「今はただ 恨みもあらじ 諸人の 命に代わる わが身とおもへば」
今から426年前の1月18日 諸人の命と引き換えに自刃した
三木城々主 別所長治候23才辞世の句
戦前の国定教科書に取り上げられ 知る人多数
辞世の句には有名なのが多い中 特にこの句には惹かれます
「もろともに消え果つるこそ嬉しけれ おくれ先立つならいなる世を」
夫人 お照22才辞世の句 5才を頭に4人の子達と自害
凡夫の私など ただただ涙あるのみ おくれ先立つならいなる世は
できるなら辞退したい所存
三木は積雪も少なく 都にも近く 肥沃な土地を持ち
鎌倉中期より明治維新まで 何度も取り消しの危機を迎えながらも
年貢(税金)赦免と それに伴う町民の自治権を維持して
経済的にも大変優れた土地柄
「元亀元年(1570)三木城主となった別所長治は当初、織田勢と友好関係にあった。しかし、天正6年(1578)比叡山焼き討ちや一向宗徒への弾圧などの信長の残虐な行為や、播磨で主のごとく振る舞う成り上がり者秀吉の存在に別所長治は反旗を翻し、中国の雄毛利方と手を結んだ。」
当時西国では 織田・毛利 勢力争いの真っ最中
石山本願寺の大坂をはじめ 篠山・岡山・鳥取なども毛利方
秀吉副官 伊丹の荒木村重も毛利方に寝返りそうな情報
私達は結果を知っておりますので 間違いはありませんが 渦中の人々が
毛利なら勝てると判断するのも 無理からぬ所
「秀吉は周辺の城を次々と攻め落として三木城を包囲し、籠城戦となった。毛利の援軍を頼りとして三木城は良く耐えたが、やがて食糧は底をつき干殺しの惨状を呈し、天正8年(1580)ついに一族の命と引き換えに城兵と領民の助命を嘆願して開城。別所長治は妻子、一族とともに自刃、時に長治23歳であった」
結果は別として 毛利方としては別所長治候は有難い存在
織田西国軍主力を2年間も釘付けにし 伊丹の荒木を謀反に走らせ
大坂石山本願寺が持ちこたえたのも 別所長治候のお陰
不思議なのは これだけ長引いて苦心したにもかかわらず
秀吉さんは約束を守り 領民を庇護し現在の三木市経済的基盤をも
築き 今でも市民の人気抜群 詳しくは三木市ホームページへ
http://www.city.miki.lg.jp/bunka/hideyoshi01.html
三木合戦を日米決戦に比べている所に 注目いただきたい
「 」内はWEB資料をコピーしました。
歴史を紐解いて不思議な事の一つに 言葉があります
人々はどの様な言葉で喋っていたんでしょうか
近年 津軽弁の高齢者と話す機会がありましたが
残念ながら関西の青年には 殆ど理解できませんでした
マスコミが発達した現代においても この程度ですから400年昔に
三河弁と播州弁それぞれに強力な個性 特徴を持つ言葉が
意思を十分相手に伝え 機能したのでしょうかねー
私の勝手な想像ですが 通訳などもいたのではないかと
大胆な仮説をいだいております
葉が茂り 真夏になれば一度訪れてみたい城跡です
どうも城跡には 真夏が似合うと思うのは いにしえ人も
現代人も同じなのでしょうかねー
松尾電右ェ門
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