獅子窟寺の青嵐


JR河内磐船駅から天田神社を見て山手に入っていくと、大きな水道タンクが出現する。この前を左手にとって参道を進むと 獅子窟寺に出る。

天田神社

天田神社 寺標の辻 安産地蔵

天田神社は私市、森両地区の氏神社で住吉四神(表筒男命、中筒男命、底筒男命、 息長帯姫命)を祀る。古代この地方は肥沃で作物豊かな野であったので「甘野」といわれ、川は甘野川、田は 甘田と呼ばれていた。この甘田に田の神を祀って建てた甘田の宮が天田神社の起源である。

交野地方は肩野物部氏の所領でその先祖、饒速日命が咾ヶ峰に降臨し、長く交野の祭神となっていた。
その物部氏が西紀577年敏達天皇の皇后御食炊屋姫尊(後の推古天皇)にこの地を献じて私市部となったのであるが、平安時代に入り、京都の宮廷貴族が 遊猟にきては盛んに和歌を詠み、七夕伝説にちなんで甘野川は天野川、甘田は天田と書くようなった。

この頃、住吉信仰が流行し、さらに物部氏の衰退もあって、交野の神化の祭神は饒速日命から、海神であり、和歌の神でもある住吉神に 替って今日に至ったのである。

天田神社を過ぎて山手に入り、立派な民家(井上姓が多い。長慶天皇と関係が深いらしい)を左右に見ながら登っていくと、巨大な水道 タンクが出現する。この前が寺標の辻である。これより獅子窟寺への参道である。
ここには3つの碑が建っている。左より「獅子窟律寺」「南無阿弥陀仏」「従是六丁」とあり、寛保元年(1741)に建てられたらしい。

参道入り口より舗装された急な坂道 が続き、三丁の丁石を過ぎたころ、首なし地蔵が南面して建てられている。赤いよだれかけを地蔵にかけた主は何をお願いしたのであろうか。
私市の古い母親たちは、臨月を迎える頃になると、ここにお参りし、 安産を祈り、また適度な運動にもなったようである。

獅子窟寺
牛臥石 仁王門の跡 獅子窟寺

獅子屈寺の参道は入り口付近に一丁の丁石があり、途中、四丁付近に牛臥石が 横たわっている。左の石柱に「聖武天皇勅願、行基菩薩開創、役行者、弘法大師、修業旧蹟」とある。昔はここに山門があって牛臥石の上を越して 寺内へ入ったようだ。

六丁の丁石付近には仁王門の石組みがあり、かっては道路沿いに納屋建ての小屋に仁王像が配置されていたが、風で倒れ、 仁王像は薬師堂に合住居となったが、仁王門の再建は戦争で中断されたままである。

獅子窟寺の山は、全山花崗岩質の山である。正式には普見山獅子窟寺といい、真言宗高野山系に属する。
開基は投小角(エンノオヅル)と伝えられ、本尊薬師如来像は弘仁期の榧(かや)材の一本造りで国宝である。昭和51年(1976)に収蔵庫に移し安置され、 拝観するには予約が必要である。

亀山上皇が薬師如来に病気平癒を祈られ、全快するや寺の修復をされた。
嘉元3年(1305)上皇崩御に際し、その徳を偲んで「王の墓」を建てたという。

元和元年(1615) 徳川との決戦を前にした豊臣軍は、当時の法師たちに加勢を要請したが、落城必至と考えた法師は断った。怒った豊臣軍は全山十二坊 に火を放したため、焼失し、中興光影和尚 により再建されたが規模は以前の十分の一にも及ばなかった。現在の寺はその当時のものである

獅子の窟
巨石群 獅子の窟(男の岩) 獅子の窟(女の岩)

秋葉山祠あとの北の尾根に上がると、東から西に突き出したつけ根から先まで4.5メートル もある巨石がある。男の石と呼ばれている。
この下から西に降りると女の岩と言われる金剛般若窟・獅子窟である。
この岩の弘法大師が修業されたという窟(いわや)の奥には、弘法大師の小さな石像がある。
昔、ここには16の灯火がともっていて、淀川をゆききした舟がこの灯火を見て、鍵屋浦に近いことを知る 灯台の役目をしていた。という言い伝えもある。確かにこの岩には火の跡がある。
しかし、これは大阪夏の陣で焼かれた火の跡だそうである。


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