第1部

第2章


スイートルームで朝食を終えたポール・ブーハーは、朝刊全部を注意深く読み通した。各紙ともイスラエルとアラブ各州との間に会議を制定するという外務大臣の発議をこぞって称賛していた。フリートストリート紙にはピーター・スティーブンソンの政治同盟が最高であるとあり、中東問題の難関突破と解決が可能だという無謀な予想が書かれていた。それと敵対する者はそれほど熱はこもってなかったが、それでもいやいやながらピーターの成功を認めざるを得なかった。
ブーハーはほくそえんだ。こんな称賛が世評で悩む男の手助けをする。この男は信用を得るのが望ましい。スティーブンソンは馬鹿だ。そんな馬鹿が権力の地位にいるのがブーハーにとっては好都合なのだった。
ブーハーは腕時計をチェックし、テレビのスイッチを入れ、朝のニュース番組にあわせた。外務省をバックに会議の発表を待つインタビュアーが溢れていた。

「中東は1948年のイスラエル建国以来混乱しています。しかし、以前はけしてこんな永久的な危機的状態ではありませんでした。テルアビブとエルサレム爆撃記念日は過去2年間、中東と実に世界を揺さ振り続け、カタストロフに陥れています。」

ブーハーはあくびを一つして、スティーブンソンがアナウンスするまでまた新聞に見入っていた。外務大臣のスティーブンソンが、TVカメラに向かって微笑んだ。彼はハイストーリィ党員で、漫画家が描く似顔絵のように骨張ったローマ貴族の顔をし、声帯模写の者達が真似るようにRの発音ができなかった。
ブーハーは、この男が何かシナリオなしには出てこないと知っていたので、注意深く聞き入った。スティーブンソンは「1988年の攻撃以来、対話を持つのが難しかったが、ついに人々をテーブルの周りに集めることに成功した。みなが建設的な気持ちでランカスターハウスに来ることを望む」と述べた。ブーハーはあくびをした。
「続けろ」ブーハーはつぶやいた。「話せ。おまえは話して死ぬんだ」
ブーハーだけがこの会議の制定の意義を知っていた。そう、知っているのはブーハー、スティーブンソンと参加者、一握りの者、それと月2回この外務大臣にサービスするベルギー人の売春婦だけだった。

スティーブンソンは、「この会議に奇跡を予想しない者は信用しない」とだけ語ったが、その間参加者はお互いの指が引き金にかかっていると知っていた。スティーブンソンは作り笑いをし、カメラに「おはよう」とうなずいた。

「感心な野郎だな」ブーハーがテレビを消すと、インターカム鳴り響いた。
「大使がお見えになりました」
ブーハーはぶっきらぼうに返事をしてドアの方を向くと、英国宮廷へのアメリカ大使であるフィリップ・ブレナンが入ってきた。彼は40代前半で背が高く色黒、エレガントでちょっとひねくれた少年のようなその笑顔は男女を問わず魅了しそれが外向的手腕として大変役立っていた。

2人は握手をし、ブーハーがコーヒーを差し出すと、ブレナンは喜んでそれを飲んだ。そしてその若者はテレビの方を見てうなずいた。
「スティーブンソンを見ました?彼はなんか面白いことを言ってましたか?」
「なに、いつもと同じたいくつな古い決まり文句さ」
ブーハーは答えた。
「へえ、それは問題ですね。中東も一つの決まり文句だし」
「何をもくろんでるんだ?」
ブーハーがブレナンを横目で見ながらたずねた。ブレナンは肩をすくめた。
「また秘密がわかると思いましてね。ゴーレムをウェスト銀行、シナイを東エルサレムと置き換えたんです。『我々の勇気は空中にあり続け・・・』」
「『汝の内臓は地上にある』・・・か」
2人はお互いにニヤニヤと笑い、20分の間政治について話した。ブレナンは腕時計をちらっと見て、「もう行かなくては」と言った。ドア際で2人は再び握手をした。

「こちらには長くおられるんですか?」
「いや、ちょっとここのスタッフをチェックしにきただけだ。金曜には帰る」
「では、コーヒーごちそうさまでした・・・」
「フィリップ」ブーハーはブレナンの手を握ったまま言った。
「君は上院に立候補するそうだね」
ブレナンは微笑した。
「誰も知らないと思ってたのに・・・」
「いいか、私は不必要なお世辞はいわん。少なくとも単にバカを喜ばすためにはな。だが君に対して大出世を予言する者に私は同意するね」
ブレナンは喜んで賛辞を受けながらうなずいた。
「君ならホワイトハウスまで行けるだろうさ」
ブレナンは再びうなずき、その可能性を否定しなかった。
「今私が言えることは、どんなキャンペーンにも資金が必要だという事だ」
ブーハーは間を置いて言った。
「そして、ソーン社ならその資金に不足はない」
「いいことを知りましたよ。でも矛盾してないですか。僕は民主党員ですよ。あなたが支持している大統領は共和党じゃないですか」
「奴はバカだよ」ブーハーは言った。「政権を握るほどに成長して欲しいと願ってはいるがね」
「僕の質問に答えていませんね」
ブーハーはほくそえんだ。
「そんなこと、質問だと思わなかったよ」
ブレナンはドアを開け部屋を出た。
「本当にコーヒーごちそうさまでした。またお会いしましょう」
ブーハーはブレナンが出て行くのを見てドアを閉めた。奇妙な男だ。敵のない外交官。狂気の先に誠実がついている男。彼は問題かも知れない。用心していないと・・・。
そう考えて、ブーハーの頭からブレナンのことは消えた。


1台のリムジンが西のオックスフォードロードに向かって夕方のラッシュアワーの中ゆっくり走っていた。ブーハーはバックシートに身体を伸ばしていた。だるさに負けてそれがまぶたに現れていた。夜の眠りでは疲れが取れなかったのだ。いつもなら、たとえどんなにプレッシャーがあっても、3・4時間で充電することが出来た。しかし最近は疲れやすかった。もしこれが続けば医者に診せただろう。そうこうするうちに彼ははだるさと闘うのをやめた。そして居眠りをしながら誕生日のことを考えた。誕生日に人々は過去の人生と未来の抱負を得るのだ。ブーハーはいつもきちんとした男だった。10年ごとの6月にアイディアを出すのが好きだった。彼の父親がそう計画するように提案したのだった。
ブーハーは自分の父の説教を思い出した。
「おまえは1950年の20歳の誕生日に有名になり始め、1970年の6月には、多大な名声を得るだろう」
そして、実際に彼はそうなった。彼がソーン株式会社の社長に出世したのは劇的だった。ビル・アソートンのようにコツコツ勉強した者は、伸びすぎて、つまり太陽に近づきすぎて我が身を焦がすと思われていたが、彼は他の者達を尻目に生き残ってきたのだった。

全ては計画通りに進んでいた。あの恐ろしい日までは・・・。そう、ダミアン・ソーン=ソーン家の最後の長=がだまされて殺されたあの日までは・・・。18年たった今でもまだ怒りで心の中がうずく。
ブーハーはブツブツと独り言をいい目を開けた。ドライバーがバックミラー越しにブーハーを物珍しそうに見ていた。ブーハーはポケットからビタミン剤の瓶を取り出し一掴みを口に入れた。彼の胃は再びあの少年を見るという緊張でかき乱されていた。あの子も今や18歳。思春期は成人へ向かって成熟のしるしが現れる頃だ。あの少年にはどんなしるしが現れるのだろうか。しもべたちによれば背が2インチ伸び体重も増えたという。 ブーハーはゲップをした。自分の胃に殺されそうだった。彼は主治医の言葉を思い出した。
「何かのストレスだね。こういう人は皆弱点の器官がある。ある者は頭痛、またある者は過労で心臓に負担がかかり血液が凝結したりする」
ブーハーの場合はそれが胃だった。しかし、あの少年だけがこんな緊張を引き起こす力があったのだ。政治家でもライバルの実業家でもアメリカ大統領でも彼にこんな影響を与えはしない・・・ただ一人あの少年だけが・・・。

高速道路をおりて細い田舎道に入ったのでブーハーは窓越しにチラッと見た。運転手は速度を落とし急なカーブと高い生け垣が片側にある道に沿って走った。ウサギがその生け垣に突進しフロントガラスは向こう見ずな虫たちでむちゃくちゃだった。
「着きました」
インターカムを通して運転手の声がして車が門の外に止まった。ダミアンの死以来、防犯装置がとり付けられ巨大な練鉄の門の側に電気制御を作動する小屋があった。運転手がダッシュボードのスイッチを押すと門が開いた。半マイルもいくと大邸宅の西側が見えた。そこには上等のブランデーがあり丸太が客間で燃えているだろう。もうすぐリラックスできる。

リムジンが砂利の上をジャリジャリと音をさせて止まった。執事のジョージが出入口に立っていた。彼はブーハーに中を案内し、少年の様子を見に行き、会っても大丈夫だとゼイゼイしながら言った。ブーハーは直接客間に行き自分でブランデーをついで部屋の中を見まわした。この家は控えめに言っても贅沢で傑作だった。ブーハーは樫の羽目板に指をすべらせ、重いベルベットのドレープをなでてからポートレートを見た。弟のロバート・ソーン、その息子のリチャード、そしてダミアン。彼は震えて暖炉の方へ向かった。真夏だったが丸太の火が激しく燃えていた。ブーハーは背を向けて立ち、手を温めて待っていた。執事が覗き込んだ。
「夕食は20分以内にご用意いたします」
ブーハーはうなずいた。
「あの子はどうしている?」
「お元気でございます」
「会えるか?」
「はい、見つけることが出来れば・・・」
ブーハーはうなずき飲み物を持ったまま部屋を出た。彼は玄関を横切りカーブした階段を上って2階の踊り場へ出て回廊に沿ってうす暗い廊下をすすみ屋敷の西側へ向かった。
少年のベッドルームにつくとブーハーは自分の心臓が高鳴り胃がかき乱されるのを感じた。ブーハーはやさしくドアを叩いて様子をうかがった。何も聞えない。彼は再びノックしてからドアを押し開けて中に入った。

幅の狭いベッドを除いては何もなかった。壁と天井は栗色に塗られていた。ブーハーはまばたきして明かりのスイッチに手を伸ばしてつけた。何もつかない。この部屋には電球がなかった。ブーハーはベッドへ行き2枚の額に入った大きな写真とその側にある新聞の写真の切り抜きを見つめた。大きな写真の右のほうはダミアン・ソーンの上半身の写真だった。もう一方は墓石である。ブーハーは雑草で不明瞭なみかげ石に刻まれた文字をじっと見つめた。

キャサリン・レイノルズ
最愛の娘
1949−1982

ブーハーは鼻であしらい、ベッドにひざまづき、新聞の切り抜きをまじまじと見た。ワルシャワのユダヤ人がユダヤ街から銃を突きつけられ強制的にアウシュビッツに向かうトラックに乗せられている写真だった。他はたくさんの墓の写真。ヒトラーとアジ・アミン、ムッソリーニの気取った顎、スターリンの流し目・・・。ハリー・トルーマンは広島の惨状の上のきのこ雲を通して微笑んでいた。チャーチルがたばこの煙をプッと吐いてドレスデンと言っているのが描かれた道標。ヘンリー・キッシンジャーがノーベル平和賞を受賞して笑っている一方でポルポトが彼の手近にたくさんの頭蓋骨とねじれた骨の墓にまたがって立っていた。切り抜きをかき分けると、赤インクで子供が書いたらしい文字があった。


 リハーサル 

ブーハーは、自分の肺から不快な空気が出たのでブランデーをぐっと飲み、喜んで部屋を出た。彼は西の奥へ歩いて行った。2階の廊下に沿って行くと見るより早く犬の臭いがした。彼がゆっくりと近づくと廊下の奥から黄色い目が彼を見つめ返していた。犬はどっしりとした黒い頭を持ち上げ、ゆっくり立ち上がってトボトボと歩いて近寄ってきた。頑丈な顎をした巨大な動物で、力が首と肩に集中しており、その息は臭かった。その犬が立ち止まってブーハーを見た。頭が彼の胃くらいの高さだ。人間と犬はしばらく見つめ合い、犬が頭を上下に動かしクンクンかいで、廊下の片側へ少しずつ寄った。
ブーハーはその廊下の突き当たりの黒い扉まで忍び足で歩き、ノックしようとして手を上げ、それを考え直してやめ、扉を押し開けた。

その部屋は円形で黒く塗られ、屋根が6本の柱で支えられていた。窓はなく台石のうえに立っているたった1本のろうそくで照らされていた。
瞬く灯りが木でできた等身大のキリスト像を照らし出していた。キリストは十字架に釘付けされていて、胸は垂直な梁に押し付けられ、両足を絡ませ釘が爪先を刺し貫いており、両腕は横梁にそって伸ばされ、手の甲を刺し貫いて釘付けされていた。キリストは裸のままの姿にされ、束まで打ち込まれた短剣が背骨からはみ出していたが、その短剣には十字架上のキリストの姿が彫られていた。十字架から6フィートの所に立っているのは防腐保存した人の死体だった。それも裸にされ、支えなしに立っているかのようだった。両手は伸ばされ、両手の平を身体に向けていた。ろうそくの火がその目の中で瞬き生きているように見えた。口は皮肉な笑いで歪み、まるでこの死体はキリスト像の苦悶する顔を直視しているかのようだった。
少年は黒い法衣を着てその死体の前にひざまずき、両手をあげて死体の手をつかんでしっかり握っており、そのために彼の指の関節が白くなっていた。ブーハーは緊張しながらも彼の低い単調な声を聞くことが出来た。

父よ我に力を与えたまえ。そして汝の魂を我の中で育てさせたまえ。我に力を与えたまえ・・・・

その嘆願は間を置かず繰り返された。抑揚のないつぶやきだった。少年はほとんど息つぎをしていないようだった。ブーハーは彼を見つめ、それからダミアン・ソーンの死顔を見上げた。ゆっくりと本能的に十字の逆サインをつくり、部屋に背をむけて、外に出て静かに扉を閉めた。犬はブーハーを見つめ、彼の足音が消え去るまで聞き耳をたて、それからもう一度ガードの体勢で寝そべった。耳を後ろに向け、ボソボソいう少年の声を拾いながら・・・。

ブーハーはダイニングルームで、少年を待った。ブランデーをすすり、ぼんやりと何も見ずにテレビを見つめていた。そして彼が見上げるとあの少年がシャツとジーンズに着替えて戸口のところに立っていた。しもべたちが言っていたとおり彼は成長していた。今や父親とほとんど同じ背丈で、まるで生き写しだった。
疲れてるみたいだね
少年は言った。ブーハーは、彼の声が太くなったのに気がついた。
「なんでもないさ」ブーハーは言った。「単に年をとったんだ」
じゃ、セックスは諦めなきゃ
ブーハーは微笑した。
「老年期のセックスは刺激になるんだ。今は単に眠くなっただけさ」
ジョージがディナーの手押し車を押して入ってきたので少年は席についた。
僕へのレポートがある?
少年は執事を無視して尋ねた。ブーハーはうなずき、ポケットに手を入れて、一枚のメモを取り、爪ではじいた。少年は瞬きもせずにそのメモを通読してから、鋭い目で見上げた。
リビア人達はとんずらしないだろうな?
ブーハーは首を振った。
「すぐしっぽを掴むさ。やつらが行ける所はどこにもない」
少年はうなずき、メモを折りたたんでブーハーに返した。
よし、それならすべて進行中か・・・
ブーハーは眉をひそめた。妙なフレーズだ。
・・・すべて順調なんだな?
笑顔で自分をたしなめて少年は言った。
「イギリスはエルサレムにダビデ陣営を組織しようとしてるみたいだけどうまくいかないさ」
よし」そう言って少年はナプキンをシャツに差し込んだ。彼は振り向き執事に礼を言って食べ始めた。
食事中は世間話は何もなかった。少年はガツガツ食べ、ワインをがぶ飲みし、口をいっぱいにしながらブーハーに質問した。
サイモンがケネセットで困ってるって聞いたけど・・・
どうやってブレッドレイがホワイトハウスでうまくやってる?
ジンバブエのクーデターが起こるのはいつだろう?
ブーハーは辛抱強く答えた。彼はいかにこの少年が利口かを忘れていた。彼の心はなんてすばやくことの詳細を理解し、貯えてるんだ。彼は父のダミアン・ソーンにとてもよく似ていたが、ただ魔力だけが欠けていた。しかし、それも間もなく生じるだろう。

2人がコーヒーをすすっていると、執事がメモを持って現れ、ブーハーに手渡してから少年の方を向いた。
「どうやらまたあの女らしいのです」
ブーハーがメモを見ている間、少年はあくびをした。
「おまえの助産婦だったと言ってるぞ」
とブーハーは言った。ジョージは肩をすくめた。
「1週間以上あの小屋にやってきているのでございます。少々やっかいで・・・」
ブーハーはメモをまるめてボウルに入れ火へ弾き飛ばした。
「連れてこい」彼は言った。
「だが、ほんとうにこれを書いた者かどうかよく確かめろ」
「かしこまりました」
執事は出て行った。少年はブーハーを見返した。
ブレイドレイについては確かめたの?
ブーハーはため息をついた。少年はとりつかれたようにしつこい。彼の心にはビジネス以外何もないようだ。外のことに興味はなく、他の若者たちに心を悩ませることもなかった。とはいえ、彼は普通の若者とは違うが・・・。

再びドアが開き、2人が振り返るとしわが寄った老婦人の顔が見えた。彼女は車椅子に背を弓なりに曲げて座り、足に毛布を掛け、肩にショールをかけていた。彼女の両手はねじれており、指は外見上みなくっついていた。毛布とショールは重かったが、彼女のか弱さは隠せなかった。体重は80ポンドもないなとブーハーは思った。彼女が椅子の上のボタンにふれると椅子が2人の方へ動いた。モーターがシュッシュッと音をたて、ゴムタイヤがきしんだ。彼女はテーブルで止まり、彼女の目が少年を凝視し、椅子に固定された2本の松葉杖に手を伸ばして取り、ゆっくりと身体を起こした。ブーハーが手助けしようと立ち上がったが彼女は首を振った。
「自分でします」
タイヤのようにきしんだ声で彼女は言った。彼女が動くと骨がきしんだ。完全に垂直に立つと彼女の顔は少年の顔と同じくらいの高さだった。
「私はマリー・レイモンドです」
彼女は言った。
「看護婦として、お坊ちゃまの誕生に居合わせました」
少年は無言だった。
「お坊ちゃまがお生まれになったその夕暮れに私の手に関節炎がおこりました。それ以来ずっと痛み続け、薬を飲んでも悪化するばかりです。私、夢を見たんです。それで神が私を罰しているのだと知りました」
そうか・・・
少年は言った。
「私はこれ以上痛みに耐えられません。だからもうすぐ死ぬつもりです。だけど死ぬ前にお坊ちゃまにお会いしたかった。私が手伝ったことが世界に何をもたらすものを見たかったのです。」
少年は両手を広くひろげ、横顔を差し出した。
喜こぶがいい
老女が肩をすくめ、骨がきしんだ。
「お坊ちゃまのお恵みをいただけますの?」
少年はうなずいて立ち上がり、目の前のやつれた人物を見下ろした。少年が手を彼女の額に置くと老女は目を閉じて身震いして少年を見上げた。
「私はいつもご奉仕しようと努めて来ました。お坊ちゃまの誕生を手伝いお父上のために赤ん坊を殺しました」
少年の手が彼女の頭をしかっりとおさえたまま表情がこわばり、しかめっ面になった。
「お父上が神の子が復活する日に生まれた子供を殺すように命じた時私もそこにいたのです。私は義務を果たしました。そしていつも願って参りましたのは・・・」
願ってきたのは?」少年はハッキリした声を挟み老女をジロリと睨んだ。
「キリストの子を抹殺した者が私でありますようにと−−−」
なら、おまえの願いとやらはおまえとともに消え失せる!
少年は怒鳴って老女に背を向けて歩き、手をシャツで拭いた。まるで手が汚されたかのように。
おまえは失敗した。てんでだめだ!神の子はまだ生きている!毎日奴の慈愛が成果を台無しにしようとしているのが分かるんだ。奴は刻々と大きくなって、いたるところで僕を待っている!
少年はそう言って老婦人の顔につばを吹きかけた。
おまえは父の役にも立たず、僕の役にも立たなかった!!
老女は静かにすすり泣き、涙が顔の深いしわにポタポタ滴れ、口の両端に流れた。しかし、少年が前に歩み出てにらみつけたので彼女はねじれた片手を上げて涙を拭い去った。
おまえはその痛みが神の仕業だと思っているのか」少年はそういって首を振った。
違う。奴は自分が罪だとみなしたものに対して博愛で報いる。父もけして罰っしはしない、失敗に対して以外はな。父は失敗を許さない!!
老女は嘆願するように少年を見た。
「でも私は言われたことは全ていたしました。。もう何もできません。他になにが・・・」
少年はそっぽを向いた。
おまえの骨を僕の目に触れないようにしろ!!
老女は後ろに下がり車椅子に体を沈めた。涙がとめどなく流れていた。
「お許しくださいまし」
彼女はそっと言った。
お前は役立たずだ!
少年は老女に背を向けた。
おまえの魂なんか信心ぶった死の海に永遠に沈めばいい!!
すすり泣きが老女から漏れた。ブーハーが椅子に近寄った。
ほっとけ!!」少年は言った。「行かせろ!!
ブーハーは立ち止まった。老女を慰めたかったが、少年の力には逆らうことは出来なかった。老女はゆっくりと車椅子を回転させ部屋の外へ出た。しばらくの間ブーハーの耳にタイヤがタイルの上をきしむ音とリズミカルなすすり泣きが聞えた。それから彼女の後ろでドアが閉められた。静かになった。ブーハーは少年の方を向いた。
「そんなこと思ってないんだろ?」
しかし、少年はブーハーを無視して彼を押しのけものすごい怒りとともに部屋を出たのだった。


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