Fly Me to the Sky



「今日は?」
遠慮がちに、渋沢が問う。
数日前に告げてあるからわかっているはずなのに、つい確かめてしまっている。
少し笑いをかみ殺しながら、コーヒーを置く。
わかってるくせに、と、思うけど、もちろんそんな事は言わない。
「すまないな。今日は昼には帰る。今日から仕事」
少しがっかりしたように、渋沢が目をそらすのを目を細めて見ている。
渋沢は、自分の仕事を知らない。
教えてやっていない。
別に理由なんかない。
そのうち教えてやろうとは思っている。
渋沢が聞きたそうにしているのが楽しいだけだ。
意地が悪いかな、と、思わないでもないが、これくらいはまあ許される範囲だろうとも思う。
自分は、イジワルなのだ(笑)
「・・・・今度はいつ来れる?」
さり気なさそうに装って聞かれるが、これには茶化さず真剣に頭の中でスケジュールを確認。
今回のスケジュールは、ロングフライトと中3日。次に帰るのは5日後か。 ・・・・順調に行ったなら。
でも、更に、「本来の出勤日」は明日なので、プラス1日。
・・・・・もう、一日、のばそうか。
果てしない、強い誘惑に駆られる。
ふと、なにげに泳がせた目が、物言いたげな目線とぶつかった。
いや。
だめだ。
自分の休みは厳密な意味での休みではない。
多分、ここにいてしまうと、自分は仕事そっちのけの展開を、自ら招いてしまいかねない。
自己を律することこそが、一番重要な要素なのだ。
うん。
「多分、来週の水曜日くらいになるだろ。・・・・予定通りなら」
「水曜か」
渋沢は渋沢で、スケジュールがある。
遠征時期なら何日もいない。
たまにそういう時なら、渋沢がいないこの家でぼんやりと資料を整理していたりする。
かえってそういう時の方が、はかどるので滞在を伸ばせてしまうので、本当は歓迎している。
・・・けどまあ、なんのかんの言っても、一緒にいられる方が嬉しいのはしようがない。
だって、しようがない。
言ってなんか、もちろんやんないけど。
・・・・ね。(笑)
「水曜日」
そろそろ渋沢は出る時間だ。
試合が無い日だって、スポーツ選手には日々の練習と言う義務がある。
渋沢みたいな、チームの要となる選手なら特に。
学生のクラブ活動ならともかく、今の渋沢は、それで給料をもらい、飯を食っている身だ。
「せいぜい、水曜には早く帰ってくることだな」
意地悪く言ってやると、ほんの少し、渋沢が目線を落として切ない顔を見せる。
わざとだろうと思いながらも、そういうところが可愛いとも思う。
昔はそんなかわいげも見せなかったが、やはりいくらか時間が経って、いくらか大人になって、 そんな小芝居をするくらいの知恵が付いたらしい。
だから、わかっているけど乗ってやる。
少し、肩を寄せて、目を閉じてやる。
すぐに、唇が重なってくる。
朝のキスは、優しい。
少しコーヒーの香りがする。
夜、情事の前のキスのような激しさはないけれど、そのキスも割と気に入っている。
少し、唇が離れて、少し、息を付いて。
もう一度、もう少し、深く。
じわり、と、甘い感覚に頭の芯がしびれる気がする。
やっぱり、もう一日・・・・・・。
思わず、両手を首に回したくなるのを、理性で持って押さえつける。
そっと唇を離してから、渋沢はポツリとつぶやいた。
「・・・・・・予約」
濡れた唇で、それでも精一杯意地悪く笑ってやらなければならない。
「一週間後の?」
「そう」
「バカじゃねーの?」
渋沢は、なんだかものすごく嬉しそうに、相好を崩して立ち上がった。
そろそろホントに出ないとヤバい時間なのだ。




渋沢が出掛けてしまった後。
ポットに残ったコーヒーを一人でゆっくり飲みながら、朝の時間を満喫する。
実際のところ、本当は今日は出勤日ではない。
が、イロイロな制限がたくさんあり、かつ事前準備も怠れない身であれば、今夜、あの調子で「予約」を実行されては 仕事に支障をきたす。
一応これでも、現在の仕事には高いプロ意識とプライドをかけているのだから。
仕事と渋沢をどっちを取るかといわれたら、悪いけど、仕事なんだな。自分としては。
それも、渋沢には言わないけど。
・・・・まあ、別に言っても差し支えないだろうけど、気分として、言わない。
いちおう、まあ仮にも「恋愛中」のつもりなので、「礼儀として」言わない、ともいうか。
「恋愛中」、ねえ。
ふふん、と一人でなんだか自分の浮かべた単語に笑ってしまう。
「渋沢と、恋愛」。
なんか、改めてそういう文章にしてみると、ものすごく可笑しい。
ミスマッチ文章もいいところだ。
けど、じゃあどういうものかと他の言葉を捜してみても、いい単語は別に思いつかない。
それに、別に今ならそういうのもなんとなくイヤじゃない。
多分・・・・・・自分が自分の世界を確立して、もう渋沢の助けを必要としなくなったからだろう、と思う。
寄りかからなくてよくなった。
だから、もう一度、会える気がした。
会ってみて、確かに自分が変われたことを知った。
そして、渋沢と、今度は違う気持ちで向き合えるようになったことをも知った。
違う気持ち。
それは、厳密に言うなら「恋愛」ではないとも思う。
が、そういう甘い感覚も、キライではないし、そういう気持ちに浸ってみるのも楽しいので、あえてそういう 単語を使ってみたくなったりする。
キスをしたり、セックスをしたり、触れ合ったりするのが嬉しい内は、まあ、そう言ってみても差し支えないかな、とも思うし。
でも。
「渋沢と、恋愛」
実際に、声に出してみて、そのあまりのへんてこりんさにぷっと吹き出した。
誰もいないし、聞いていない。
ボイスレコーダーも、ここにはない。
「・・・・・ただいま、恋愛中、だ」
不似合いな一言を楽しそうにつぶやく、三上だ。
さて。
そろそろ自分も準備でもするか。
コーヒーを飲み干すと、やっと立ち上がった。
おそらく自宅には不在の間に膨大な資料が届いているはずだ。
本日は資料の整理と差し替えと、マニュアルチェックの日。
仕事だ。
かちり、と、表情が切り替わるのを、本人は意識していない。



翌日。
半日がかりで差し替えを終了させた3冊のルートマニュアルと、クリーニング済の制服と、数日分の 出張バッグを持って、空港に着いた。
ロッカールームで着替えを済ませ、着てきたスーツは空港内のクリーニング屋に渡してしまう。
航務部に入ると、机の上には最新版のノータムと飛行計画書が積み上げられている。
自分の分を受け取り、さっそく目を通す。
膨大な資料。
まだ自分は責任者ではないが、だからといって無関心ではいられようはずが無い。
丹念にデータとノータムとルートマニュアルと天候資料を突き合わせる。
そのうち機長と機関士とディスパチャーも出勤してくる。
「おはようございます」
「おはようございます」
軽く頭を下げて挨拶がそこかしこで。
「三上君はいつも早いですねえ」
今回のチームの機長は既に何度かチームを組んだ事のあるなじみの人物だ。
「貧乏性なんですよ」
にっこりと笑い返す。
感じの良い機長で、尊敬している。
調子の良い時ならたまに任せてもらえる事もある。
多分、かなり信頼されている、と思ってもいい。
「最近三上くんは、ずいぶん楽しそうですねえ」
機長は感じのいい笑顔のまま、かっちりと核心を突いた発言をする。
少し、目を見開いて、はあ、と返事をためらう。
「キャビンクルーにも、ずいぶん人気がありますからね。君は」
「いや、そういうことでは、無いですよ」
やはり、できた人物と言うのは鋭いものだ、と、心の中で少し肩をすくめて。
なにしろ「ただいま恋愛中」の身の上だ。
「さて」
全員がそろったので、ミーティングの開始だ。
もう一度、飛行計画書を全員で頭からチェック開始。
飛行計画原案書が繰られる。
今回は北米向けのロングフライト。
予想高層気象の詳細な説明を聞きながら、ルートが検討される。
三上亮は、現在J社の優秀な若手副操縦士なのである。




どうしてそういう道を選んだか、というのは、まあ説明するのは難しい。
特に、渋沢に、うまく説明して、なおかつすべて理解してもらえるかどうかわからない。
だから、何となく言ってないまま今まではぐらかせてきた、のもある。
・・・・・・自分の、限界を感じていた。
そこまで行きつけない、自分を自分で一番わかり過ぎてしまっていたのが辛かった。
中途半端な頭の良さが疎ましかった。
何で俺はもっと馬鹿じゃなかったんだろう、と。
自分に力が無い事なんか、気がつかないくらい。
がむしゃらに、届かなくても月にも星にも手を伸ばし続ける子供のように走り続けられるくらい馬鹿ならよかったのに。
けれど、いつの頃からだろう。
自分の限界を、少しずつ感じはじめていた、あの頃。
目の前で見せ付けられる、天才達の背中。
ひたひたと、忍び寄るような不安感は、自分の精神を確実に追いつめていた。
本当は、あの頃の事はうまく思い出せない。
思い出すのはサッカーの事ばかりだ。
もどかしい想いと、絶望的な気持ちと、それでもすがり付きたいほど好きだった、そんな世界。
何度も渋沢に頼った。
立ち上がれなくなるたびに。
そして、そんな自分が、また情けなくて、1人で泣いた。
だから。
最終的に1つの決心を固めた時。
渋沢には言わなかった。
そばに居てもらえば、いつまでもすがる。
そんな自分は、吐き気がする。
そんな自分を消してしまえと。




機首部に機長と並んで立ち、帽子をかぶり直す。
「じゃ」
少し会釈をして、左右に分かれ、機関点検にまわる。
外壁、主翼、エンジン、フラップ。
ずっと上ばかり見上げてゆっくりと異常個所が無いか丹念に歩きまわる。
まわり中を、機内食を積み込むデリバリー車や、メンテナンス車、燃料車などが無秩序に走り回り、整備機関士達が インカムで声を張り上げている。
まだ少し、緊張感が緩い。
地面に足がついているからだろうな。
機体の向こうに、青い空と、ほんの少しの雲が見える。
いい雲だ。
気流も悪くないし、視界もよさそうだ。
多分あれなら揺れも少ない。
飛ぶ瞬間をイメージして、少しだけ、目を閉じる。
飛ぶ、瞬間。
イメージする「飛ぶ瞬間」は、いつも現実と少しだけ違う。
イメージしてしまうのは、きっと、「知らない頃の自分」が浮かべ続けた瞬間だからだ。
・・・・・・・結局、すべてを心に決めたのは、2年の冬だった。
あと一年。
それだけに完全燃焼して、すべてを終わる。
そう、決めた。
それからカウントダウンの日々が始まった。
サッカーも、渋沢も。
何も言わないまま。
きれいさっぱり、消え失せる。
その日の事をずっと考えていた。
最後の瞬間、軽やかに、地面を蹴って、ぱっと煙のように無くなってしまうのだ。
夢を見た。
何度も。
地面を蹴って、空中で、消え失せる、自分。
それは、甘美な夢だった。
すべてを無くしてしまうのは、なんて楽な選択。
そして、いつも空を見上げる事になった。


人知れず課したカウントダウンの数字がさらさらと零れ落ちていくに連れて、息苦しさが増していった。
終わりが近づくに連れて、めまいがした。
何度も・・・・・数字を残したままだけれど、「飛んでしまえ」とささやく自分を押さえつけるのが苦痛で。
苦痛で。
苦痛で。
何度か。
校舎の屋上に、立った。
・・・・・・・・飛ぶ。なら。
思いきり、無茶な困難に挑戦してみようか。
それを思い付いたのは、どんなきっかけだったか、もうわからない。
錆びた手すりの、剥げた塗料の残像が、やけに残っている。
その日の内に本屋に向かい、赤本コーナーの隅から航空大学の資料を探し出した。
不可能では、ないなと思った。
無理は、ある。
でも、不可能、では、無い。
どうせ消えてしまうなら、新しいゼロを用意してみても、いいんじゃないのか?


その日から、見る夢が、少し変わった。
地面を蹴って。
軽やかに。
飛び立つ自分が、消えなくなった。
消えなくなった自分は、どこへ行くんだろう。
どこに行きたい?
その時。
誰の姿も見えなくなった。
すがっていた腕から、自分の手が、力を無くして離すのを、見た。
空中に飛び立ち、1人きりで、飛ぶ。
飛べる。
飛んでいけば、いい。
目を開いたら、世界の色は、変わっていた。





ブリーフィングも済み、狭いコクピットに機長と機関士と自分と、3人が席に着いた。
標準時計に目をやり、時報確認済の自分の時計と突き合わせて秒針をあわせる。
この世界に入ってから、やたら時計に神経質になった。
もともと時間には神経質な方だったが、これはもう、立派な職業病だろう。
それから自動操縦用のデータの入力作業。三上が次々と数字や記号を読み上げ、機長がそれを入力していく。
それから再度、点検の読み合わせ。
その後計器のチェック。
航空機関士は燃料搭載明細と飛行計画書を見比べながら何やらぶつぶつとつぶやいている。
出発30分前になると、キャビンクルーが機内に不審物が無かった旨と、そろそろ搭乗開始の旨を伝えに来る。
しばらくすると、ざわめく気配が伝わってきてなんとなくこそばゆい。
キャビンでは乗客の搭乗が始まっているらしい。
やがて、地上係員がウェイト・アンド・バランスを持ってやってきた。
機関士が、それをもとに離陸速度データを計算して張り出すと、いよいよチェックリストの読み上げだ。
コクピット内では、一切の無駄口が許されない時間帯。
いわゆる「サイレント・コクピット」。
読み上げるチェックリストと、復唱する声。
少しずつ、緊張感が高まっていく。
ぴんと張り詰める、空気。
その空気は、好きだ。
ぴりぴりと、神経が研ぎ澄まされていく。
試合の前のような。
軽い興奮と、相反するように静まり返っていく意識。
「エアスピード」
コールすると、機長が答える。
「バグズ・セット」
順々に、すべての計器にランプが灯り、機長の指がバーにかかる。
インターホンから整備士の声が入る。
「5分前です」
ポン、というまぬけた音がしてキャビンクルーのアナウンスが、流れた。
シートベルトの着用を説明する声を聞きながら、小さく深呼吸をして、気持ちを鎮めた。
ドスンと、ドアが閉まる音が響き、軽く気圧が変わって耳の奥がつんとした。
「ドア・クローズド」
軽く、エンジン音が身体に伝わる。
かくん、と前のめりの慣性がかかり、タクシーウェイに引き出されると、いよいよジェットエンジンに火が入った。
コトン、コトン、と、タクシーウェイのライトを踏みつける振動が、列車のように規則的に響く。
最後の、離陸前のチェックリストを機関士が読み上げる。
自分はそれを横目に答えながら、管制塔に周波数を合わせる。
離陸は本当に忙しいのだ。
やがて、管制塔から離陸許可が入り、滑走路に入った。
機首を回して離陸方向にぴたりと止まると目の前にはまっすぐに滑走路が続いている。
その先は、はるか彼方のようにも見え、またあまりにも短すぎるようにも見える。
「テイク・オフ」
機長のコール。
ふっと、緊張感が上り詰める。
息を詰めるかのように、巨大な機体が走り始める。
滑走路の、向こう端は見えない。
けれど。まっすぐに。
少しずつ、振動の感覚が狭まっていく。
速度計に目を走らせ、慎重にコールする。
「V1」
振動が、とぎれなく身体の奥底に響く。
タイミングを計る。
信じられない量の燃料が、燃焼室に注ぎ込まれ、エンジンは限界ぎりぎりのフル稼動。
機首引き起こし速度。
コール。
「ローテーション」
自分の声に呼応してかすかに推力レバーにかけた機長の指に力が入り、機首が上を向く。
重力が、仰向けにかかる。
その瞬間。
ふいに、振動が消え、ふわりと解き放たれた感覚が体を包んだ。
たん!と。
地面を蹴って。
飛び上がる瞬間は、目が覚めるほど現実で、すべてを解き放してくれた。
「V2!」
高度35フィートの空中で。
機体は機首を風上に向かって少し、振る。
フロントウィンドゥには、青い空だけがうつっている。
すべてを通り抜けて、パスを通して、何も遮るものがなかった、あの感覚が。
今だって、手に入る。
自分の手には、今でもあの瞬間がある。
飛び上がって。
消えない。
もう、消えない。
どこへでも、行ける。
行くことも、帰ることも、もう、自由、だ。







=Fin=






◇コメント◇

なんと、前代未聞ですが、パイロットでーす。
たまたま「ミカちゃんの設定、どうしようかな〜ン」とか考えていた期間に読んだのが現役パイロットの本だったから。
ああ、かっこいいなあ・・・・パイロットのコスプレミカちゃんなんていいかも♪とか考えてて、おお、ならいっそ コスプレといわず、そのものパイロットにしてしまえ。えーい。みたいな。
あの制服で、肩には3本ライン。(まだ若いからね♪)帽子と手袋。ボンノウ!!!
とりあえず「何でもいいからムチャな難関に挑戦してみたかった」んです。ってことで。
それをくぐり抜けたことで、やっと自信を手に入れることが出来た。みたいな。
でも、パイロットの適性を読んでいると、これこそ三上の適職やんけと思わずにはいられなかったのです。
冷静な判断力、とっさの時の決断力、すべてに目を配りながらの集中力、etc、etc・・・・。
まあ別に近い知り合いにパイロットとか航空関係者とか居ないので、詳しいことを突っ込まれるととほほですが、 適当にカンジだけでも(笑)
頭がいい人と、勘のいい女は幸せになれないっていうのが切実なカンジのミカちゃんですので、それを 踏み越えるくらいの自信を手に入れて欲しいです。





 ⇒もどる。