獅子窟寺
獅子屈寺の参道は入り口付近に一丁の丁石があり、途中、四丁付近に牛臥石が
横たわっている。左の石柱に「聖武天皇勅願、行基菩薩開創、役行者、弘法大師、修業旧蹟」とある。昔はここに山門があって牛臥石の上を越して
寺内へ入ったようだ。
六丁の丁石付近には仁王門の石組みがあり、かっては道路沿いに納屋建ての小屋に仁王像が配置されていたが、風で倒れ、
仁王像は薬師堂に合住居となったが、仁王門の再建は戦争で中断されたままである。
獅子窟寺の山は、全山花崗岩質の山である。正式には普見山獅子窟寺といい、真言宗高野山系に属する。
開基は投小角(エンノオヅル)と伝えられ、本尊薬師如来像は弘仁期の榧(かや)材の一本造りで国宝である。昭和51年(1976)に収蔵庫に移し安置され、
拝観するには予約が必要である。
亀山上皇が薬師如来に病気平癒を祈られ、全快するや寺の修復をされた。
嘉元3年(1305)上皇崩御に際し、その徳を偲んで「王の墓」を建てたという。
元和元年(1615)
徳川との決戦を前にした豊臣軍は、当時の法師たちに加勢を要請したが、落城必至と考えた法師は断った。怒った豊臣軍は全山十二坊 に火を放したため、焼失し、中興光影和尚
により再建されたが規模は以前の十分の一にも及ばなかった。現在の寺はその当時のものである
獅子の窟
秋葉山祠あとの北の尾根に上がると、東から西に突き出したつけ根から先まで4.5メートル
もある巨石がある。男の石と呼ばれている。
この下から西に降りると女の岩と言われる金剛般若窟・獅子窟である。
この岩の弘法大師が修業されたという窟(いわや)の奥には、弘法大師の小さな石像がある。
昔、ここには16の灯火がともっていて、淀川をゆききした舟がこの灯火を見て、鍵屋浦に近いことを知る
灯台の役目をしていた。という言い伝えもある。確かにこの岩には火の跡がある。
しかし、これは大阪夏の陣で焼かれた火の跡だそうである。
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