街の灯
City Lights貧しいチャーリーが街頭で花売り娘に声をかけられる。チャーリーは戸惑いとまぶしいものに魅せられるかの様にして、彼女と話をする。どの花がいいかという所でのやりとりで、花がチャーリーの腕に触れて落ちてしまう。その時、チャーリーは花をすぐ拾うが、娘は分からず手探りで地面を探す、そして「
Did you pick it up、sir ?」と言う。そのあとすぐにチヤーリーは彼女が盲目の美しい娘であることに気がつく。そして花は娘によって、チャーリーの胸につけられ、チャーリーは金を払う。たまたまチヤーリーの後ろに止まっていた車に紳士が乗り込み車が発車する。その音に娘は勘違いして「Wait for your change,sir.」と言う。中々の名場面である。この映画は
1931年に アメリカで公開されたチャプリンの「街の灯」の最初の方の場面である。年号に注意していただきたい。1929年という年は ニューヨークの株式暴落に発端した世界恐慌の始まった年である。主人公が放浪者チヤーリーというのもこの時代背景を考えればうなづける。貧しい盲目の美しい花売り娘との出会いは 確かにロマンチックではあるが、当時の背景を考えれば自然であるともいえる。小説にも昔はこういう雰囲気のがいくつもあった。例えばドストエフスキーの「貧しき人々」とか、あるいはこれはちょっと深いが、「罪と罰」の中での、罪を犯した大学生ラスコーニコフと貧窮のどん底にある純粋な魂を持つソーニャの出会いとか。
それはともかく、今のアメリカの様に豊かで強力な国で、今から七十年前には失業者があふれ、家もなく
その日の食事にも困る人が大勢出たとは ちょつと想像しにくいが事実である。その貧しいチヤーリーがアルコール中毒の大金持が自殺しようとする所をとめたところから、二人は無二の親友になった筈だが、それはこのアルコール中毒の男が酒で酔っている間のことだけで、アルコールが切れて酔いが覚めてしまうと貧しいチヤーリーのことなど全て忘れてしまう。
ギャグが出てきて、私達を爆笑に誘い楽しませてくれるが、私が物語りの全編に流れる何かに感動するとすれば、このチヤーリーの貧しさと、大金持の富の使われ方である。
ここには歴然としたチャプリンの人生哲学があるような気がする。貧しさがいいわけではない。チヤーリーの貧しさに負けない生命力、愛が素晴らしいのだ。私は私のホームページの「哲学と真の宗教」の欄にも書いたが、真の宗教の価値観は貧しさにあるのだが、意外にこのことは知られていない様な気がする。金持ちの良寛とか、金持ちのキリストとかいうのはやはり変な感じがする。法然・親鸞が時の権力に追放され、日蓮・道元は権力に反発した。そして、これらの巨人はみな貧しかったのである。
しかし、富は多くの人を助けることが出来る。チヤーリーも盲目の花売り娘が危機に陥った時に、大金持の親友からもらった金で、彼女の借金を帳消しにして、そして彼女の目を開眼する手術代を払ってあげた。
現在のアメリカでも、一介の書生から大金持ちになった人が、母校や施設に莫大な寄付をすることが時たま新聞などに出る。
あれはアメリカにおけるキリスト教精神なのだ。彼がキリストを信じているかどうかは別として、新約聖書のキリストの言葉を見れば
いかに富とキリストのいわれる真理は両立しないかが書かれている。例えばキリストの有名な文句を引用してみよう。
「野の百合の花がいかにして育つかを思え。〜〜しかし あなたがたに言うが 栄華をきわめた時のソロモン王でさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかつた」
あるいは「金持ちが神の国を見るのは らくだ{駱駝という動物}が針の孔に入るよりも難しい」など。
あの膨大な金額の寄付などの報道に接すると、このキリスト教の伝統が今もアメリカに生きていると痛切に思う。現在 行なわれているアメリカの大統領選挙でもいかにして貧しい人を救うかということが大きな論点になっている。{ ただ、今のアメリカはキリスト教の中のある特定の解釈に基づいたものと強力な資本主義が結びついて、豊かな繁栄を享受しているように思われる}
そして、なによりもチヤーリーの人間愛が素晴らしい。確かに花売り娘に対する愛は
人間愛とか人類愛とかそうしたおおげさなことではなく、ただの男と女の恋であるかもしれない。あの物語りで、チャーリーが大金持であって、大金持のチヤーリーと女の恋であるならば、普通の男女の恋愛ですまして良いだろう。しかし、見ている人はおそらくつまらなく感じると思われる。
ところが貧しいチヤーリーは禅の言葉で言えば
無一物の人間で天衣無縫の人柄である。空と大地が彼の棲み家なのだ。
こういう貧しさはもう今の日本でもアメリカでもないだろう。何故なら我々は完全な文明という富の檻の中に入れられてしまったようなもので、そこでチャーリーみたいな生活があれば
それはもう貧しさではなく、悲惨そのものといえよう。文明が宗教の価値観としての貧しさを許容しなくなってしまったのだ。つまり、文明は貧しさを悲惨に切り替えてしまったといえよう。
あのアメリカの詩人ソローの「ワールデンの森」にある様な自然と共に生きる貧しさは 宗教的な内面性に富んでいて、素晴らしいと思われるが、今ではあの様な生活そのものが不可能になったといえまいか。例えばチャーリーでなくても、良寛でも良い。今、良寛のような人が出てきて、良寛のような生き方をしても、江戸時代の良寛のような素晴らしい詩文が生まれることはまずありえないだろうと私は推測する。
話を元に戻すと、貧しいチャーリーが貧しい盲目の花売り娘を夢中で助けようとする。もともと無理な話なのだ。だから、アルコール中毒の大金持が必要になるのだろう。
しかし、この無理なことの中から真の愛が芽生えることがあるとは古今東西の物語りが教えることではないか。ロミオとジュリエットも仲の悪い貴族の家柄の間での無理な恋。
それはともかく、数々の爆笑を生み出すチャプリンの珍妙な動作を見守る何とあたたかい目が後ろに控えていることか。こういうあたたかい目が今の日本に復活するようになれば、マスコミに登場する奇妙な事件の連続は少しは防げるのではないかと思ってしまう。楽観的すぎるだろうか。
音風祐介
karonv@hi-ho.ne.jp