第1部

第4章

ローマのホテル、秘書からのコールでフィリップ・ブレナンは目を覚ました。彼は妻をやさしく押しのけて受話器をとり、おはようと挨拶をしてあくびをした。
「昨晩中に何か会議の日程の変更は?・・・そうか、それじゃコーヒーといっしょにその速達を運んできてくれ。30分くらいで下に行く」
ブレナンは受話器を置きベッドから滑り出た。妻のマーガレットは動かなかった。昨夜はクタクタだった。最近セックスが獣じみてきた。妻はそれを喜んできていて、それが彼を興奮させていた。が、時々もう少しやさしく情愛深い方がいいとも思った。シャワーをあびると、水しぶきが背中の新しい爪痕に当たり痛い。身体を石鹸で洗っていると肉付きのよい胸の所に歯形があるのに気がついた。ローマはロマンチックな街なんだろうが、今までしてきた事すべてがマーガレットをこんなに強欲にしたんだろうな・・・とブレナンは思った。
ブレナンが服を着た時にはすでに速達の小包が待っていた。彼はコーヒーをすすり、テル・アビブからの最新情報のレポートをチェックした。昨晩中のゴーラン・ハイツでの軍隊移動を述べた電報のコピーに対するものだ。それは子供のとき聞いた事のあるニュース速報を全部繰り返したような内容だった。同じ名前の場所が爆撃されたとか爆撃したと書かれていた。ただ、最近はその激しさが変わっただけだった。最初の爆撃から50年、さらに緊張が大きくなり、リビア人が爆弾を保有してからさらに不安が広がっていた。
しかし、このローマ旅行は観光に近いのでうれしかった。2日間、見て、聞いて、会見した。新聞は彼の訪問を取り上げ、大使よりもっと大物になること示唆した。将来についての質問は報道担当官によって巧みにかわされる一方、推論には正直に「ノーコメント」だった。彼はそれがなんだか知らないが自分のためになにか計画があるのは知っていた。コーヒーを飲み終えると彼は妻にキスして部屋を出た。今日は気持ちよく新しい一日を迎えられそうだ。


その午後遅く、主要な党派が含まれていた討論会が催された。建設的な雰囲気で実りの多い話し合いと公には流出する事になっていたが、慣れたコメンテーターが2ページの声明文をニュアンスを探りながら読み通し、なんの成果もなかったという共通の結論が出た。昔の封鎖状態はまだしかれており、敵対している党派がテーブル越しに顔を突き合わせようという気配もなかった。PLOの若者たちはシリアとレバノンでの運動のベテランで、彼らにとって「妥協」という言葉は卑劣であったし、一方ケネセットは爆撃以来外部からの圧力や忠告にいっそう従わなくなっていた。
いつもの事だが新鮮味に欠けていた。ブレナンは討論室でスピーチを聞き、委員室で話しながら、自分がアメリカ国務大臣の地位で十分かどうか考え始めていた。それぞれの解決への道筋が行き詰まっている。誰が提案を持って現れても、たとえそれが討論の段階になっても必ず阻止する人間がいるにちがいない。

会議が終わり、ブレナンは考えにふけっていて休憩室を通り過ぎてしまった。最初彼は自分の名を呼ぶ声が聞こえなかった。誰かが自分の袖をグイッと引っ張ったのではっとして振りむいた。小さいがたくましい男が彼を見あげた。その男はベルベットの皮の小袋を持っていた。
「ブレナン様、私はファチェッティと申しまして、ホテルのガードマンです」
ブレナンは挨拶にうなずいた。
「おじゃまをして申し訳ございませんが、事務室にあなたにお会いしたいという男がおりまして・・・」
「私の知り合いかどうかの照会は・・・」
「修道士と申しております」とファチェッティは言い、
「しかし、彼は世界的な修道士でして・・・」
と、ブレナンに小袋を手渡した。
「これを運んできたのです」
ブレナンはそれを受け取り中から1本の短剣を引き出した。それを見た瞬間彼は息を呑んだ。それは邪悪な武器で三角の刃で束のまわりにに十字架にはりつけにされたキリストの姿が細工されていた。
「その修道士がホテル警備のフロントデスクに頼んだのです」
とファチェッティが言った。
「我々の中の一人がその修道士を見るとあなたに会いたいと言い、それからこの短剣を手渡したんです。彼は言いました。もし自分がアポを要求しこの短剣が見つかったら大変な事になるだろうからと・・・」
「それはそうだろう」
とブレナンは言って叫び声を上げた。刃にふれて指が裂け血が流れ出たからだ。
「彼はその短剣について言いたい事があるそうです。普通我々はあなた様にうるさく言ったりしません。・・・しかし・・・」
ブレナンは短剣を持ち上げ苦悶するキリストの顔を見つめ、そのねじれた身体に触れた。よりよい判断をしたというより、単に興味をそそられた彼は
「その人を連れてきてくれないか?」と言った。
「手身近に会おう。だがこのナイフはおまえが持っていろ。いいな?」
ブレナンは短剣をフェチェッティに手渡しエレベーターに乗った。スウィートルームへ上っていきながら彼は両手をこすり合わせた。両手はじっとりとしていた。彼はわずかに震えた。子供の頃からナイフを恐れていた。膚を突き抜ける金属が肉をスライスするのを想像しただけで気分が悪くなった。その痛みは想像を絶するに違いない。はりつけになったら・・・彼は再び震えた。こう思うのはこれが初めてじゃなかった。こ の種の宗教は、その指導者と霊感の力をどうしてこんなひどい苦悶で永遠に描写しているのかと不思議に思っていた。だからキリストの信者で変なのがいても不思議じゃなかった。ブレナンにとって宗教は週に一度の礼拝という一つの習慣だけだった。彼はけしてそれを深く考えず、西暦2000年になるのにそんなことをするのは少し見当違いなんじゃないかと思っていた。

ディナーまでには戻るという伝言を残してマーガレットはいなくなっていた。机の上にはテレックスのメッセージがいくらかあった。それらを読んでいるとドアがノックされた。ドアを開けると、ファチェッティといっしょに茶色の法衣を着てサンダルを履いた若い男が立っていた。その顔は少年のようで美形だったが表情は緊張し心配そうで、疲労と絶望でふけて見え、それが不釣り合いに思われた。
ブレナンは彼が入れるように後ろに下がり、それから心配そうに肩をすくめて、その引き下がる者を守るのが仕事のファチェッティに手を貸して
「大丈夫」
と言ってファチェッティにうなずいた。
その修道士は笑顔を作り
「私はブラザー・フランシスです」
ときれいなイギリス英語で言った。
「ザビアコから来ました。会って下さってありがとうございます」
「あまり時間がないんだ」
とブレナンは言い、椅子を勧めた。
「私が今から言わなくてはならない事は、あなたにはとても信じ難い事だと思いますが・・・」
と修道士は言った。
「ほんとうに、あなたは私の言葉を受け入れてくれないと思うのですが・・・」
彼は間を置いた。
「・・・ブレナンさん、あなたはどのくらいローマにおられますか?」
「明日発つ」
修道士はため息をついた。
「出発を数時間のばして私といっしょに来ていただきたいのです。私はデ・カルロという神父に遣わされた者です。彼の事をお聞きになった事ありませんか?」
最後の一文は嘆願だった。
「だめだよ、私は・・・」
「デ・カルロ神父は旅行できません。もう年老いていて体が弱っているのです。『人類の未来がかかっているので彼を助けなくてはならないのです』と言ったらあなたは私をどう思うでしょう。それは・・・」
「大袈裟?」
「そのとおりです。そしてもし、私がその理由を話せば、その時あなたは私を狂人だと思うでしょう。私がお願いする事はただ、この手紙を読んでいただくことだけです。あなたはきっとこれを狂った女の戯言と思うでしょう。しかし、違うのです」
ブレナンは再びよりよい判断をするかわりに彼に感銘を受けた。彼自身ときにこうして非難を和らげてきたのだ。
「ブレナンさん、あなたは信心深い方でしょう?」
「日曜日だけだよ。申し訳ないね・・・」
と、ブレナンは答え、なぜ自分が謝るのだと思った。
「あなたはプロテスタントですよね?」
「ああ」
「では、ある引用をさせて下さい。」修道士はまるで祈るように両手を持ち上げた。
「“エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たならば、そのときはその滅亡が近づいたと悟るように・・・それは聖書に記された全ての事が実現する刑罰の日であるからだ ” ルカ伝からの引用です」
ブレナンは再び時計を見た。
「わかった。じゃ、すまないが・・・」
もう十分聞いた。『エホバの証人』が来たときみたいだと思った。最初は礼儀正しいが、彼らのしつこさがしまいには人をぞんざいにさせるのだ。
修道士は彼といっしょに立ち上がりドアの方へ行った。
「話を聞いて下さい。キチガイじみていると思うでしょうがデ・カルロ神父は18年前イギリスに行かれました。彼はキリストの再来を目撃し、サタンの息子の身体は滅ぼしました」
ブレナンはうんざりしながらも微笑し若者の腕をつかみドアに導いた。
「ブレナンさん!でも、アンチ・キリストの魂は生き続けているんです!この短剣だけがそれを滅ぼす事ができるんです!!」
ブレナンはドアを開けた。
「お願いですからこの手紙を読んで下さい!!どうか無神論はやめて下さい!!明日お電話しますから」
「ファチェッティ!!」
ブレナンはドアを押し開けながら怒鳴った。小男が飛んできてその修道士の頭巾をグイっとつかんで部屋の外に引きずりだした。
「さようなら、ブラザー・フランシスさん」
ブレナンは言った。
の子はまだ生きています。ブレナンさん、滅ぼさなくてはならないのです!!
ブレナンはにやりと笑ってドアを閉めた。そして鍵をカチリと掛けた。修道士の声がおぼろげに遠くに聞えた。
「神の名において、不信心はやめてください・・・」

1時間後何本かの電話をかけた後、ブレナンは椅子にどっかと座りあの修道士の封筒をつまみ上げた。あくびしながら親指で封を開け、6枚のコピーを引き出し、コピー液のプンとくる臭いで鼻にしわを寄せた。この臭いはいつも彼に防腐保存した死体を想像させた。手紙といっしょにメッセージがあった。
「この女性の言っていることは本当です。神が私たちを助けて下さいます。どうかこちらにいらして下さい」
『ザビアコ、デ・カルロ神父』とサインがしてあった。ブレナンはその手紙を広げて薄ら笑いをした。以前にもこんな手紙に出くわしたことがあった。『ダブル フィステッド スタイル』。彼が考えてそう呼んでいたものの一つなのだが、それはUFO目撃者の書式とテロリストの陰謀の書式であり、彼がまだ大使館員のひよっこのとき送られたものだった。しかし、今はそんな手紙は彼のスタッフによって遮られていた。
様お許し下さい。私は罪深こうございました・・・
彼は最初のページを読んで首を振りスコッチのボトルに手を伸ばした。
「ジーザス・クライストは全能なり」
そう言ってブレナンは笑い出した。


その夜、ブレナンはイギリス人ジャーナリストからの夕食の招待を受けた。ファーストストリート紙の最年長外交官記者のジェームス・リチャードは背が高くエレガントでアクセントは完璧なBBC調、ボタン穴にカーネーションを絶やすことはけしてなかった。彼には振るまいにたくさんのルールがあって、もっとも重要だったのが、オフレコの会話は文字どおり公表しないことだった。こんな思慮を守ったればこそ、彼は政治家に信用されるようになり、彼のサラリーを払う新聞社の同僚に嫌われるようにもなったのだった。
ホテルのレストランで食事をしていた2人はマーガレットがテーブルにやって来たので振り向いた。マーガッレットは背が高く、黒いドレスを着て赤褐色の髪をしていた。ブレナンは彼女が自慢だった。彼女はどう振る舞えばいいかを正しく知っていた。リチャードをうっとりさせるだろうが、なれなれしくはしないだろう。いったん私生活になると、他の誰にも増して全て完璧に振る舞う未来のファーストレディになるためにそういうことはしないと言っていたからだ。
リチャードはマーガレットが真面目だと気がつくまでしばらく笑っていた。

話題は会議からゴシップ、スポーツから逸話までに及んだ。リチャードがほとんどの話をし、うわべ上は取るに足らないエピソードを入念な話に作り上げた。彼は生まれながらの話し上手で、ブレナン夫妻は喜んで聞く役だった。
ブランディに手を伸ばした時になって初めて逆にリチャードが質問した。
「今日、来訪者があったんだって?」
と彼は大袈裟に言った。
「聖職者だったって?」
ブレナンはうなずいた。リチャードがあの修道士の事を知っていても驚くことじゃなかった。彼は起こる前にそのことを知っているような男だから。
「ああ。どっかの修道院から、若い男がね・・・」
彼は言った。
「つまらない錯乱者さ」
彼が短剣のことをのべると、汗が腕から滴れるのを感じた。
「それで、その狂った修道士が何を欲しがったんだい?」
リチャードは訪ねた。ブレナンは肩をすくめた。
「詳細を述べて君をたいくつさせるつもりはないよ。でもこれはどうかな?悪魔の子が生きていて、元気にイギリスに住んでいるんだってさ」
「なんてこった!」
リチャードは頭をうしろに投げ出して笑いながら言った。
「ある老婦人が修道院に手紙をだしたんだ。ディナーのあとに繰り返したくないような話のね」
「なんだ?続けてくれよ。きっと大ボラ大会で優勝できるから」
とリチャードは言ったが
「できっこないわ」
とマーガレットが言った。リチャードは彼女に笑いかけた。
「もちろんだめさ。これはすべてオフレコだ。悪魔の子でさえオフレコさ」
ウエィターがコーヒーを持って現れた。
「私、思うんだけど・・・」
マーガレットが言った。
「話題を変えたほうがいいと思うの」
そうして彼らはその通りにした。

1時間後、ベッドでマーガレット・ブレナンは夫の方を向いた。
「ディナーの後繰り返せない話って何だったの?」
「卑猥なんだ」
彼はあくびしながら言った。
「話して!」
彼女の声にはせっぱ詰まったものがあり、ブレナンがそれと分かるトーンであった。結婚当初の演技ごっこは2人のために発明したエロティックなファンタジーの一つだった。しかし最近は彼女方が彼を煽動していた。そして彼女のイマジネーションの広さがブレナンを楽しませていた。
「続けて!」彼女は言った。「話してったら!!」
疲れていたので安眠が必要だと言いたかったが眠さと戦いこう思った。キリストよ、次は頭痛について文句を言うぞと。
「きっと気分が悪くなるよ」マーガレットが寄り添ってきたので彼は言った。
「この女によるとだな、私の先祖の一人のダミアン・ソーンがあるイギリス人の女を犯した。BBCのだよ。信じるかい?」
「それで?」
「・・・それで、数ヶ月後、ソーンが心臓発作で死んだあと、多分前に言った行為によって起こったんだろうが、彼女は子供を産んだ・・・」
彼はそれをどうやって言葉にしようか考えてクスクス笑った。
「・・・そして、それは子宮経由じゃなかったんだってさ」
ブレナンは彼女も笑うかしかめ面すると思っていた。しかし、あるのはただ沈黙だけだった。そして彼女はつぶやいた。
「ダミアン・ソーンは今まで会った男の中で一番ハンサムだったわ」
ブレナンは彼女をチラリと見た。
「彼に会ったのかい?知らなかったな」
「ただ写真を見ただけ。学生の時彼の夢を見たことがあるの」
再び沈黙があった。それから彼女は身体を横にして彼に背を向けた。
「その女の名は?」
「ケイト。ケイトなんとか」
「ケイト・・・」マーガレットはつぶやいた。「キャサリーン、キャシー、キャサリン・・・」
そこで彼女の声はとぎれた。アクセントがイギリス女性のものに変わっていた。
「ケイト」彼女はささやいた。「ケイトって呼んで・・・」
ブレナンは彼女が何を求めているのか知って彼女の方を向いた。
「おまえの名は?」
彼はささやいた。
「ケイトよ・・・」
彼女は再び言って、下腹をまくらに押し付け彼女自身を持ち上げた。愛しあいながら、ブレナンは窓に写っている2人の身体を見た。窓を通して夜空には雲がなく、2人の窓に映った姿に星が散りばめられていた。
それは正道を踏み外した邪悪な行為だった。彼はそれを楽しんだ。彼女の第2声の音は変わったアクセントだった。マーガレットは口では言えないような行為を自分にするようにとブレナンを駆り立て、彼をダミアンと呼び、彼が彼女を貫くと苦痛で悲鳴を上げた。そしてブレナンはマーガレットの肩越しに窓をちらっと見ていたずらな光に気がついた。それはチカチカと白い星の明かりで揺らめく光だった。その光で彼女の目が彼を見て鈍い黄色の輝きで光ったのだった。


次の日の朝、ホテルのフロントデスク事務員の一人がカウンターの向こうで法衣を着て心配そうな顔をしている若い男を見上げた。
「私はブラザー・フランシスという者なのですが・・・」
彼は言い出した。
「ああ、はいはい」
事務員が言った。
「あなたにお荷物がありますよ」
彼はカウンターの下に手を伸ばしてポーチと封筒を取り出した。封筒にはテープで再び封がしてあった。その修道士はそれを開け中を見てため息をついた。
「ブレナンさんと話をさせていただけまいませんか?どうか3、4分でも・・・」
「お気の毒ですがその方はもうすでにチェックアウトされてまして・・・」
「何かことづては?」
「残念ながらございません。ただこれをあなたにお渡しするようにとだけで」
若い修道士は目を閉じて涙を流した。神父に自分の失敗をなんと告げようかと考えながら・・・。


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