いつものように、試合が終わって、ロッカールームに帰ってきたら、信じられないものを見た。
公式試合のアウェイ会場で。地元じゃない地方の、相手チームのスタジアムの、関係者のみのはずのロッカールーム前に三上が立っていた。
ドアの横に、腕を組んで、少し壁にもたれるようにして、立っていた。
なにか、自分は幽霊でも見るような顔だったらしい。
チームメイト達が、不審げに自分を追い越し、次々にドアの中へ消えていった。
その人波をやりすごしてから三上は、何とも言えないおかしそうな顔をして、よお、と気楽そうに笑って片手を上げた。
「なんで……ここに?どうやって入ったんだ?」
よっぽどまぬけた顔だったろうし、質問だって、かなりそこじゃないだろうポイントだった気がする。
が、三上はポケットから関係者用のオフィシャルパスを取り出してみせた。
「俺だって、ツテが無い身じゃないんだぜ」
以前の自分たちのチームメイトの誰かからもらっているんだろう、とやっと思い至る。
自分たちの元チームメイトは今、何人もこの世界に身を置いている。
見せびらかしたカードをしまうと、彼は何の負い目もなさそうに、笑ってみせた。
「見てたぜ」と、相変わらずにやにや笑うその姿は、幾分かすっきりと細くなっていて、やはりサッカーを止めてからの年月を物語る。
黒の細身のスーツが、身体の線を浮き出させている。
既にスポーツを生業としている人間の身体ではなかった。
「……少し、待っててもらってもいいか?」
「かまわない。どうせさっきから待ってたんだぜ?」
「……飯でも……食いに行く時間はあるのか?」
「今日はこの後は予定が無いんだ」
「…すぐ、用意するから」
「ゆっくりでいいぞ。俺は、逃げないから」
俺は、逃げないから。
一瞬、その笑顔を見ようと目を上げて、でも、どうしても正視できずに、慌ててドアを押した。
三上は、その背中を見詰めていた。
笑顔は、中途半端に消えていた。
「……藤代は、今、イタリアに行っている」
「…ふーん」
「辰巳は、九州だ」
「それは聞いてる」
他愛もない会話を続ける。
聞きたい事が、言い出せない。
「……お前は………」
とたんに、三上は真っ直ぐに、自分の顔を見詰めた。
「……………」
その先が、固まってしまって、出てこなくなった。
「渋沢」
ふと、落ちた沈黙に、にやにや笑いのまま、三上が聞く。
「女でも出来たのか?」
「………なんで?」
「だって、お前、俺の目、一度も見ないじゃん」
「……………」
「顔を見て、話をしない……なんて、前は考えられなかった、もんな」
見られ、ない。のだ。
・・・・・怖くて。
あの頃彼の目に映っていた自分が、見つけられないのが怖い。
「…………なんで、あの時、いなくなった?」
聞けなかった、一言を。
「俺の質問は?」
「俺のほうが先」
「聞いたの俺が先だろう」
「でも」
少し、肩をすくめて、三上はゆっくりと空になった二つのグラスに酒を満たす。
「する事があったから」
「する事?」
「サッカーだけで生きてくつもりがなかったから。俺は俺のやりたい事があったから、それをやるために」
「なんでその時、言ってくれなかった?」
「俺の事だし、お前にいちいち許可を取る必要はなかったから」
しばらく沈黙が、落ちる。
「……なんで……黙って消えた?」
少し、首をかしげて。
「まだ俺の質問の番にならないわけ?」
「なんでだ?」
「・・・・・・俺には俺の、事情があったから」
「俺と一緒のままじゃ、駄目だったのか?」
「そ。駄目。だった」
「…………」
また、沈黙。
「もう、いいのか」
「……………」
「俺の質問は?」
「……………」
「安心しろよ。別に、逃げた男に今更付きまとったりしねーからさ。幸せなのかなーって、聞きたかっただけだし」
くくっと笑いながら、グラスを傾ける。
「……って、逃げた男って、この場合俺だった事になるのかな」
「……俺は……」 「うん」 「……いないよ」 ふふん、と、小さく鼻で笑った気配がした。
「シケてんな」 「ああ」 三上は、もう一度、空きかけている渋沢のグラスに、注ぎ足した。
「……お前は?」 「なにが?」 「今」 三上は即答せず、じっと渋沢を見詰めた。
やはり、顔を見られずに、さりげなく視線を下に向ける。 「………今は、完全フリー」
そっと視線を上げると、かすかに微笑む口元だけが見えた。
あんな笑い方をするやつだったかな。 思い出せない。
どうだっただろう。 笑顔を思い出せない。 怒った顔、拗ねた顔、困った顔、泣く直前の顔。
全部知っていた。 憶えているのは、なぜか、泣きそうな顔ばかりだ。
どうしてだろう。泣いた顔なんて、見たことはなかったはずだ。
いや、何度かは見たかもしれない。
でも、6年間、ずっとそばにいて、本気で涙を流すのを見た時なんて、本当に数えるくらい、だったはずだ。
なのに、どうして泣きそうな顔ばかりを思い出していたんだろう。
ふわりと微笑みを浮かべる口元。
今は、どんな顔をしている?
「………やっと、顔見たな」
ずっと前から、知っていた目が、柔らかく微笑んで自分を見詰めていた。
「なんで今日は、来てくれた?」
「また質問タイムか?」
笑顔を崩さず、あきれたように肩を揺らす。
「聞かずにはいられないんだ」
「相変わらずなんだな」
「なんで、急に来たんだ」
「………会いたかった、から」
冗談めかしたように、片ひじをついて、首をかしげて目を細める。
「なんで今、なんだ」
「やる事はやったから」
「……なんで……」
「ホントに聞くことが一杯あるんだな」
たまりかねて、肩を揺らして、クックッと声を立てる。
「なんで、会いに来てくれたり、するんだ」
しばらく、肩を揺らしつづけていた三上が、ゆっくりと、それを収める。
「……人に聞いてばっかいないで、なんか一つくらい、自分で考えてみれば?」
細い足のグラスを、灯りに透かすように覗き込んで、それからゆっくりと傾ける。
「………三上………」
「………なに?」
「………それはまだ、お前に触れてもいいということなんだろうか?」
ことり。
小さく音を立てて、グラスがテーブルに置かれた。
「………つまり?」
三上が、真っ直ぐに瞳を見詰めている。
「……………お前を、抱いてもいいんだろうか?」
いつのまにか、微笑みが消えていた。
「お前を、抱きたい」
真っ直ぐに、心の底まで見通すような黒い瞳が。
不意に、優しく細められる。
「お前はいつでもわかりやすいな」
そして、そのまま立ちあがる。
「三上」
「お前、宿舎どこ?」
「え?」
「広い方が、いいんだけどな」
そして、勘定書のシートをついと渋沢に押しやる。
「当然おごりなんだろ?ごちそうさま」
にやりと笑ってみせて、腕に持ったスーツの上着も押し付ける。
なんとなく受け取って、それから気が付いて着せ掛けてやるために広げる。
「俺のホテルの方が、いいかもな」
悪びれもせず、当然のように着せてもらって、そして渋沢を振り返りもせずにさっさと店を出ていってしまった。
少しため息をついて、それから慌ててレジに向かう。
三上の取っているホテルに着いて。
ドアを閉めるなり、背中から抱きしめた。
「まだ玄関だぞ?」
「かまわない」
顔だけこちらに向けて、あきれたように不満を口にしようとするところを顎を捕らえて口付ける。
不自然な体勢に、一瞬抗う様子を見せるが、すぐに目を閉じる。
どさりと、三上の手からバッグが落ちた。
深く舌をからめあい、口の中を隅々まで探り合う。
三上の肩から力が抜ける。
そっと、開放してやると、閉じていた目を薄く開いて、ふ、と濡れた息を漏らした。
力の抜け掛けた身体を、こちらに向けさせて、もう一度、唇を奪う。
無意識のように、三上の手がしばらくさまようと、渋沢の頬をなで、髪に手を差し入れて頭を抱え込んだ。
足元がふらつく。
腰を支える渋沢の手に、軽く、負担が増える。
丹念に、歯列をなぞり、舌を貪る。
痛いくらいに。 足りない。
すべてを奪い尽くさないと、何もかもが足りない。
三上を。 もっと。 きつく、きつく抱きしめる腕に力を込める。
「……は……!」
たまりかねて、大きく息を付いた三上が、顔を背けた。
「渋沢……加減しろ」
少し責めるようににらむ目が、潤んでいる。
「……会いたかったんだ……」
肩口に顔をうずめて、つぶやいた。
「もう一度、こうやって、抱きしめたかった……」
三上は少し困ったように、渋沢の髪に頬をすりよせ、小さくささやいた。
「……俺も……会いたかった……」
渋沢は、泣いているのかな。
この大きな男が、泣いているとも思えないけどな。
「……渋沢……シャワーは、無し?すぐだったら、せめてベッドに行きたいんだけどな」
「……シャワーは、悪いけど、後にしてくれ」
そういうと、渋沢は三上を横抱きに抱えあげた。
「このくらい歩くのに。至れり尽くせりなんだな」
おかしそうに言うのも無視して、ベッドまで連れて行く。
「痩せたな。高校の頃より軽くないか?お前」
「そんなに変わってねーよ。筋肉は落ちたと思うけど。お前がごつくなったんだろう」
スプリングをきしませて、三上をおろし、すぐさま肩を押し倒す。
「靴」
「穿いとけ」
「………バカじゃねーの?お前」
のしかかられたまま、足を振って、靴を落とした。
妙におかしくなって、くすくす笑いが止まらない。
「がっついてんじゃねーよ」
「お前のせいだ」
「なんでも人の所為にするな」
「お前しか……」
もどかしげに、ボタンを外して、胸元を開く。
「欲しくないんだ」
その手に。
三上はそっと触れ、それから渋沢の頬に触れ。渋沢の、額に、まぶたに、頬に、顎に、唇を押し付けた。
「……俺も」
そして、唇に。
そして。
あとは、言葉にならなくなった。
「……は……!……」
のけぞった白いのどから、声にならないため息が零れる。
すっかり陽にさらされることのなくなったらしい肌が、汗ばんで、滑る。
唇をたどらせて、所々で味わうように、赫い印を残した。
確かに知っているはずの身体なのに、初めて抱くような気がする。
憶えているはずのポイントに、唇を当てると、はたして切なげなため息が零れる。
何度も、何度も、執拗にそこをたどると、かすれたような、悲鳴のような声を漏らした。
けれど、知らない。 なぜ。
しなやかな手足も、すっきりした首筋も、跳ねる身体も、知っているのに知らない身体のようだった。
もう一度、そのすべてを自分の所有物にしなくては、気が済まない。
「……あ。…ああ……。あ………っ……し……ぶ…さ………」
渋沢の髪に差し込まれた、三上の指に力が入る。
「……だめ……もう……ああ……っ……」
「……まだ…三上……足りない…」
「……やっ……あっ……あ…っ…ああっ……ねえっ……渋沢っ……」
「…まだっ…待ってくれ……三上…三上っ……」
苦しげに、きつく目を閉じて、激しく首を振って、訴える三上を、なおも許さず、追い上げる。
シーツに散った髪が、さらさらと音を立てる。
たまらず、ぎりっと立てた指が、爪が、渋沢の肩といわず、背中といわず、紅い筋を残し、たちまちうっすらと血がにじむ。
零れ落ちる声を、もうとどめることも出来ない。
バカみたいにお互いの名前を繰り返す。
追い上げて、昇りつめて、抱きしめあって、意識が溶けた。
何度も、何度も、抱きしめあった。
達するたびに、でもまだ足りなくて、もう一度、名前を呼んだ。
もっと、もっと、もっと。
すべてを、取り込んでしまいたい。
すべてを。
食らい尽くすほどに。
「……っ……三上っ……」
跡が付くほどに、つかんだ二の腕が。
しばらく宙をさまよってから、渋沢の手をつかむ。
「………渋っ……さわぁっ………」
もうまともな思考力も無いのだろう。
渋沢にゆすぶられるままに、がくがくと身体を揺らしながら、ひたすらに名前を呼びつづける。
その身体を抱き寄せながら、何度目かの激情を三上の中に放った。
「………やっぱ、お前ってただ者じゃ、ねえな……」
すっかり別人の如くにかすれてしまった声で、三上がつぶやいた。
「…どうした?」
「……立てない」
「だ、大丈夫か?」
「大丈夫じゃないって言ってんだ」
力無く、ちょっと斜めになったままベッドの上に座りこんで、三上は不機嫌そうに顔をしかめた。
眩しいのか、カーテンに手を伸ばしてみるが、動けないのでぜんぜん手が届かない。
ので、かわりに窓により、カーテンを閉めてやった。
「どうしてくれるんだ。チェックアウトは10時半までなんだぞ」
「まだ時間は充分あるじゃないか」
「……ホントにお前は相変わらずだよな。自分さえ大丈夫だったらいいんだから」
ふん、と不機嫌そうな顔のまま、横を向いてしまう。
その横顔を見ながら、なんとも嬉しくて、心が温かくなった。
知っている、顔だ。
その顔は、よく知っている。
不機嫌そうに、見えるけど、本当は甘えている時の、顔のはず。
側によって、くしゃりと髪をかきあげてやる。
「なんだよ」
「一緒に風呂はいるか?」
「そんな時間が、お前はあるのか?」
「少しなら」
「バッカじゃねーの?」
フン、と鼻を鳴らす。
「そういうのに余裕が無いのは、イヤなんだって、いつも言ってた渋沢克朗はどこに行った?遅刻だのぎりぎりだのチームに迷惑が……」
「お前とまた離れると思うと、もうなにもかもどうでもいいよ」
「………ばっ……」
一瞬、素の顔になる。
あまりの言い草に毒気を抜かれたらしい。
「三上。ホントに、なにもかも、どうでもいいんだ……」
三上の横に腰を下ろして、その顔をのぞき込み、顔を近づけた。
三上は、しばらく眉を寄せて考え込んでいたが、渋沢のキスを黙って受け入れた。
唇が離れてから、少しため息をついた。
「……口ではそんな風にも、言うんだよな」
………そうかもしれない。
実際にどうでもよくほったらかすことなんて、出来やしない。
「ま、いいけど」
そう言って、肩をすくめて三上は片手を差し出した。
「鍵」
「………?」
意味が分からず、その手を握り返す。
「バカ。なに握ってんだよ。鍵出せよ。鍵」
「なんの?」
「お前の部屋の。あと住所な」
宿舎のホテルの鍵だろうか?しかし、そこも今日には引き上げるが。
「ああ、もう。鈍い奴だな。今お前が住んでる部屋の鍵と住所だよ。俺、どこか知らないんだぞ」
「寄ってくれるのか?」
とたんに嬉しそうに、上着のポケットを探る渋沢。
「言ったろ?今は完全フリーなんだ」
鍵を受け取ると、にっこりと笑って、それを手の中でためつすがめつする。
「住むとこも。しばらくよろしくな」
渋沢を見上げてにやりと笑う。
「先に帰ってるよ」
=Fin=
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