「折中・融通・臨機応変。」 |
久しぶりに『たけしのTVタックル』(テレビ朝日系)を見ました。
今日は超能力・UFO・ノストラダムスの予言など、「非科学的」だと言われている
事について、「バスターズ」と呼ばれる超常現象に否定的な立場の常連パネラー
(大槻義彦、松尾貴史、催洋一)と、それぞれの分野での研究家・専門家
(UFO研究者、霊能力者など)がディスカッションする内容。 細かな内容はともかく、この手のディスカッションと言うのは、極論と極論の衝突 で、往々にして平行線のまま終わってしまいます。まあでも、 簡単に折れてしまうような意見しか持っていないなら、わざわざ論議したり、 そもそも研究する意味が無いとも言えるので、これはこれで正しいあり方でしょう。 私が思ったのは、また以前より思っている事は、第三者から見て一見ケンカとも思える論議が 出来るというのは、きちんとした意見を持っていて、克つディスカッションとは如何なる ものかを弁えているからであろうという事。まあ、研究者の中には 「私(の研究)が正しい」的頑固の方もいらっしゃいますので、一概にそうとも言えない のですが、弁えている方は、「そういう意見も有るだろう」というのが頭に有った上で、 敢えて自分の立場の意見を極論気味に述べているのではないだろうか。 例えば、私は『徹底討論!朝まで生テレビ』(テレビ朝日系)をよく観るのですが、 いつもそれぞれの意見を述べて、それこそ対立しているのかと思っていたパネラー達も、 論議が終わったあとのスタジオで、視聴者からの質問などに答える時には、結構和気藹々とし、 また「色々な考え方が有って当然」的なニュアンスで比較的ファジーな説明などしているのを 見受けます。 以前、北野大教授が「私は幽霊みたいなものも、あるかなって思う時がありますよ」 なんてニュアンスの事をテレビで言ってました。「完全否定」の大槻教授とは大きく 違った意見です。しかし「研究者がこういう事言うと本当は怒られちゃうんだけどね」 なんて事も付け加えてました。ちょっと本質を見たような気がしました。 私は、世の中にはいくつもの考え方が有って良いと思ってます。確かに、 「ノストラダムスの大予言」を鵜呑みにしてしまう事、超常現象に異常に傾倒する 事は良いと思えません。だからといって「非科学的だ」と斬ってしまうのもつまらない 気がします。論議の場ではともかく、普段は北野教授の上の発言のようなスタンスでいたい ものです。 で、私も大学時代、講義中にひょんな事からディスカッションが始まってしまった 事があります。その授業は、履修している生徒は大勢いるも、どうも出席率が低い。 そこで発想の転換で、少数派の積極的に参加している学生たちでゼミナール的に授業を 進めていこう、ということで、では我々はどのように取り組んでいこうかと、2人の学生 が対立した。 その頃私は、議論するという事がどういう事か分かっていない部分があって、しかも ケンカチックなその展開にちょっとびびってしまい、相対する2人の中道を行く意見を いっぱい挟んでしまいました。確かに、その時の2人はかなり考え方に相違が有り、 場の雰囲気も険悪だったので、私は間違った事をしたとは思っていませんが、 それを振り返った時、「ああ、『朝生』のパネラーは、別にケンカをしている訳では ないんだな」なんて事をちょっと思いました。 それでも、私の考えは相変わらず「あっちもこっちも、言ってる事はどっちも正しい」 なのです。例えば、「ケンカをした時、両者が一歩ずつ引けば解決するのになあ・・・」 って、よく思うんです。そんな私は、ディスカッションの場だからと割り切って、自分の意見を 押し通せる自信も無く、そもそも私の意見というのはやはり「どっちも正しい!」なので、 「俺ってはっきりしなくて、やっぱり良くないかなあ・・・」なんて思うのです。 でも社会生活を円滑に行うためには、やはりそれぞれを認め合いつつ「折中・融通・臨機応変」 って言う事をそれぞれ考えていく事が良いんじゃないかなあ、と思うんです。ファジーに 行くのが良いのではないかなって。 ただし、私の場合、「中庸」といいながらかなり「あいまい」な性格なので、 ちょっとハッキリしないとイカンな、とも思いますが。 そういう訳で、私は議論するのが苦手みたいです。(99.8.20) |