たいせつなことをいつも後回しにしてしまうんだ。
高校最後の夏休み。
高校最後の誕生日。
連日の猛暑の中で続く厳しい練習。
夏休みも盆休みもなかった。もちろん誕生日なんて過ぎゆく日々の中に紛れていった。
思い出せることといえば、更衣室で「お前も今日から嫁がもらえるなァ」とチームメイトからからかわれたことや、食堂で「これプレゼント」
と三上から彼の嫌いなオカズを押しつけられたことくらいだ。
九月が過ぎ、十月になって、十月が過ぎ、十一月になって。
「お前の誕生日祝いしよっか」
三上がそう呟くように言ったのは寒風吹きすさぶ十一月も末のことだった。
またなんで今頃になって、と渋沢は訝ったが、それでも三上から誘ってくれることなど滅多になかったから彼の申し出は素直に嬉しかった。
観たい映画があると言う。
三上が差し出したチケットは二枚。
自分の分と渋沢の分。それがプレゼントということだった。
□□□
放送で呼び出された職員室に、担当の教師はいなかった。
「ごめんねえ、渋沢君。さっき急な来客とかで出ていっちゃったみたいなのよ。もう少し待っててあげて?」
隣席の女教師がすまなそうに渋沢に言って、渋沢は「はぁ」と曖昧に笑う。
このあと部の責任者は必ず出席しなければならない会議があって、そのための資料を作成したかったのだが。
遠慮がちにその旨を伝えると、職員室内に併設された簡易会議室を使わせてもらえることになった。
「すぐ来ると思うから。ね?」
宥めるようにそう言う女教師に渋沢は会釈して微笑んだ。
別に彼女に非はないのだからそこまで気を遣わなくても、と渋沢は思う。
ただ、そういう周囲に気を配れる人間は好きだった。
態度は180度正反対だが、三上にもそういうところがある。
誰か一人に非難が集まりそうになると、それ以上の憎まれ口を叩いて非難を分散させるのだ。三上のやり方は挑発的であまり褒められたものではないけど、
それでも三上のおかげで一人対大勢という納めにくい場面が回避されたことは何度もあった。
――今回だって。
会議用の資料を鞄から出して机に置いたあと、渋沢はこっそり制服の胸の内ポケットにしのばせてあったチケットを取り出し眺める。
『忘れてたわけじゃないんだぜ?』
そんな三上の言外の台詞も聞こえてきそうだ。
映画はさりげなく渋沢の趣味も考慮しての選択で、気ままななように見えて、やっぱり渋沢のことを優先してくれる三上に自然笑みがこぼれる。
先週からこっち、普段にもまして忙しく、会議や打ち合わせ、取材、その他諸々がギッチリ詰まっていたが、それもあと一日で終わる。
明日の午後には三上と待ち合わせだ。
そう、待ち合わせだった。
高校選手権を控えた時期だったし、大っぴらに二人で遊びに出るのはどうかと思ったのだ。
一人ずつ寮を出ればそれほど目立たないし、それに――
「それもそうだな」
待ち合わせを提案した渋沢に三上が頷く。
三上の態度は自然だった。
そんな三上に、ヘンに自分が意識しすぎなのかもしれない、と渋沢は内心で赤面しそうになる。
自分と三上が二人で出かけるのを見て、皆が皆、自分たちの関係を怪しむことなどないのに。
寮の同室。
それがかえって渋沢と三上に妙な後ろめたさをもたせた。
互いの気持ちを確かめ、触れ合うようになってから、その感覚は消えることなくずっと続いていた。
生活する環境が環境なだけに同室で仲がよいというだけで疑われる。 「お前ら、できてんじゃねーの?」
もちろん、お決まりの冗談なのだが、本当に「そういう関係」にある二人にとっては、その手のからかいは寿命の縮むものだった。
三上のことが好きだ。
でもその想いは三上と自分自身が知っていればそれでいい。
ならば無用の詮索は避けたいというもの。
だから渋沢は細心の注意を払う。
「すまん渋沢!遅くなった!」
急にドアが開いて、渋沢はらしくもなく狼狽しそうになる。
慌ててチケットを元のように仕舞い、自分を呼び出した教師ににこりと笑いかけた。
「かまいませんよ」
「実はちょっと頼みたいことがあってな……」
□□□
あのあと結局、遅れてきた教師に用事を頼まれた。
とりあえず頑張ればなんとかなる程度のものだったので安易に引き受け、また仕事を増やしてしまう。
悪いクセだ。
でも頼りにされると断れないのが渋沢だった。
『お人よし過ぎんだよ、お前は』
三上にはそう何度も呆れられたけれど。
『そういう性分なんだよ』
いつだってそれに渋沢は苦笑で返す。
『そうやって、また自分の時間取れねえだろうが』
『いいんだ。それが俺だから』
過去数年間ずっと同室だった三上とそんな会話を何度交わしたことか。
自室に戻るなりドサリと荷物を置きベッドに腰を下ろした渋沢に、三上が椅子の上から視線を投げて寄越した。
「忙しいみてーだな」
「ああ、さすがにちょっと疲れた……」
額に手をやって頭を支える仕種をすると、三上がわざわざ席を立って渋沢の前に立つ。
「……無理すんなよ?」
「ああ」
三上の指先が伸びてきて、渋沢の髪を撫でてゆく。
その心地よさに渋沢はうっとり目を閉じた。
呆れたフリを装っているけれど――柔らかく触れてくる三上の掌から渋沢のことを本気で心配してくれているのが伝わってくる。
だが頭上から降ってきた次の言葉はありがたくなかった。
「もしアレだったら、明日の……今度にするか?」
「三上?」
「別にチケットは期間中いつでも使えるわけだし。お前が都合いい時に……」
「大丈夫だ!」
三上の言葉を途中で遮って渋沢は言い張った。顔を振り上げた渋沢にたじろいだように三上が一歩退く。
「いや、お前疲れてるじゃん……」
「俺なら大丈夫だ!明日は三上とデートできるよ!」
「………………デート、ね」
三上が複雑な表情を浮かべる。いつもクールな彼にしては珍しく耳と頬がほんのり朱に染まっている。
そんな三上を見て、思わず自分が口走ってしまった台詞に、数秒遅れて渋沢も赤面する。
「と、とにかく明日に備えて俺はもう寝るよ」
言ってしまったあとで、渋沢はまた動揺する。
『明日に備えて』だなんてヘンな意味に取られなかっただろうか。
けれど三上はそこまでは思わなかったようだ。
渋沢をベッドに追いやるように手をヒラヒラと振って。
「そーしな、そーしな。寝坊して遅刻されたらかなわねえからな」
明日は三上の方が先に寮を出る。
そして一時間遅れて、まるで三上とは関係がない顔をして渋沢が出かけるのだ。
三上を待たせるなんて、と渋沢が自分が先に寮を出ると言ったのだが、別に買い物もあるからと言う三上に結局こうなった。
それに街中で時間を潰す方法は確かに三上の方が心得ている。
三上が祝ってくれるという誕生日。
本来の日付である真夏の最中も悪くないが、こうして本格的な冬を間近に控えた今の時期にこっそり祝われるのもいい。
いや本当は口実なんて何でもよくて、三上が渋沢のために一日を付き合ってくれるのがうれしいのだ。
忙しかった日々から解放されて、渋沢は幾日ぶりかに幸せな気分で眠りについた。
□□□
三上に見抜かれていたとおり、よほど疲れがたまっていたらしい。
起きたときには目覚ましが止まっていた。
いつも目覚ましが鳴るより早く起きる渋沢にとって、意識せぬうちに時計を止めたのは初めてだった。
三上が部屋を出て行ったのにも気づかなかった。
おかげで三上がどんな格好をしていったのかがわからない。
気に入りのコートはなくなっていたから、それを着込んで出かけたのはわかるが、あとは見当がつかない。
だいたい三上は私服が多すぎるのだ。
自分の倍以上は持ってるんじゃないか、と渋沢は思う。
藤代に言わせると「あのくらいトーゼンですよ」ということになるのだが。
シーンごとでファッションを変えるのは「当然の礼儀デス」とも言われた。
ならば今日は。
やはり、目的に相応しく少しはオシャレというものをしてみるべきなのか。
あからさまに普段着で出かけたらそれは三上に失礼というものだろうか。
だが、ヘンにめかしこんでいって、逆に三上がいつもと変わらない格好だったら。
死ぬほど笑われるか、妙に引かれてしまうか、そのどっちかだ。
数少ない手持ちの服を前に渋沢は迷う。
迷った末、中で一番上等で普段はあまり着ない服を選んだ。
やはりトクベツな日なのだ。
三上と二人だけで会う、
特別な日。
□□□
用意も終わり、少し時間が余ったので、渋沢は持ち帰っていた仕事を出掛けにひとつふたつ片付けておくことにした。
だが、それがいけなかった。
ついついキリのいいところまでとやりすぎて、結局ギリギリの時間に出るハメになったのだ。
慌てて階段を降り、寮の玄関を出たところで、渋沢は呼び止められた。
間が悪いな、と思いながら振り向くと何やら慌てたようすの寮母が渋沢を追ってくる。
「どうしたんですか?」
「水道管が壊れちゃったのよ」
「はぁ……」
「昨日冷え込みが厳しかったでしょう?いつもなら細く水を出しておくんだけど、誰かが蛇口を閉めちゃったらしくて……」
「ああ、それで凍結して」
「………」
「………」
どうして断らなかったんだろう。
渋沢は電車の中で激しく後悔する。
困っている、という言葉と表情に渋沢は弱かった。
自分でも嫌になるくらい弱かった。
腕時計の針はとうに三上との待ち合わせ時間を過ぎている。
断らなければならなかったのに。
三上はどうせ遅れてくるだろう、という気持ちが渋沢をそうさせなかった。
買い物に夢中になって時間どおり来ないかもしれない。それに三十分くらいなら遅れていってもかまわないだろう。
そんな三上への見縊りと甘えがこの現状を生んだ。
留守番を頼まれて、すぐに戻ると言った寮母はなかなか帰ってこなくて、それでも頼まれたことを途中で放り出す勇気はなくて。
ずるずると葛藤を続けている間にこんな時間になってしまった。
それでも戻ってきて謝る寮母に「いいんですよ」と笑顔で返して。
そんな自分が嫌になる。
待ち合わせの場所も悪かった。
周りには公衆電話のひとつもない。携帯電話を持ち歩く人が増えて、街から電話ボックスはその姿を消したのだ。
でも渋沢も三上も携帯電話を持っていなかった。
寒さをしのげる場所もない。
でもきっと三上は待っている。渋沢には確信があった。
『三上先輩って実はガマン強いですよね』
いつだったか、食堂で並んで食事する渋沢と三上に向かってそんなことを言った後輩がいる。
『キャプテンが食べ終わるの、ぜったい待ってますもんね』
『……んなことねえよ』
三上は不機嫌そうに返したけれど、後輩――笠井はにこにこ笑っていた。
彼には見抜かれていた。
次の日から三上が渋沢が食べ終えるのを待つというようなことはなくなった。
三上が渋沢と同じタイミングで食事を終えるようになっていたからだ。渋沢が食べるスピードを変えたわけじゃないのに。
忙しい日々が続いていた。
三上とロクに喋れない日もたくさんあった。
それでも彼は必ず起きて渋沢の帰りを待っていた。
待っている、という事実にすら気づかせないよう、さりげなく――
目的の駅に着いた電車を飛び降りるようにして、渋沢は待ち合わせの場所まで走り出した。
□□□
三上はやはりいた。
遠目にもわかるその姿。
心持ち空を見上げるようにして、ぽつんと彼はそこに佇んでいた。
「……み、かみ……」
息を切らすことなんて滅多にないのに、渋沢は思うように言葉を紡げないことに苛立った。
突然ゼエゼエと荒い呼吸を繰り返しながら目の前に現れた渋沢に、少し驚いたように三上は目を見開いた。
「み、かみ、おくれて、すまな……」
無理に喋ろうとする渋沢の背を宥めるようにさすってくれながら、三上は黙っている。
やっぱり怒っているんだろうなと、ようやく整い始めた呼吸に、渋沢は顔を上げる。
どんな言葉も甘んじて受けるつもりだった。
だが。
いつもなら。
『おっせーんだよオマエは!俺をこの寒空にいつまで待たせる気だったんだよコラ』
容赦ない悪態に蹴りの一つも入れられて、
『許してくれ、すまない』と苦笑いしつつ、三上の好物を奢ると条件提示などしてみせて、謝ることもできるのに。
渋沢を前にした三上は。
「も、こねーかと思ったよ」
そう言って。
寂しげな儚い笑みをその唇に浮かべるから。
「……ッ」
渋沢はたまらなくなって、突っ立ったままの三上をその胸に抱き込んだ。
「……ごめん、ごめん三上……ッ」
往来で抱き締められて、三上が苦笑する。
「わかってるって。オマエ、必死に走ってきたんだろ?謝るなよ」
「違うんだ三上……ッ」
腕の中の三上の身体はすっかり冷え切っていて、渋沢を泣きたい気持ちにさせる。
『たいせつなことをいつも後回しにしてしまうんだ』
自分の性格がそうだと決めつけて。
だから仕方ないと。
言い訳にして。
後回しにされる三上の気持ちゼンブを無視して。
「……渋沢?」
腕の中から不思議そうに渋沢を見上げてくる三上。
そのやさしい瞳に渋沢はもう一度ぎゅっと三上を抱き締め、その肩に顔を埋めた。
三上にあんな顔、二度とさせたくない。
そう思った。
「これからは――待ち合わせなんかしない。寮からお前といっしょに出かける」
別に誰に見咎められようといいじゃないか。
何を隠そうとしていたんだろう。何をやましく思っていたんだろう。
三上が好きだ。
好きだからいっしょにいる。
何も悪いことなんてしてない。
「ま、今回は仕方ねえよ。お互い、慣れないことしたんだからな」
気遣うような三上の台詞。
自分も悪かった、という苦笑が見て取れて渋沢は三上を抱く腕に力を込める。
違うんだ、お前のせいじゃない。
「待ち合わせもそう悪いモンじゃねえって思えたし」
照れ隠しのような三上の言葉がうれしかった。
そして――一度も渋沢をなじろうとしない三上が、かえって胸に痛かった。
「なら……今度待ち合わせした時は」
渋沢は静かに言葉を紡ぐ。
「街で誰かに呼びとめられても、道で誰かが倒れてようとも、まっすぐにお前のもとへゆく」
「なッ……。――大袈裟だな。どーしたよ?」
一瞬言葉に詰まった三上が、すぐに渋沢のようすに気がついて窺うように訊いてくる。
その瞳を真正面から捉え、渋沢は言った。
「お前が大事なんだ」
三上。
「お前がいちばん、たいせつなんだ」
=Fin=
|