ベトナムへの道
私は97年2月ベトナムへ赴きました。その前後に考えたことをメモの形で
まとめてみました。あくまでも私的なメモであり、コメントは歓迎しますが
これをもとに議論を戦わせようという気はありません。
『ベトナムへの道』 --- 核冷戦下での兵器消費
●二つの冷戦
第二次世界大戦が終結を告げた1945年、既に冷戦は始まっていました。
スターリンとルーズベルトはある程度うまくいっていたようでしたが、チャ
ーチルは違いました。1945年4月、ルーズベルトは大戦の終結を見るこ
となく病気でこの世を去ります。副大統領のトルーマンは、ただちに大統領
に就任。8月に原爆を広島、長崎に投下します。この核の圧倒的力により、
大戦を終結させたのです。
戦後すぐの1946年3月、トルーマンはアメリカの故郷の街フルトンにチ
ャーチルを招聘。チャーチルは有名な鉄のカーテン演説を行います。「ソ連
の共産主義に備えよ」と、アメリカ国民にも強く訴えたのです。これにより、
核の勢力下での米ソ対立は決定的になりました。
しかし、この時点でソ連は核を保有していなかったため、アメリカは非常に
有利な立場に身を置くことができました。ソ連が核開発を行うには相当の
年月が必要という楽観的な観測が流れていました。つまり、冷戦とはいうも
のの、アメリカの圧倒的優位が続いており、そのためにアメリカは核を実際
に使用する必要性がなかったのです。
ところが1949年、この状況は一変します。ソ連で初めての核実験が成功。
1950年は、米ソ両国が、いや全世界が「核冷戦」下の不安の中で迎える
初めての新年となりました。
私は冷戦を2つの期間に分けて考えるべきだと思います。49年までの冷戦
と50年以降の「核冷戦」です。この核冷戦によって、一触即発の緊張状態
下で、あらゆる政治的軍事的交渉が行われることになったのです。
●核冷戦下のジレンマ
アメリカ軍需産業は、究極の兵器として核を作り上げました。しかし、この
核によって、アメリカ軍需産業は皮肉な運命を背負わされることになります。
つまり、戦争を起こすことが難しくなったのです。軍需産業は戦争がなけれ
ば儲けにあずかることができません。兵器が消費されないことには、基本的
に利益をあげることができないのです。
しかしながら、核冷戦下で戦争を仕組むことは、軍需産業を含む人類の一瞬
の死を暗示させるものでもあります。したがって、軍需産業にとって生き残
る道は、核戦争に発展しない規模に巧妙にコントロールされた、局地的、ゲ
リラ的、且つ遠隔地での消耗戦となったのです。
このような状況下での最初の局地戦は1950年に起こった朝鮮戦争でした。
ところが、この戦争では二つの重要なテクノロジーがまだあまり発達してい
ませんでした。一つはロケット、もう一つはメディアです。
そのため、この代理戦争においては、ワシントンやモスクワがミサイルで核
攻撃される心配は少なく、母国から遠く離れた「安全地帯」で行うことが
できました。朝鮮戦争の戦況もテレビメディアで国民に直接伝えられること
はまだ少なく、そういう意味でも政府にとって都合のよい時代だったのです。
●次なるチャンス
アメリカの軍需産業は最低10年あるいは15年に1度は大きな国家紛争が
ないと生き残れないとよく言われます。1960年代初頭、朝鮮戦争から約
10年、アメリカの軍需産業は瀕死の状態にありました。
この時期にベトナム情勢が不安定になったのは、表向きにはアメリカにとっ
ての災難でしたが、一部の人々にとってはこの上ないチャンスでありました。
朝鮮戦争と異なる条件は、核ミサイル技術の発達と映像メディアの普及でし
た。これらの条件は、アメリカ軍需産業にとって、有利なものではなかった
のですが、それでも千載一遇のチャンスの到来に違いはありませんでした。
核を使わずに通常兵器を大量に消費したい。そのようなニーズに、ベトナム
は、おそらく最適だったのではないでしょうか。
●私の見たベトナム
私は、以上のような興味もあり1997年2月にベトナムを訪れました。
率直に感じたことは「ベトナムには中心がない」ということです。
例えば、フランスとの国家紛争を考えてみてください。パリを占領すること
が、フランスを降伏させる最も早い方法でしょう。日本にも東京や京都があ
りますし、アメリカにもNYやLAなど中枢的大都市があります。
ところがベトナムでは全てのものが「分散」しています。ベトナム戦争では
南北の境界線上でのみ戦闘が行われたのではありません。当時の南ベトナム
領土内には多数の北側ゲリラが分散して潜んでおり、彼らは幾度となくサイ
ゴンに奇襲をかけ、アメリカ大使館の爆破さえ行いました。
したがって、ハノイが落ちれば戦争が終結するという単純な構図ではなく、
アメリカにしてみれば南ベトナム領内の北側ゲリラの拠点を、しらみつぶし
に攻撃する必要があったのです。
これは「ベトナム戦争の泥沼化」と呼ばれていますが、この状況こそが、
軍需産業にとってはこの上ない好条件でした。中心がないため、核すら効果
的ではなく、大量の通常兵器を長期間使用するほかない軍事的パラダイスだ
ったのです。サイゴン(現ホーチミン)市内にも特に主立った歴史的建造物
はなく、ベトナムから奪い取るものは何もなかったというのが、あくまでも、
私の個人的な感想です。サイゴン自体も、極度に集中化した都市ではありま
せん。アメリカはイデオロギーという大義名分だけを理由に、この戦闘を継
続させたのです。
つまり、ベトナム戦争は泥沼化したのではなく、意図的に泥沼化させられた
のではないかというのが私のささやかな仮説です。ベトナムで使用された典
型的な兵器に軍用ヘリコプターがありますが、事実ベトナム戦争が起こって
から、ベルヘリコプター社の株は急騰しています。
ビリージョエルのアルバム「ナイロンカーテン」は「アイアンカーテン」の
比喩で、ベトナム戦争を意味しています。このアルバム収録の曲「グッドナ
イト・サイゴン」にヘリの音が効果音として使われているのは、まさに象徴
的と言えましょう。
●JFK
ベトナム戦争は、1963年頃本格化しました。当時の大統領ケネディは、
この紛争への介入の長期化をどちらかというと避けようとしていました。そ
して、63年11月、ダラスであのような事件が起こってしまいます。ケネ
ディの頭部が吹っ飛んだ瞬間、ジョンソンはそのわずか数十メートル後ろで
一部始終を目撃していました。
副大統領だったジョンソンは大統領に就任しますが、あの事件を間近で目撃
しているジョンソンには、軍部からの依頼に盲目的に従うしかなかったよう
です。64年8月、連邦議会は、ベトナム戦争に関する全権委任状をジョン
ソンに託し、事実上、ベトナム戦争はアメリカの戦争になりました。全権
委任を受けたジョンソンは、ペンタゴンの出す提案にOKを出し続けること
になったのです。
ケネディ暗殺については、このような断言を行うことは無謀かも知れません。
63年、キング牧師を中心とする人種差別撤廃のための公民権運動がピーク
に達していました。「私には夢がある」とキングが演説を行ったワシントン
大行進のあった日に、ケネディとキングはホワイトハウスで会見しています。
その3ヶ月後にケネディは公民権運動反対者の多い南部のテキサス州に遊説
に出かけ、あの惨事に巻き込まれたという見方も可能です。
しかし、それでもなおかつ、ケネディとベトナムの関係には無視できないも
のがあると考えるのは、私だけではないでしょう。
●核戦略とインターネット
サンタモニカの桟橋から1ブロック離れたとりわけ目立ちもしないビルの中
に「ランド」という名の研究所があります。この研究所は戦後設立され、究
極的な目的は第3次世界大戦の予防と、あるいは起こってしまった後の急速
な報復、復旧などを目的としています。
「ゲーム理論」と呼ばれる経済、軍事、生物進化などに応用される数学理論
のメッカということもあり数学者が多いのですが、自由な研究風土もあって、
多くの研究者のあこがれという時代が長く続いています。
連邦政府とくに軍部は、核による世界大戦を想定した国家戦略をランド研究
所に依頼し、それに基づくリポートが提出されました。これが、分散型ネッ
トワーク(ARPAネット)と呼ばれるもので、現在のインターネットです。
センターをなくし迂回路を非常に多く設けることにより、都市ピンポイント
型の核攻撃を無力にするという戦略は、ひるがえって考えればハイレベルな
テクノロジーとはいうものの、まさにベトナムが行った分散戦略と通じるも
のがあります。
ベトナムは「分散」により最終的には勝利(たとえもしそれがアメリカがプ
ログラムしたものであっても)したわけですが、その結果10年以上におよ
ぶ、じゅうたん爆撃と枯れ葉剤による化学的身体異常に悩まされ続けました。
軍事的側面から見たインターネットも、そういう逆説的欠点が存在していな
いか、検討してみる価値があるかも知れません。
●ベトナム戦争とメディア
ベトナム戦争は、戦闘がその日の内に一般の茶の間に映像として伝達される
最初の戦争になりました。多くのジャーナリストが次々と現地に入り、生の
映像とリポートを遠く離れたアメリカ本国に、また、世界中に、ほぼリアル
タイムで伝えました。
それでも、10年以上におよぶ戦闘は続きました。ニュースでほぼ毎日ベト
ナム戦争の様子がリアルタイムに伝えられていたにもかかわらずです。
ここにも、もう一つの逆説が存在しているように思えます。つまりメディア
特に映像メディアの高度な普及が、戦争そのものを日常的にし過ぎたのかも
知れません。
「ほぼ」リアルタイムと書いたのは編集を含むという意味で、もっとも悲惨
な部分に関する映像は、多くが隠蔽されていた可能性があります。
もちろん、当時大学時代を過ごした人、特に知識を持つ人にとって、映像メ
ディアの影響は大きいものだったでしょう。ベトナム戦争は反戦意識の象徴
だったに違いありません。世界中の人々が、マスメディアによってベトナム
戦争を共有体験とする。そのような状況は、それ以前はなかったでしょう。
しかも、その共有体験から「自分にとってのベトナム戦争」を考えた方も多
かったのだと思います。
しかし、おそらくは中央集権的なメディアの限界なのでしょうか「ベトナム
への補給基地としての日本の位置づけ」について指摘している大人は、私の
近くにはいませんでした。ベトナム戦争への視点は、どちらかと言うと平板
なものだったような気がします。
今考えれば、日本の60年代の繁栄はベトナム戦争抜きには考えられないも
のかも知れません。沖縄の人々がアメリカに対して持つ気持ちも、ベトナム
戦争の後方支援基地という視点から見れば、もっと別の理解が可能かも知れ
ません。
でも、少なくとも今まで私は、そういう教育は受けることはありませんでし
た。日本における教育は全てではないにせよ、戦後について語らず、教えず、
たまたま偶然興味を持つことでもなければ国際社会についての「さまざまな
ものの見方」が存在することに、気づく機会すらありません。
今後インターネットがさらに普及すれば、私のような一市民も、このように
コストをほとんどかけずに発言を行うことができるでしょう。もちろん、ど
の程度の効果があるのかはまだ全くよく分かりませんが、60年代に比べれ
ばずっと恵まれた環境にいると、私は考えています。
●アメリカとアジア、そして日本
いろいろ書いてきましたが、私は実はアメリカが好きです。ですから、その
恥部とも言えるベトナム問題には並々ならぬ関心をもっています。
なぜ、あの頃、自国から地球を半周近くも離れた見知らぬ土地に、何十万人
もの派兵を行う必要があったのか。もちろん、思想上の対立はあったにせよ、
「正義なき戦い」とまで言われながら、10年以上に及ぶ不毛な戦闘がなぜ
続いたのか。今なお、問題視され続けるベトナム問題とはいったい何なのか。
自分なりに少しだけ考えてみようと思ったのがこのメモです。
ちなみに私は左翼主義者ではなく、イデオロギー的観点からベトナムにシン
パシーを感じているわけではありません (かと言って右翼主義者でも競争
礼賛主義者でもありませんが)。
ベトナムは現在、皮肉なことにドルへの拝金主義が横行しており、売春や詐
欺などの社会主義のつけが大きな問題となっています。たしかに将来性は高
いのでしょうが、ドイモイは誇張されて伝えられている可能性があります。
そういうネガティブな側面も冷静に見つめる必要があるでしょう。
私はベトナムの帰りに台湾に立ち寄りましたが、全く繁栄の規模が異なるの
で驚きました。現在の台北の購買力平価は、東京をしのいでいるかも知れま
せん。アメリカに背を向けることの恐ろしさを身を持って感じました。
一方で、ベトナムへの投資が現在一番多いのは台湾であり、アジアの浮いて
いる国同士のしたたかな外交も行われています。アメリカと1995年にな
って実に20年ぶりに国交を回復したベトナムと、中国から国家と認められ
ないがゆえに、南アフリカ共和国など非常に限られた国としか正式な国交を
もたない台湾。
同じくアジアで浮いている日本は、そのようなしたたかさすら持ち合わせて
いないのでしょうか。
いや、そこはポジティブにとらえ、綱渡りをしながらも戦後一度も直接的な
国家紛争を起こさず、表立ってはアメリカ程には巨大な軍需産業を持たない
日本を、誇りに思うべきなのかもしれませんね。
ほしだ まさき
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