Hの過去(プログラミングの履歴)
#1
1981年。T及びその一派とゲーム喫茶「ロータリー」※1で出会う。当時不良のたまり場※2といわれていたゲーム喫茶に、小学生ながら出入りしてしまうほどの(ゲームへの)情熱※3をお互いに持っていた。(クレイジークライマー※4に当時最も関心を持っていた)
2年後。Tの製作した「ゲリアン」※5を教科書がわりにN-BASICプログラミングを開始(偶然にも兄のPC-8801+外付けFDDが家にあった。兄が大学時代に親を口説いて購入。またTはPC-8801mk2+データレコーダーを使用していた)。
[GERIAN]
・N-BASIC
・製作者T
・1982年頃の作品
・主人公BEATクンを操作し悪の親玉ゲリアンを倒し王女を救い出すのが目的(推定)
・HのN-BASICプログラミングにおける教科書。
TとHはゲームが完成する度に発表会を催し、このことにS、W等の友人も次第に影響を受け始め、PC-8801(mk2SR以降の機種※6)を購入し始める(といっても当然親に買ってもらっていた訳だが...)。
※1 ゲーム喫茶「ロータリー」は、紆余曲折のすえ現在魚屋となっている。 ※2 小学生時代は駅ビルにおける補導員(<-- PTAの皆様か?)に何度も遭遇。知らない人に「長岡(新潟県長岡市)行かない?」と誘われたり、笑っていただけで怖い高校生(中学生か?)に「何がおかしい」とからまれたり...。 ※3 ラジカセをゲームセンターに持ち込み、ゲームミュージックを録音するマニアックな行動もとった。当時同様の事を行う人が少なからずいたようだが、今考えると尋常ならざる行動といえる。 ※4 NICHIBUTU(日本物産)製。4面クリアは神技と呼ばれる(ホントか?)。 ※5 内部データを書き換える事をTは快く思っていなかったらしい。「VAUVA」ではSTOPキーを無効にするルーチンを組んでいた。また「KILL ◯◯ GAME」(◯◯は同級生の名字が入る。幸いHではなかった)等の危険なタイトルをもつ作品をTは発表している。ちなみに「GERIAN」はanonB氏主催の「Text Maniacs」にてPC88/80プログラミングコンテストで優秀賞を受賞。 ※6 高速なN88V2-BASICをROMに内蔵(mk2以前はV1-BASICという)。またFM音源ボードも標準で付属しており、ゲーム用パソコン名を不動のものにした。
#2
1985年頃より、N-BASICでのゲーム作りに見切り(グラフィックと処理速度に限界を感じていた)をつけ、新しいゲーム作成言語として使用したのが、「dB-IBASIC」(dB-SOFT/1984年)※7処理速度の遅さから断念した640×200ドット8色(N88-BASIC標準)のグラフィックが使用可であり、また殆どN88-BASICと同様の命令で※8プログラミング〜コンパイルできる優れた製品であった。
[RED-FALCON]※9
・dB-IBASIC
・製作者H
・1986年頃の作品
・シュ−ティングゲーム
・TがdB-IBASICで最初に製作したシュ−ティングゲーム[TX6390]に刺激を受け製作したもの。
またS、WはPC-8801mk2SRを購入。FM音源に溺れ、プログラミングをあまりしなかった。(TとHにはFM音源は無縁であった。V2-BASICにはTHEXDER等の良いゲームが多数存在した)
※7 「dB-IBASIC」については左のフレームを参照して頂きたい。 ※8 修正する部分は少なく、非常に互換性に優れていた。しかしコンパイル後のプログラムはN88-(Disk)BASICからの起動ができなかった。 ※9 ゲーム名かつP.N.。RED-FALCONには他にもNewSuperVersionとか亜種がある。CAPCOMの1942に影響を受けたのは間違い無い。この他にもあるHのシューティングゲームは敵の玉が出過ぎ、と酷評を受ける。Tもかなりの作品を発表。Hの手元にあったものは全て左の「ダウンロード」からダウンロード可能であるが、dB-IBASICのマスターディスクがないと実行できない。
#3
新たな発表の場を求めて、マイコンBASICマガジン(電波新聞社※10発行。以下ベ−マガ)への投稿を始める。「dB-IBASIC」の性能には満足していたものの、いかんせんマイナーな存在であったため、N-BASICを使用してTと「SPACE 'N' HARRIER」を共同製作。初投稿で見事に掲載※11を果たす。
[SPACE 'N' HARRIER]
・N-BASIC
・製作者T&H
・1986年頃の作品
・3D?シュ−ティングゲーム
・ベ−マガ掲載作品
はっきり憶えていないが、T、Hともに投稿作品は全て(Tは7作品、Hは3作品)掲載された(はず)。一時ベ−マガでN-BASICがブレークする※12。但しすぐに廃れる。同時期にHはイラスト※13を送り、どうやら13回掲載されたようだ。
※10 五反田駅の近くに本社ビルがある。一度誘われて遊びにいったことがある。
※11 掲載料は当時9,000円。掲載月のベ−マガとともに現金書留が送付された。投稿タイミングから、載るのならこの号だろうと予測した次の号に掲載され、非常に驚き、かつ嬉しかった ※12 TとHで同時掲載を果たした月もある。上京後Tはベ−マガで数カ月連載した。Tの掲載数は7だった事が判明。Tの事を覚えている人は結構多く一部では有名らしい。ちなみに現在1児の父親。 ※13 受験のため、プログラミングは一旦中断したにもかかわらず、イラストなどを描いては投稿。しかし本当にヤバく?なってからはイラストも中断。学校以外で1日6〜7時間は勉強した(実話)。偏差値もうなぎ上りではあったが、いかんせんスタート地点が低かった。
#4
大学入学の為上京、当時最新機種であったPC-8801FAを早速購入※14。しかし一人暮らしを始めてすぐに別の事※15に気をとられ、まったくPC-8801FAを触らない状況が続く。
気がつけばPC-8801は消え去っており※16、世の中のPC状況とは全くの無縁に...※17。
※14 一人暮らしをはじめるに際して、とにかく88が必要だった。Drive-2が不調(買った時から)ではあるものの現在も動作する。会わせて買ったTV兼用モニタPC-TV453Nは修理3回を経て今なお現役(セカンドTV)。ちなみにMacとの接続も可能。 ※15 Tも東京の専門学校に入学。Sも1年遅れで関東に出てくるが、なんとなく疎遠に。Hは淋しさ?を紛らわすべく、大学のマンドリンクラブに入部。卒業迄部員としての使命をまっとう。おかげで学業もさんざんとなり110人中99番という好成績で卒業。 ※16 PC-9801がMS-DOSを採用せず、N88(86)-DISKBASICでひたすら独自路線をつき進むようであれば、HがNECを見捨てるような事はなかった(仮にモニターが火を噴いたとしても)。それにしてもシェア90%超えたかつてのNECも今では...。 ※17 理工系大学生なのに殆どコンピューターとは無縁。社会人になるまで、殆ど情報取得も行わなかった。
#5
社会人となり、心の赴くまま(というか大学の先輩のすすめで)Macintosh LC2を購入。当時Windows2.0※18。Macintoshは漢字Talk6.0.7※19だった。PowerBook520〜現在のメインマシン(PowerMac7600/132)と移行する。一昨年に'MAME'※20の存在を知り、大いに盛り上がる。
ネット探索の内にPC-8801/PC-8001エミュレーターの存在を確認。が、PC/AT機あるいはPC-98用のみ。かと言ってPC/AT機・98の購入はプライドが許さない(投資費用もない)。最近のPC/AT機(こんな言い方しないか...)の安さには心動かされるものはある。いつか買ってしまいそう...。
そして...。(要旨に続く)
※18 世の中には3.1が出回っていたかも。会社の先輩は「マルチプラン」(MicroSoftが「ビジカルク」:Apple2用の表計算ソフト、に対抗して作った表計算ソフト)を使っていた。 ※19 どうしたらBASICのコマンド入力(そんなものはないのだが)に移れるのか分からず、これはHDのフォーマットが必要なのだと思い込み実行してしまう(実話)。がシステムのインストール方法が分からず、1週間も放置状態。PC-8801からMacに移行すればこんなところか...。とにかくGUIが何たるか全く理解できなかった。 ※20 マルチアーケードマシンエミュレータ。(下のリンクはMac用)