紫雲丸

中国は広島の生れ、今回は広島弁で書くけーなぁ。広島弁の中でも備後弁じゃけぇ。

紫雲丸1955年5月11日午前6時56分、岡山県宇野港と香川県高松港を結ぶ旧国鉄の宇高連絡船「紫雲丸」(写真)が沈没したのを覚えとってきゃぁのぉ。
781人の乗船客を乗せて濃霧の高松港を出航して16分後、岡山側からきた連絡線「第3宇高丸」と衝突し、数分で沈没したそうじゃ。この沈没事故でなくなった犠牲者は一般乗客58名、修学旅行関係者108名、船員2名の168名だそうじゃ。むげぇなぁや。

新聞によると、同船に乗りながら助かった同級生ら39名の人々が50回忌法要後、事故でかなわなかった京都への鎮魂の修学旅行をやってんそうじゃ。今までも何回か話が出たんじゃが、遺族のことを考えるとはしゃぐ気にゃぁなれんかったそうじゃ。今回、50回忌法要で区切りをつけ、「楽しみにしていた旅行の途中で命を奪われた犠牲者の無念をはらすいい機会ではないか」と決断しちゃったそうじゃ。
この事件をわしもよう忘れんのはのぉ、小学校の修学旅行が四国で、行きはこの「紫雲丸」で四国に渡り、帰ってから三日後のことじゃった。わしらは多度津から帰ったんじゃが、その頃は、人事じゃとは思えんかったんじゃでぇ。いまでも我が家の写真帳に「紫雲丸」のプレートの写真が残っとって、この写真を見るたんびに、この海難事故を思い出すんじゃ。
近所の小学校の修学旅行で帰りはこの「紫雲丸」に乗る予定じゃったが、迷い子が出たため一便遅らせたため、助かったとういう話もあるんじゃでぇ。

この「紫雲丸」は引き上げられ、「瀬戸丸」と改名されて、瀬戸大橋完成で廃止になるまで宇野、高松間で頑張ったんじゃそうじゃ。

犠牲者の冥福を祈ったげようじゃぁなゃきゃぁ。合掌。


ま、今回はこんなところじゃぁ、しゃぁなら。