一抹の不安と、祈るような期待とを混じらせて、ノブに手をかける。
抵抗無く回るノブに、期待感が安堵に変わった。
そのままドアを引き、玄関に揃えられた靴を確かめる。
いる。
かすかに口元に笑みを張り付かせて、渋沢はドアを閉めた。
「三上?」
中に向かって声をかける。
答えはない。
バッグを置き、奥にはいる。
リビング、キッチン、それから奥の方まで見て回る。
いた。
なんとなく、やはりと言うか。
三上亮は寝室にいた。
深い眠りの底に。
キッチンでコーヒーを淹れながら、渋沢は少し、自分に笑ってしまう。
自分の生活に。
キッチンでコーヒーを淹れる。当たり前みたいに。
サーバーに、3杯分のコーヒーがたまっていく。
ふと、自分が今、どこにいるのかが分からなくなってしまうのだ。
こんな風に、当たり前みたいな顔をして、コーヒーを淹れているのが信じられない。
長いこと、そんな事をしていなかったのが、ウソのようだ。
誰かと飲むためのコーヒーを淹れるのは、思えば高校を卒業して以来のような気がする。
……三上がいなくなってから、人のためにコーヒーなど、淹れなくなっていた。
自分のためにさえ、しなくなっていた。
たまにここで朝を迎えた女が、淹れたりしていたくらいだ。
長続きをしたためしがない。
彼女らの淹れるコーヒーは、悪くなかった。
が、彼女らのために、淹れてやることは一度としてなかった。
なんて事はないことだったのに。
一度くらい淹れてやれば良かった。
今、当たり前みたいに、サーバーに落ちていく琥珀色の雫を見ながら、そんな事も思う。
あの頃の、好みの通りに。
コーヒースプーン1杯を少し控えめ、8g程度。3さじ。
濃すぎない程度に、薄すぎない程度に、一番香りが立つところ。
そう教え込んだのは自分だったが、それ以外のものを淹れると淹れ直しを要求されたりした。
くすっと、ひとりで笑いをかみ殺す。
ワガママが、嬉しかったのが、思い出される。
唯々諾々として従う自分は、バカみたいだと、当時も思ったが、今でも思う。
3杯分のコーヒーが、下にすべてたまり、コーヒーメーカーが、蒸気を吹き上げる音を立てた。
起こして、一緒に飲みたいな、と思ったが、やめておいた。
おそらく、仕事明けで今日来たところだろう。
疲れているだろうところを、自分のワガママで起こすのは忍びない。
一度だけ、ベッドの中をのぞいて、起きそうに無いことだけを確かめておいた。
そういう事を想定していなかったため、当然この家には1台きりしかベッドはないのだが、彼はあまりにも
当たり前のようにその1台を心行くまで占領し切って、身体全体を伸ばしている。
少しだけ、髪を梳いて、額に唇をあて、渋沢は寝室を出た。
ひとりでコーヒーをすすりながら、彼のことを思う。
あれから、三上は確かにその言葉通り、渋沢のところに来てくれた。
あの日、夜遅くに遠征先から帰ってきたら、本当に部屋にいてくれたので、不覚にも涙が出るかと思った。
だが、次の朝、朝食の後、じゃあ明日帰ると言い出して、渋沢は絶句した。
「なんで?」
「アホか、お前は。俺だって、仕事ってモノがあるんだよ。ここをどこだと思ってるんだ」
まったく持ってそのとおりだったので、反論は出来なかった。
「休みには、ちゃんとここに来るから」
そう言って、立ち上がって、かがみ込んで優しいキスをしてくれた。
意外さに、思わずまじまじと顔を見詰めてしまった。
彼はやはり、自分の知ってる彼とは少し違っていた。
なんというか、とてもしなやかな強さを感じる、そんな気がした。
少し目を細めて自分を見詰める目付きが、あの頃には考えられなかった穏やかさをたたえていた。
自分の知らない彼の空白を、見ていたかった、気が、切実にする。
ことん、と、気配がして、振り返ると三上が立っていた。
「起きたのか」
「……おかえり」
眠そうに目をしょぼしょぼさせて、リビングに入ってくる。
「俺にも」
言われる前に、既に渋沢は立ちあがり、サーバーを傾けている。
「……うー……きつかった……やっと終わった」
首をぐりぐり回しながら、自分の肩をしきりにたたく。
「お疲れ様。今度は何日くらいいられるんだ?」
「んー、4日かな。お前は?」
「今週は遠征はない」
「ふーん」
カップを渡すと、ちょいちょいと指で呼び寄せる。
何だろうと近づくと、不意に首を引き寄せられ、唇を重ねられた。
さっとかすめて、一瞬で離れる感触に、思わず手が止まった。
「サンキュ」
にやっと笑って、コーヒーに口をつける。
やはり、彼は変わった。
とても、しなやかで、そして。
「…やっぱり、このコーヒーが一番だ。帰ってきたって気分になる」
嬉しそうに、馥郁と香りを吸い込んで、笑った。
そしてとても、まろやかな空気を纏うようになったなと、思った。
そう、あの頃、自分達はずっと今よりも、尖っていた。
触れるものすべてを傷つけずにはいられないくらいに。
抱きしめあっても、叩きつけるような激情で、壊れそうだった、かもしれない。
時々、三上の想いが熱くて、焼き切れそうだったと思った事もある。
自分の想いで、殺してしまうかと思った事もある。
なぜ、彼が姿を消したのか、今でもやっぱりわからない。
彼は、一切を語ろうとはしてくれない。
「今居るから、それでいいじゃないか」
そんな風にはぐらかして、微笑って、それで終わる。
でも、それでいいと思えるようになった。
「他のコーヒーは、不満か?」
「んー、香りがな。ぜんっぜん無いっていうのがなあ。最近かなりそれでも慣れてたんだけど、これを飲んじまうと、やっぱダメだわ」
「職場で?」
「……まあな」
「そんなによくコーヒーを飲むのか」
「暇さえあればね」
にやにやとしながら、ぼかした答えを少しだけ。
やはり、まだ正体を明かしてくれるつもりが無いらしい。
少しため息をつきながら、返らないとわかっている問いを、繰り返す。
「……いったい、お前は今、何をしているんだ。ずっと何をしていたんだ」
三上は、にやにや笑いに、ほんの少し甘さを落として自分を見詰めた。
「……なんでそんな事知りたがるんだ?」
少し、カップを傾けて、それからことりとテーブルに置く。
「今、俺はここに居るし、お前と一緒にコーヒーを飲んでいる。俺もお前も、仕事はあるけど、無い時はここに帰ってきている。俺は……」
少し、首をかしげて、微笑む。
「満足してるんだけど。お前が居るところに、俺が居られる、事に」
少し、沈黙が落ちる。
ほんのりと暖かな空気が、流れた。
「俺は…感謝しているよ。お前が俺の手の届くところに戻ってきてくれた事に」
三上が、また少し、目を細めた。
「すべてを知りたいと、思ってしまうんだ。おかしい事なのか……?」
くすっと、小さく声を立てて笑う。
「…おかしくはないだろうよ。普通だろ」
「でも…?」
「ん。でも」
するりと立ち上がり、肩に手を掛ける。
「もう少し、ナイショだ」
肩越しに、頬に小さなキスを落とす。
「渋沢。する?」
くすくすと、笑いながら、背中から、首に手を回してもたれかかる。
「それとも、今日はやめとく?疲れてそうだし」
疲れてそうに見えるのは、自分よりむしろ三上のほうじゃないのか、と思いながらも、その手をひく。
なんなく、落ちてくる身体を抱き込んで、何度か、ついばむようなキスを交わす。
あまやかな感触に、三上が目を閉じて、小さく吐息を漏らす。
しばらく、その唇を楽しんでから顔を離すと、目を閉じたままの三上が、そのまま眠ってしまいそうに見えた。
「……やっぱり、今日はやめておこう。お前、ものすごく疲れて見えるぞ」
ふわりと目を開けた三上は、少し、きょとんとした目で何事か考えていたが、ぷっと吹き出した。
「……わかった。じゃあ、今日のところは休ませてもらう。実は、脳みそが溶けそうに眠いんだ」
「でもそれじゃ今、コーヒーなんか飲んで、寝られるのか?」
「眠い時には、何飲んだって眠たいよ」
まあ、そんなものなのかもしれない。
「じゃあ、また明日。お前も早く寝ろよ」
なんということも無くあっさりと手を振って、三上は再び寝室に消えていった。
自分とコーヒーを飲むためだけに起きてきたのかな。
まあ、そんなこともあるまいが、結果としてはそういうカンジだ。
三上は変わった。
しなやかな強さと、したたかさ。
それはいつ、どこで身に付けたのだろう。
自分の前から消えていた間、いったい彼が何を見て、何を手にしていたのか。
おそらくは、その間につかんだ「なにか」が、彼を変えた。
誰にも揺るがせられない何かを手に入れた、ように思う。
では。
それならば、自分は?
ずっと彼のことを引きずっていた自分は……?
今でもあの頃のまま止まっていたんじゃないだろうか。
三上の座っていた場所に、残されているコーヒーカップが、少しずつ冷めていく。
渋沢は、頬杖をついて、ぼんやりとコーヒーカップを眺めていた。
=Fin=
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