何気なく生活し、水も空気も電気もガスも、その存在すら意識しない人生が一変したあの日.
全国の皆様の真心が、どれほど有難かったことか.私たち家族は、一生忘れることはないでしょう.
 その御礼のためにも、私は今回の地震で体験したことを、できるだけ詳しく書き記していきたいと思います

 私の住む神戸市東灘区は6千余命の死者の内1千5百名以上の方が亡くなった最も被害の大きい被災地であり、町は一瞬にして廃墟のごとく、瓦礫の山となりました.
 私も本当なら死んでいたかもしれないところを奇蹟的に生きて還って来ることができました.これも偏に、ご心配してくださった皆様のお陰であります.
私は10年間東京にいて地震の怖さは知っているつもりだったのですが、関西に帰ってきてはや10年、まさかこの神戸に大地震が来るなんて、まったく考えてもいませんでしたし、地震に対する備えも何ひとつありませんでした.
 今回の大地震で、地震がいかに恐ろしいものであるか.そして生まれて初めて死に対する恐怖を知り、今でもあの瞬間のことを思い出すと身体がブルブルと震えてしまう程です.
地震は、何時、何処に、そして誰の上に襲いかかってくるかわかりません.
このたび、お世話になった皆様に、震源地の近くの状態はどうだったのか、またどうすれば生きのびることができるのか、何らかの参考になれば幸いです.

 私は、JR住吉駅近くの5階建てのマンションの3階に住んでおりました.
地震直後の部屋の中の状況は、タンス、本箱をはじめすべての家具が倒れ、本はすべて床に転げ落ちていました.
 リビングにあった29インチのカラーテレビが宙を飛び、3メートル離れたコタツに当たって、コタツの足が砕け飛びました.
もしコタツで寝ていたらと思うとゾッとしました.
食器棚も倒れ、あたりにガラスや食器が散乱し、流し台にのっていた食器洗い機も台所の床に転げ落ちて下りました.まるでマンションが真っ逆さまになって物が落ち、もう一回元にもどったような、ものすごい状況でした.
松下電器の社員の中には、400リットルの冷蔵庫(重さ約100キロ)が地震のショックで天井に突き刺さって落ちてこない家や、33インチのカラーテレビが前で寝ていたお爺ちゃんを飛び越えてマンションの壁を突き破って隣の家に転がっていった家もあり、まさに空前絶後、想像を絶する凄まじい状況でした.

私もあと4分遅くまで寝ていたら、妻と子供もろとも洋服タンスの下敷きになるところだったのですが、奇蹟的に助かりました.
私は普段、目覚し時計を5時50分に合わせて起きるのですが、朝は少し余裕を持つために、その時計だけ7分間進めてあったのです。
ですから、私は実際には5時43分に起きて、運命の5時46分の大地震を玄関のところで受けました。
 朝、起きてすぐにご仏壇にお水をお供えした私は、なぜか健康保険証が気になってしかたがありませんでした.
というのも、前日まで3連休で、40.3度の高熱が 出ていた3歳の娘を、休み明けすぐに病院に連れて行こうと思っていたからです。
起きてすぐ、忘れないうちに取りに行こうと思って玄関を隔てた娘の部屋まで行く途中だったのです.
 もし、あの日娘が熱を出していなければ、私は死んでいたかも知れません.
なぜなら、私は毎日5時45分には、ベランダに出て体操を欠かさずやっていたので、地震の衝撃でベランダから振り落とされて、地面に叩きつけられていたはずだったからです.
あの瞬間、三ノ宮を歩いていた人が3メートルも飛ばされたという話がありますが、まさに九死に一生を得ることができたのです.
 
 震源地近くの直下型地震は想像を絶するもので、とても言葉で言い表せませんが、地面が裂けるような地響きとともに、縦揺れと横揺れがほとんど同時にきて、まるでマンション全体が浮き上がって、回転して叩きつけられる感じで、自分自身がいったいどうなっているのか、まったくわからず、照明は一瞬で消え、私は玄関のドアに激しく叩きつけられました.

 まるでマンションに原爆が落ちたのか!彗星か隕石が落ちたのか、ジェット機が墜落したのか、地震だとはその瞬間わからず、マンションが大轟音をたてて崩れて、身体がブラックホールに吸い込まれて潰れる.
身体中の血液が逆流し、地獄の底に引きずり込まれるような感じで、生まれて初めて、死に対する恐怖を知りました。死ぬということがこれほど迄に恐ろしいことなのか、身体の芯までわかりました。
 揺れが収まるまでの、わずか20秒の間が永遠に続くような気がしました.
気がつくと、私は幅120cm、重さ100kgの下駄箱の下敷きになっていました.
しかし、玄関に置いてあったベビーカーが間に挟まってクッションになり、身体に当たる寸前で、下駄箱は止まっておりました。そのベビーカーは無残にも、グシャグシャに壊れてしまったのですが、そのお陰で私は無傷でした.
 もし、この時保険証を後回しにして、いつもどうり外で、体操をしていたら、今頃、地面に叩きつけられて死んでいたかもしれません.又、もし地震があと2分遅く来たとしても、保険証をとった私はベランダに出て体操をしているはずですので、同じように死んでいたかもしれません.
運命の1995年1月17日午前5時46分を、私は生涯忘れることはないでしょう.
私にこの日の5時46分にとった行動、出来事をうまく説明することは難しいのですが、人智を超えたすごい力が働いたことは事実なのです.



 
 自分の身体の無事を確認した私は、真っ暗な中、無我夢中で妻と2人の子供が寝ている6畳の和室に飛び込みました。すると、わずか3分前まで私と3歳の美優紀が寝ていた場所には、大きな洋服タンスが倒れ、生後9ヶ月の聡一朗の寝ていた場所には、重さ60kgのスチール製の書類ケースが押し入れから落ちて倒れておりました.
 私はその光景に声も出ませんでした。私は無我夢中でその書類ケースを蹴り上げてしまいましたが、びくともしませんでした。
すると、そのケースの向う側に3人の顔が見えました。恐怖に震える2人の子供を両脇に抱えて妻がわずかな隙間から出てきたのです.
 妻が言うには、地震の起きる1時間くらい前に9ヶ月の息子が泣いて、連鎖反応的に3歳の娘も泣いたので、2人を抱いて真中の布団だけで3人が寝ていたというのです.いつも3枚の布団に4人が川の字に寝ているのですが、この時は、両サイドに倒れた洋服タンスと書類ケースがあり、3人はその間のわずかのすきまに寝ていたので、奇蹟的に助かったのです.
私は思わず3人を抱きしめて泣きました.

 後で、写真を見ていただけば、わかるのですが、私のマンションのまわりの木造家屋はほとんど全滅の状態で、すぐ北隣りの7階建ての大きなマンションでさえ、1階部分が押し潰されて、いつ倒れるかわからないほど、傾いてしまいました.
 外に出て、そのあまりにひどい惨状に衝撃を受けた私は、もし、いつもと同じことをしていたら私も、2人の子供も死んでいたかもしれないと思うと、命が震えるような思いでした.
 しかし、事態はこれだけではすみませんでした.





 私は家族の無事を確認すると、妻の実家が心配になりました.
妻の実家は、私のマンションから西の方へ、歩いて5分足らずのところにあるのですが、築25年の木造の2階建てに1家4人が住んでいたからです.
 外が明るくなってから、西の方角を見ると、既に何本か火の手が上がっておりました.
実家が燃えているかもしれない.
私は走って実家に向かいました。途中、道路はいたるところで、陥没し、亀裂が走り、大きな家が何軒も倒れ崩れていました.ガスのにおいが鼻を突きました.
 しかし、不思議なことに、まわりの家がほとんど全壊、半壊の中で、妻の実家の並びの一画だけは、まったく壊れておりませんでした.
そして、火の手はもっと西の方で上がっておりました.

 家の中はもちろん滅茶苦茶で、家具がすべて倒れていたのですが、奇蹟的に義父、義母、義妹2人と4人全員、かすり傷ひとつ負っておりませんでした.
 あとで、中に入ってびっくりしたのですが、義父の寝ていた部屋はタンスがめちゃめちゃに倒れ、足の踏み場もありませんでした.しかし普段7時に起きている義父は間一髪難を逃れました。
たまたま、この日、仕事が早番で、いつもより早く5時半に起きて、地震発生の時は、台所でストーブをつけて、コーヒーを飲んでいたというのです.
義父は地震の瞬間に、何とかストーブだけは消して、台所に倒れこんでしまったというのです.
 もし、この最初の一瞬にストーブを消すことができなければ、この東灘区も辺り一面火の海となり、私の実家が火元となってもっと大勢の方が亡くなっていたかもしれません.
そして、私たちは、一生火事の火元として、皆から恨まれつづけることになるところだったのです.
 義母もタンスの下敷き、妹2人も部屋中のタンスの下敷きになったのですが、不思議なことに、テーブルとかチェストとかが、ギリギリのところで支えになって、まったく怪我をしなかったというのです.

 その後、私たちは、住吉浜のLPガスの爆発の危険が迫り、山の手の住吉中学校まで、ベビーカーに貴重品と毛布だけを積んで、逃げ回ることになりました.

3日間避難所にいて、90CCのバイクに親子4人が乗って、茨木の私の実家まで、避難してきました.
マンションの修繕に1年かかるため、三田市の仮設住宅にも行きましたし、アパートに仮住まいも経験しました.

 ここで、お世話になった皆様にどうしても、一人の人間の心からの叫びとして、お伝えしなければならないことがあります.

 それは、あの死を覚悟したあの瞬間に感じた、なんとも言えないくやしい思い、これまでの自分の人生で、
誰も幸せにできずに死んでいく、くやしい思いについてです.
私の人生はあの1995年1月17日5時46分に終わっていてもおかしくなかった.でも何かの使命があって生き存えることができた.この事実について、今お伝えしなければ、今度、死に直面したときに、同じ後悔はできないと思うからです.
 地震の怖さを一人でも多くの方に語って行くこと、これが私に課せられた使命なのです.



 今回の地震をきっかけに北海道から関東、長野、九州、和歌山まで地震が起こっています.
特に西日本は地震の活動期に入ったと言われ、大阪も活断層だらけで、いつどこで同じような地震が起こるか誰にもわかりません.
 週刊誌その他で、「私はこうして助かったとか、こうすれば助かる」とか書かれていますが、実際に震度7を震源地近くで受ければ、もう人間の力ではどうすることもできないのです.
わずか1、2秒の間にできることは「あっ!」と声を出すことくらいしかできないのです.
机の下に身を隠すとか、そんな余裕はないのです.

 またいつ、大地震がくるか誰にもわかりません.

もう3年半の年月が経とうとしているのに、私の身体の中には、まだあの1月17日の5時46分で止まっている部分があって、こう目を閉じると「悪い夢を見ているだけなんだ.だから早く覚めてくれ.」という思いがあるのですが、現実を直視すれば6千名以上もの尊い命が亡くなったことも事実ですし、また、いつ、どこで、誰の上に降りかかってくるかわかりません.

 まだ、地震後、神戸に行かれてない方は、是非、現地に行って見て下さい。路地を一本はいれば、更地は広がり、地震直後のままの崩れたマンションがまだ残っています.
仮設住宅も1万戸以上残っているのです。
テレビを通してでは、決してわからない現場の悲惨さがきっとわかると思います.
皆様には、それを次への教訓に絶対にして頂きたいのです。
心からのお願いです.

 神戸の人たちは、今回の地震が東京とか大阪でなくてまだよかったと言っているのです.
いきなり東京とか大阪に大地震がくれば、もっともっと大きな被害が出るでしょう.
私たちも、奥尻や東北の地震のときに、地震を人ごとと思わずもっと警戒しなければならなかったのです.

 皆さまのお知り合いの方の中にも、今回の地震でお亡くなりになられた方もおられるかと思います.
私のマンションのすぐ近くに住んでいた美容師の先輩も、文化住宅の下敷きになって、尊い命を落とされました.
私が急を聞いて駆けつけた17日の7時には、2階建ての文化の1階が押し潰されて、もうどうすることもできませんでした.名前を大声で呼んでも、何回叫んでも、何の返事もありませんでした.
 翌日、自衛隊がやっと来てくれましたが、地震の衝撃で、部屋の位置が一部屋分横にずれていて、
先輩はうつぶせに寝たままの姿で一瞬のうちに亡くなっておられました.
 もし、先輩が2階に住んでいたら助かったのにと思うと無念でなりません.

私も、ダブルのローンを抱え、これからが本当の意味で大変だと思います。
夜も2時間くらいしか眠れない日もあります.子供たちも地震のことを思い出すと夜中に泣いています.
しかし、生き残った以上亡くなられた方々の分まで、この世で生き抜いていかねばなりません.
 私も、本当ならマンションから落ちて死んでいた命です.
生まれ変わった命だと思って、先輩の分まで精一杯明るく、前向きに生き抜いて行きます.



1998年8月15日


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