童話のある町 音風祐介 作

  その特許事務所は百メートルの大通りの途中にある市役所から、アーケードのある商店街に入って、花屋と写真屋の間に挟まれた金色の看板をかけた赤いレンガ造りの古風な建物だった。ドアを開けると、鐘がちやりんと鳴って、奥の方の机で書類を読んでいる中年の男が青のサングラスをかけたまま、ぼくの方に視線を向けた。上の方に緑のインコが二匹入った鳥籠がある。その男はぼくに変な印象を与えた。真紅のシャツを着ることは別にかまわないが大きなダイヤのネックレスをしている。窓から入る太陽の光がダイヤに反射して輝いているのをぼくは見て、金回りのいいことを自慢しているのだろうかと思った。それに金色の蝶ネクタイをしている。ぼくは人の外見には寛大な方だったが、彼はぼくの簡単な説明を聞いて、太陽電池ですかとにやにや笑ったのにはさすがに嫌な気持ちがした。

「あのう、特許をとりたいのですけど」とぼくはおそるおそるそう言ってから、試作品を茶色のカバンから取り出した。そして大理石の白いテーブルの上に置いた。郊外に大理石の産地があるにしても、高価である大理石を使うのはやはり豪華というか贅沢というかそんな感じだった。男はひどく背がひよろ長く、サングラスで目の動きが見えないのでどんな性格の人なのか分からない。しかし、この外見の派手さと内部を隠す演出そのものがこの男の性格を物語っているのかもしれないと思った。

「大変効率の良い太陽電池です」とぼくはどぎまぎしながら言った。その男はぼくの大切な試作品をいとも無造作にあちこちいじくり回していた。そして口元を下卑た笑いでゆがませて言った。

「太陽電池なんかあふれるほど出来ていますからね。特許がとれるかどうかなんとも疑わしいですな。それでも申請しますか」

「そんな馬鹿な。太陽エネルギーの三十七%を電気に変換して使用出来るのです。それに面積が小さいのに多くの光を吸収します」

 ぼくは自宅の狭いアパートに理科の本を山と積みそして薬品やら器材やらを部屋の中にところせましと置きながら、夜遅くまで発明にとりつかれたことを思い出した。

 その男はじろじろとぼくを見回した。それから試作品につけたぼくの簡単な説明書に目を通した。

 ぼくは特許庁にこの発明を申請すればこの男の収入になる筈なのに、いかにも面倒くさそうに言うのはやはり大きなダイヤのネックレスをしている様な金持ちだからこのなんともいえない嫌らしい余裕が生まれるのかなと思った。それから、男は皮肉たっぷりに言った。

「あなたは町の発明家のようですな。いつか、ダニを退治する電気製品を発明したとか宣伝していた方ですな。あれはまるで 効力がなかったとか。それどころか、かえってダニが増えたとか聞いておりますよ」 

 確かにそういう発明家のことはぼくも聞いている。しかし、それはまるでぼくに関係ないことだった。第一、ぼくは自分の発明で公にするのはこの太陽電池が始めてなのだ。ぼくはその様に説明しそれは誤解だと言った。

男はほんの少しの間、ぼくを見つめていた。それからおもむろに言った。 

「そんなよれよれの背広で来ると信用されませんよ。事業を起こそうとする人は やはり僕みたいにきりっとした服装をしないと」

ぼくは男がぼくの発明を疑っているのだと思った。確かに驚異的な変換率だ。                   「これさえあれば、家の電力はもうわざわざ外から持ってくる必要もありませんし、バスはガソリンが必要ありません」

  男は急に笑った。鳥かごのインコが驚いたのか、羽をばたばたさせた。ぼくは何故かその途端におおきなくしゃみをした。そして白い水が鼻からだらだら落ちてくるのであわてて、ポケットからしわくちゃのハンカチを取り出した。城と湖の刺繍の入った綺麗なハンカチだったが、今はひどくよれよれでそうした優雅さを失っている。

「そんなもみくちゃのハンカチではなくて、私の様に綺麗なハンカチを使って欲しいものですな。なにしろ発明家は紳士でなくてはいけませんよ」と男は言った。そして、笑ってから、なにげなく机の上に自分の名刺をおいた。                                 ぼくが黙って鼻水をハンカチで拭いて彼の名刺を見た。

名刺には名前の右横に大きく「ペンギン伯爵」と印刷されていた。ぼくの勤めている会社のあるカサ町ではこういう特許を専門とする法律家は弁理士とか弁護士が担当する。ペンギン伯爵などという資格は聞いたことがない。

ぼくはここのジェム町には数年前に引っ越してきたばかりで、このジェム町の人と付き合う機会が少なくて、そんな妙な名刺を持つ人が特許事務所にいるとはまるで知らなかった。ぼくはふと取引相手の会社にペンギン工業という会社があることを思いだし、そこの社長のはげた頭がいつも後光の様に輝いているのをありありと目に浮かべた。ぼくがこうして名刺に驚いていると、青のサングラスの男はにやりとして又言い続けた。

「お宅の家はほこりまみれと違いますか。それではさぞダニも喜ぶでしょうな」

ぼくは法律のアドバイスを聞きにきたのだ、余計なことを言ってくれるなと余程、言おうとしたが鷹揚にかまえていた。もっとも、この鷹揚さとゆったりした態度はぼくの美点だと思っているのだ。それでぼくはゆったりとした口調で言った。

「この太陽電池はこの町に素晴らしいエネルギーを補給し、町を浄化する発明品だと思うのですが」

「浄化ですって。貴方の場合はダニをまきちらすのと違いますか」

「ダニですって、誰ですか。そんな中傷するのは」とぼくはさすがにむっとして言った。 ぼくはこの美しいジェム町にこんなぞんざいな人がいることが意外だった。うかつだったのかもしれない。どこの町だって、どんな職業にだって、いい人もいるし嫌な人もいる。僕はカサ町の弁理士にムラオカという立派な人格者がいたことを思い出した。彼に頼めばよかったのだが、あいにく出張でしばらく留守だった。ぼくはムラオカと、目の前の男との奇妙さとのあまりの相違にしばらく呆然としていた。

「いえね、そういう情報がファックスで流れてきましたよ。この様な男が来るから気をつけろと」

「中傷ですよ」

「しかし、貴方はさっきから鼻水をたらしている。ダニを家で飼っておられるのでしょう」

「そんなもの飼ってませんよ。ほこりがあるくらいですよ」

「ほら、ごらんなさい。貴方はそのほこりの中にダニを飼っているんですよ」

「目に見えませんし、かってにダニの奴が住みついているだけです」

「私のビルを見てごらんなさい。ほこりなんかありませんよ」

ぼくはあらためて事務所を見回した。確かに綺麗だ。ごみ一つ落ちていない。そういえばこの町ではごみを見る機会が少ない。家の中には山ほどのごみがたまるのが自然の法則だとぼくは思っていたから、この町のごみ一つない綺麗さは研究に値するかもしれない。ぼくのごみはぼくのアパートの廊下に出しておくと、管理人がいつの間にか持っていってくれる。そのためか、ぼくはごみにもほこりにも無関心だった。

 ぼくはその男の言葉に腹が立ったので、事務所を出た。ぼくは自分で特許庁に行き、自分で手続きをとろうと考えながら、ジェム町の通りを散歩した。広い砂利道、ポプラの並木。花壇そうしたものに秋らしい陽射しがさんさんとふりそそいでいる。

 ぼくはこのジェム町が好きだった。この町はまず太陽が美しい。太陽なんてどこだって同じだろうというかもしれないがぼくにはそうは思えない。アラスカの太陽とサハラ砂漠の太陽がひどく違っている様にジェム町にふりそそぐ太陽はやわらかく絹の様で、それでいて、空に様々な色の模様の刺繍をしてくれる。ことに教会の細長い建物に沈む夕日と寺院の本堂の方から上がる朝日の見事さはこの世のものとは思えない。

 ぼくはその東の寺院から西の教会に伸びている百メートルの中央道路の砂利道をのんびり歩いた。乗用車はめったに通らないし、通るのはバスと自転車、それにのんびり歩く馬と人だけだ。中央道路とアーケードの商店街はちょうど十字架の様に市役所のところで交差していた。中央道路にはポプラの街路樹が続き、そしてその奥には森林公園がある。アーケードの方はありとあらゆる商店が小綺麗な店を並べ、広場が四方にあってその広場の近くには喫茶店やレストランがある。そして戸外には椅子があり、人々は陽光と鳩と花を楽しむのだ。

その日もぼくは特鮪末ア所を出た後、ある戸外の喫茶店に立ち寄って本物のブラジルコーヒーを飲んだ。そして数年前に行ったリオの海岸を思い出して、あのペンギン伯爵という青のサングラスをかけた男との不愉快な会話を忘れようと思った。コーヒーの味であの海の音や潮風や紺碧の空と海を思い出すと、とてもいい気持ちになれる。ぼくは周囲に歩いているジエム町の人々を見て、彼等について夢想にふけり、時々 特許事務所との会話を思い出してみた。人々はリオよりも綺麗なこのジエム町の美しさや自然の美しさには気がつかないらしく、衣服にこったり、ぜいたくな食事をしたり金儲けにこったりゴシップにこったり宝石を集めたり、金銀を身に飾ったり欲望を刺激して楽しんでいる様にぼくには思えた。なによりも、彼等は社会的なステイタスにこだわり、動物の名前のついた爵位を金の力で手に入れた。ぼくは町のあちこちに動物の名前のついた事務所のことを思いだし、青いサングラスの男のおかげで、それらが社会的な地位の高さを示していることを知った。ぼくはジェム町に来て以来のことを走馬燈のように思い出し、ここの住民のことが急に色々と分かつてきた様な気がしたのだ。ジェム町の住民はどうも外見を大切にするようだったし、自分の持っている爵位が立派であればある程、身に飾る宝石は豪華なものになるのが常であるように思えた。

  ぼくの座っている所から、素晴らしいステンドグラスのある教会が見える。通りには車が通っていないのが奇異に思える。ぼくが十年近く 通勤していた電気会社のある隣のカサ町は車があふれていたので、騒音に慣れてしまったせいか、今になってもこのジェム町のひどい静寂には時々 どきりとすることがある。電気会社では特許の英文申請書を書くのを仕事にしていた。ぼくが新式の太陽電池を発明したという噂が広まった時にぼくを中傷する人がいて困ったことを思い出した。会社の技術を盗んだというありもしないことをいいふらされたのだ。ぼくは嫌な記憶をふり払うように、花壇を見た。ジエム町はともかく美しい町だ。人も中身はともかく外見はのんびりして東京のようにせかせかしていない。服装はまるで平安京か唐の貴族のようにあでやかで優雅だ。人々はいくぶんの余裕を持って、この日の秋晴れを楽しんでいるようだった。

 ぼくは翌日 特許庁に行った。灰色のコンクリートのどっしりとした五階建ての建物だっった。ぼくに応対してくれたのはメガネをかけた初老の男で銀色の丸い大きなピアスを耳にして、口と顎に濃い髭をつけて人をじろりと見る癖があった。しかし、言葉遣いは丁寧で事務処理もスムースだった。

「いずれ、通知がいきますから、しばらく待って下さい」とその初老の男は言った。

ぼくは手続きが簡単だったので、最初から自分でやれば良かったと思った。これで特許がおりれば、ぼくはこの太陽電池をつくり販売する会社をつくることが出来ると思った。ぼくは自分の発明に自信があったから、無邪気な喜びに浸った。

 やがて、特許がおりると、ぼくはカサ町にある電気会社を辞めることを決意して辞表を提出した。その後、ぼくがジエム町の自宅で夕方 テレビを見ていると、上司の課長が秘書を連れてやって来た。ぼくの家は1DKの狭いアパートだ。もう少し広い所に住んだらという忠告もあったのだが、今は金をため、いずれ大きな邸宅を購入しようと考えているので当分は我慢しようと思っている。このアパートは鉄筋で白い壁のつくりで広い部屋もあればぼくの様に狭いのもある。色々な住人が住んでいる。真ん中が中庭になっていて、ぼくの三階からは庭の季節の花がよく見られる。

「あら、随分と本があるのね」と黄色いスーツを着て、胸に紫の薔薇のリボンをつけた秘書が言った。彼女はブラウンのカラーレンズの丸い眼鏡の奥に茶目気の笑いを浮かべていた。

「会社を辞めようと思うんだけど」

「辞めてどうするの」

「太陽電池の会社をつくろうと思って」

「この町で会社をつくるのは結構 面倒よ」

「どんな風に?」

「まあ、やってみれば分かるわ」

「会社をつくるって生き物をつくるみたいなものだから」

「なるほど。生き物ね」

 課長はぼくの太陽電池の特許を会社に譲ってくれないか、そうすればぼくを研究所の主任研究員に採用してやるとも言った。主任研究員は会社ではエリートだし、給料も良い。 ぼくは丁重に断わり、辞表を撤回する気持ちがないことを言った。

 それから毎日の様に法律の本を読んで、会社をつくるための知識を頭に入れるために、にわか勉強をした。それから、ぼくは類似商号がジェム町にないか調査するために、市役所の横にある登記所に行った。

「商号調査簿を調べたいのですけど」

ぼくは閲覧申請書に必要なことを書いて、ファイルを見ることになった。全く同じというのはなかったが、似たようなものがある。ぼくの会社の商号はピース太陽というのだが、太陽ピースデザインというのがあった。

「会社をつくりたいのですけど、この二つは類似商号になりますか」

ぼくは自分の会社名と商号調査簿にあったのを紙に書いて、係員に聞いた。恐竜の刺繍をしたセーターを着て、髪をパーマした若い男はダイヤの指輪をしていた。

「どんな商売なんですか」

「太陽電池を生産して、販売するのです」

「それなら、大丈夫でしょう。デザイン会社とで業種が違いますから」

「ああ、なるほど」

 ぼくはそのあと市役所で印鑑登録をして、翌日 税理士のところに行った。お城の様な格好をした奇妙な事務所だった。税理士と思われる男は部屋の中でも鳥打ち帽子をかぶっている奇妙な感じのする男だった。四角い目がねをかけて、白い蝶ネクタイをして鼻に金の大きな輪のピアスをしている。ああ、なんておかしな男だろうとぼくは思った。税金のことなんか本でも読めば分かるだろうと思ったけれど知人の忠告通り専門家に聞いた方が良いかもしれないと思って、聞くだけ聞くことにした。彼の差し出した名刺には「白熊男爵」と書いてあった。

 「会社をつくるので税法上のことを聞きたいのですが」

「法人税を支払わなくてはいけません」と白熊男爵は半分あくびをしながら言った。

 ぼくはそんな初歩的なことを言われたので、なんとなく嫌な気持ちがした。

「それに貴方、社長になるならば貫禄をつけなくてはいけませんな」

僕はそんなことは税金と関係ないと思った。

「それに貴方は鼻水を流してばかりいる。それはアレルギー性鼻炎ですな。要するにダニを貴方は飼っておられる。そしてダニを販売しようとなさるわけですか。そんな会社はすぐにつぶれますよ」

 ぼくはダニ退治器のことを思い出した。

「医者には行きましたか」とその白熊男爵は質問した。ぼくは税法のことを聞きにきたのに、自分の鼻水のことばかり聞かれるのでちよつと困惑した。

「行きました。実に単純なダニアレルギーだということです」

「ということは貴方はほこりの中に何万匹というダニをかっておられる」

「そんなことよりも税金の話をして下さい」とぼくはやや不機嫌に言った。

 ぼくはその白熊男爵に失望して、あと若干の税金の質問事項に答えてもらってから町に出た。折からの夕日が美しく、ぼくはぶらぶらと歩いていたらジエム町で有名な宝石店の所にやってきていた。ここの町の人はみな宝石や金・銀の貴金属の身を飾ることを誇りとしているようだが、ぼくにはそういう趣味がなかったせいかそういうものを買ったことがない。 しかし、なぜかその日は宝石のことが気になってシヨーウインドーを見ていた。ぼくがあまりに熱心に見ているので店員がぼくに近づいて来て「いかがですか」と言った。

  その女はまだ少女の域を出たばかりという感じでひどく若く、森から出てきたように綺麗な目をしていた。

 ぼくは思わず「貴方の目の様な宝石があれば買いたいですね」と言った。彼女は驚いた様な顔をしてから、その後に笑った。ぼくはしばらくの間、彼女と話をして様々な宝石や金属を物色した。そして生まれて始めて、宝石を買った。たった一個の大きなルビーだったが値段はとてつもなく高かった。ぼくの会社設立の門出を祝う赤いルビーだ。

                                                                       

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 ぼくは定款をつくって公証人の所に行った。ジエム町の公証人役場は西洋の宮殿の様な立派な建物で、その前は大きな広場になっていた。そこにはいくつかの小さな城の様な喫茶店があって、戸外にも沢山の椅子が並べられ、客はさんさんと降り注ぐやわらかい太陽のもとで、ある者はおしゃべりを、ある者は読書を、ある者は孤独を楽しんでいる様だった。ぼくはその中の菊の花壇の近くのパラソルがすっかり空いているのを見て、太陽と木陰がどちらか良いか迷ったが結局 本を読むにはパラソルの下が良いだろうと思ってそこの椅子の一つに座った。ぼくはしばらく黄色い大輪の菊があまりに美しいのでぼんやり見とれていた。

 そこに「セロさん。こんなところで何しているの?」とぼくに呼びかけた男の声があった。同じアパートの上の人で、大学生のアルモニア君だ。中々の美声年だ。それに目が澄んでいて美しい。ぼくはこの青年をこの町の中で会う人間の中でもっとも純粋な人だと考えていた。

 「ええ、ちょっとぼんやりコーヒーでもと」

「いい天気ですからね。うっとりするような光と水晶の様な大気。ここは天国かと思いますね」

 ぼくは笑った。「大学は勉強が大変では?」

「いえ。本ばかり読んでいます。少し運動不足になるのでこの頃は町をあちこち歩くようにしているのです」

「貴方の読むのは宗教哲学の本でしょ。ぼくの方は毎日 法律だの電気の本だのと、どうもポエムのないものばかりで、その点 貴方がうらやましいですよ」

「会社をおつくりなるとか」

「ええ、太陽電池の会社です」

ぼくは自分の発明した太陽電池の輪郭を説明をした。彼はにこやかな笑顔を浮かべて聞いていた。  

「ところで、ぼくは前から思っているのですが、この町はとても美しいのに、どうして多くの町の人は憂欝そうな顔をしているのでしょうかね」とぼくは質問した。

「税金が高いということもあるかもしれませんね。でも、本当のところは市民が欲に目がくらんでいるんだと思いますよ。市民は町の郊外でとれる金だのダイヤだのという宝石で家の中に財宝をためることをしています。これには歴史的にいいますと隣のポデール町の魔王の軍が攻めてきて市民が殺されたり、奴隷にされたりしたことがあるのですが、宝石や金を持っている者は自由にされたのですね。この過去の暗い歴史ははるか昔のことになってしまったのですが、市民は伝統的に金や宝石を集めることに熱中しているんですよ」 

 「なるほど」

 その時、向こうの方からミニスカートをはいた女がやって来た。「ハーイ」と手を振る。ぼくの知らない顔で、アルモニア君との知り合いの様だ。

「ほら、来ましたよ。金と宝石の好きな女の子が」

 彼は彼女と立ち話して、ぼくに彼女を紹介してから用事があると言って立ち去って行った。

 女の子は青年が座っていた所に座った。なるほどネックレスやイアリング、それにブローチなどの装飾には沢山の金と宝石がちりばめらていた。

「ゆううつね」

「どうかしましたか」とぼくは答えた。

「だって、アルモニアさんに逃げられてしまって、叔父さんみたいな中年男の話し相手とは」

「僕は一人でも結構ですよ」とぼくは笑いながら言った。女の子は隣のカサ町の宗教と民族の欠点についてひどく情熱的にぺらぺらと十分近くも喋った。ぼくは黙って聞いていたけれど、あまりいい気持ちはしなかった。ぼくはカサ町には長いこと勤めで通っていただけに、良い所と悪い所を知りつくしている。

「あの町にもいいところ、あると思いますよ」とぼくは言った。

「町じゃなくて、人間がこすからいのよ。商売はうまいんでしょうけど、金儲けばかりでそれにあの宗教が原始的でひどくおかしい。神様が沢山いるんでしょ。そんなのって、あります?」

 ぼくはカサ町の宗教にはあまり関心がなかった。ぼくはどの宗教にもある程度の好意を持っていたが、特定の神を信じているわけではなかった。そうしたことにはひどく淡泊で、殆ど無宗教に近かった。

「あの、ちょっとそこの公証人のところへ用事がありますので」とぼくは立った。

「あら、あたしの話が面白くないというの」

「だって、ぼくは貴方が悪口を言っているカサ町については詳しいので、貴方の話には賛成できる所と出来ない所がありますので」

 彼女はひどく笑った。ぼくは黙って、広場を眺めそこに行き交う人をぼんやり 眺めていた。

「それは悪かったわね」と彼女は言って笑った。ぼくは「失礼します」と頭を軽く下げて、公証人の建物をめざした。

「又、お会いしましょうよ」と彼女の声が背後から聞こえた。

 ジエム町の公証人の建物はにんじんの様に赤く上の方が細くなっている建物だった。中に入るとちょっと薄暗い感じで部屋の真ん中に男が座っていた。

 顔の丸く大きな頭をした浅黒い男で、黒いまゆげは両端がはねていて、鼻はだんごばなである。唇の厚いかなり年配の男で、目は知的だった。でっぷり太っていて、背広が窮屈そうだった。金のネックレスをして、おおきなトルコ石の指輪をしていた。時々、葉巻を吸ってはテーブルの灰皿に置いている様だった。横の左右に若い男が二人、一人は書類に何か万年筆で書いていて、一人はパソコンに向かっていた。

「公証人の認証を受けたいのですが」とぼくは尋ねた。

「どれどれ、書類を見せて下さい」

 ぼくは定款三通と印鑑証明書と四万円の収入印紙を出した。公証人はぼくの定款を念入りに眺めていた。

「商号は? ピース太陽というわけですか。太陽電池を生産、販売なさる。しかし、この第二号は何ですか? 太陽によって世界を明るくするですってこれは駄目ですな」

「どうして、駄目なのですか」

「あのね、会社というのは営利を目的とするのでしょ。太陽電池をつくるのは良いが、第二号は余計な文章です。もう一度、書き直してきて下さい」

「ここで書き直しますよ。社員総会を開く必要がありませんので」

 ぼくはそこで書き直した。そして無事に定款の認証が終わり、その公証役場を出た。

 その足で、ぼくは銀行に行った。登記申請に必要な書類をもらうためだ。

 ぼくは銀行のカウンターに並んでいる人達を見て意外に思った。みな六十を越えている様な女性だった。老婆というにはまだ早いが、もう孫がいてもおかしくない様な年輪の皺がかっての美貌の白い肌に沢山刻み付けられていた。

 真ん中にだけ二十代の若い子がいたので、ぼくがそこへ行ってもらいたい書類の話をすると、「今、忙しいので別のところでやって下さいませんか」という言葉がかえって来た。 お茶を飲んで、銀プチの目がねをかけた一番年とっている老婆が「こちらにいらっしゃい」と言った。

 「はい」とぼくは言って提出書類を渡した。

「会社をおつくりになる?」

 ぼくはそれからひどく 長い暇な話につきあわせられることになった。老婆には簡単な仕事しかいかず、重要な仕事はこの若い女の子にいっているらしい。老婆は殆どボランティアみたいなものだから、のんびりやっている。

「ええ」

「太陽電池とは面白い」と老婆はお茶を飲みながら微笑した。

 銀行を出ると、ぼくは登記所に急いだ。若い女の子がウエスタンの様な青い帽子をかぶり、耳に大きなイヤリングをつけていた。

 ぼくは彼女に用意した申請書類を商業登記の窓口に提出した。あとは、調査官による申請書類の審査を待つだけだ。ぼくは原本を返却してもらいたいと思ったので、謄本をつくり提出した。

「この謄本は原本と相違ありませんがありませんけど」とぼくは男の声で言われた。ひどく優しい声だった。男は細長い顔に穴の目立つ鼻と大きな両耳に金の大きな輪っかのピアスをしていた。男は濃い顎ひげを右手でなでて、ぼくを優しい目で見ていた。ぼくは何だか妙なおかしみがこみあげてきたが、言われたことをその場で記載して提出した。男は申し訳なさそうにぼくに向かって、今度は「印鑑がありません」と言った。ぼくはすべて書類をそろえてきたので、印鑑は必要がないと思って忘れてしまっていた。

「それでは原本はいりません」とぼくは言った。受理されたけれど、ぼくはなんとなく後味が悪かった。出直しすれば良かったかなという思いがあったからだ。

 ぼくは諸官庁に会社設立の届け出をした後、町の壁に広告を貼り、従業員を求めた。それから、ぼくは奔走し、事務所と工場は安いところを見付けた。白いビルなんだが一階は事務所にして二階は簡単な工場に出来る。他の会社も入っているけど、別にさしつかえない。

 ある日、訪れたのは変な女だった。背が高くひどくやせていて、顔も細長く眼鏡は四角く大きな緑のカラーの入ったガラスの中から細長い無邪気な目がこちらを見ているという風だった。

 ぼくはカラシ色のスーツに身を固めたその女をしばらくじろりと眺めてから「おすわり下さい」と言った。

「ご用件は?」

「あのう、こちらで秘書に雇っていただきたいと思いまして」

「秘書は今のところ雇うつもりはないのですが」

「でも、秘書は必要ですわ」

「ええ、勿論 必要です。しかしまだこれから始まる会社ですので、商品がどのくらい売れるか見当がつきませんからね。人件費は少ない方がいいんです」

「あたし、給料は普通の人の半分でいいんです」

「半分で?」

 ぼくは驚いた。色々、手伝ってくれる秘書がいればありがたいので、ぼくは迷った。あくまでも経費節減のために、秘書は今のところ我慢しようということなのだから、給料は半分でいいなんていう奇特な人がこの世にいることを知って驚くと同時に雇うのも悪くないと心の中で考えた。

 「あの、参考のために聞いておきたいのですが。特技はなんですか」

「特技ですか。あたし、そろばんとか英語とかそういうの苦手なんですけど、剣道四段を持っています」

 ぼくは聞き違いかと思ってもう一度 聞いた。「四段ですか」

彼女は頷いた。

「それに柔道は初段。合気道三段。空手二段、全部で十段です」

 ぼくは驚いてにわかに信じることは出来なかった。

「ぼくは別に用心棒は必要ないんで。でもその細い腕でよくそんなに段をとれましたね」                「ええ、父が武道家だったので、私は三才の頃から鍛えられました」

「なら、武道でも教える道場でも開いた方が」

「ええ。でもあたし武道が大人になってから嫌いになったのです。平和な仕事につきたいと思いまして。お宅の会社は太陽電池をつくるとかいうことで大変な魅力を感じまして」                

 「そうです。ピース太陽という会社名ですから。そういうお気持ちがあるなら、簿記とか英語とか勉強していただかないと」

  ぼくは結局その秘書を雇うことにして、会社はスタートした。

ともかく太陽電池の生産は軌道にのっても、それを購入してくれる客がいなければ商売は成り立たない。ぼくは最初のうちはそれこそ東奔西走して客を開拓した。ぼくが名刺を差し出すとぼくの顔をしげしげと見るのがけっこういるので、最初ちょっと不愉快だった。しかし、ぼくの太陽電池があまりに凄い性能を持っているので、誰も製品を見ない内は信用しないのだ。それにダニ退治器の詐欺的な商法は町の発明家の信用をひどく落としたと思える。犯人は大金を得て国外に逃亡しているから、市民がそういう目でぼくを見るのはしばらくの間 仕方ないのかもしれない。

 会社が軌道に乗り始めた時、ぼくは災難にあった。 ある男N から大量の注文を受けたのだが、支払いが手形で、しかも支払い期日に現金の支払いがなかったのだ。この様に手形が不渡りになった時のぼくのショックは大変なものだ。ぼくはこれで従業員に給料を払おうと予定していたのに金が入らないということで息詰まってしまった。

男Nの会社は銀行から取り引き停止処分を受け、倒産寸前だった。ぼくは男Nと彼の会社や彼の自宅で直接 彼と会って交渉した。彼は涙を流してあやまるかと思うと少しぞんざいな口調で「支払いを待ってくれと言っているのが分からないんですか!」とぼくに反論することもあった。「ともかく資金がないのです」と彼は言った。ぼくはともかくもこの手形はNの会社が発行したものなので、Nに「金 八百万円の手形金の支払いについて、N社長が保障いたします」と書いてもらいたいと思ったが駄目だった。

             

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ぼくはジエム町の立派な住宅地をゆっくり歩いていた。ぼくは昨晩 鼻水とくしゃみでせめたてられて睡眠がよくとれなかったせいか少し頭がぼんやりしていた。屋根の上でカラスが二羽大きな声で鳴いたかと思うと勢いよく飛び立った。その途端にぼくはある弁護士を訪ねることになっていたことを突然に思い出した。なにしろ、会社の不渡りの件をうまく解決しないとせっかく作った会社が駄目になってしまう。ぼくは早速 ポケットから財布を取りだし、その中にある名刺を見た。マンモスの絵が書かれ、弁護士とマンモス公爵の両方の資格が印刷されている。

ぼくはこの頃やっとこの町ではマンモス公爵だけが弁護士という名前の資格を同時に表示することが許されている特権的な資格であることを知るようになっていた。

 ぼくは目の前の大きな屋敷の表札をみて、名刺の住所がこの近辺であることを察した。たまたまその屋敷の庭で薔薇に水をやっている大きな口髭を持った立派な老人にその弁護士の家を訪ねた。

 老人はにこやかに教えてくれたが、最後に一言 言った。

「何か、面倒なことでも起きたのかね。最近は裁判も金がかかるからね」

「ええ、ちょっとしたトラブルが起きましてね」

 ぼくはそう言いながら、不渡りを出した会社のN社長を思い出した。赤ら顔のでっぷり太った男で、サファイアのネックレスをして金プチの丸い目がねをかけていた。今、彼は自分の会社を休んで近くのホテルに雲隠れしているという噂がある。

 ぼくはそのことを思い出しながら、その弁護士の家を訪ねた。先程の家にもまさる立派な家で、ぼくはしばらく門から玄関に至る両側の花壇やそこから見えるイギリス風の建物や窓のカーテンの中にひそむ優雅な人形を見ていた。

 ぼくは庭に立つ大理石の彫刻を眺めた。どこかで見た様な裸婦のギリシャ彫刻だ。その手前に噴水がある。空に舞い上がる水が澄んだ空気の中で新鮮だ。様々の色の薔薇の花が沢山 咲いている。 

 出てきたのは初老の女で、直ぐに応接室に通された。壁には海と空と町が溶け合った様な風景画が掛かっていた。

「弁護士さんは?」

「今は事務所の方だと思いますけど。私は留守番を頼まれているだけですので」

女は緑と黄色が重なった絹の中国服のようなものを着ていた。

「もしご用事でしたら、うかがってお伝えしますが」

「いつ頃 お帰りのなるのですか」

「さあ、直ぐ帰る時もありますし、一週間も帰らないこともありますからなんともいえませんわ」

「困りましたな。ぜひお会いしたいのです。事務所の住所を教えてくれませんか。それから、出来れば電話を貸していただきたい」

「電話はありません」

 その時、タイコや笛の音がにぎやかに聞こえてきた。

「何ですか?」

「市長の誕生日を祝っているお祭りです」

「ほお」とぼくは感心した様な声を出した。「随分と人気のある市長なんですね」

「そうです。このジェム町はなにしろ世界でもまれな町ですからね」

「どんな風にまれなんですか」

「それは宝石と金が豊富にとれますし、気候もいいですからね。夏涼しくて、冬あたたかい。一年中 春のようでしょ」

「なるほど。でもそれは自然の恵みですよね」

「ええ。でも 市長は隣の国の魔王とうまく外交をし、五年前には平和条約を締結してこの国の平和と豊かさを保っています」

 テーブルの上には素晴らしい花模様をした陶器でつくられた茶碗が二つある。ぼくは先程からこの茶碗で紅茶に似た色の茶の味を味わっている。

「でも過去には魔王の軍隊が時々 来てこの町を荒らしにきて困ったことがあります。最近は平和が続くのでありがたいですけど、油断は出来ませんわ」

 ぼくは魔王のことについては時々 聞いたことがある。隣の大都市であるポデール町の支配者だ。強力な武器を持ち、工場を持ち、沢山の車を持つ工業国だ。ここのジェム町は魔王によって、押さえられている。電話もラジオもテレビも極端に少ないのはそのためだ。ただ、豊富な宝石と金と大理石という風に物凄く天然資源に恵まれているのでジェム町は豊かなのだ。それに歴代の市長は外交にすぐれ、ポデール町とうまくやっていくことを優先課題にしている。

「僕がジエム町に住むようになってから十年たちましたけど、その間は魔王の侵入はありませんでしたがそれ以前にはけっこうあったようで」

「そうです。ここ十年 おとなしくしておりますがね。あたしの若い頃はよくやってきましたよ。ジェム町の市民は武器を持っておりませんので、魔王の強力な軍隊には従うしかありませんでした」

「乱暴しますか」

「言うことを聞かなければ乱暴しますよ。でも目当ては私達の町の豊かな物資ですから。 そして一応 彼等は我々の高い文化水準を尊重していますので、欲しい物を手にいれて満足すると帰って行きましたね」

「確かに、ジェム町は豊かですからね」

「そうです。素晴らしく豊かです。一人一人の市民が昔の貴族も及ばないほど豊かな生活をしています」

「しかし、電話もテレビも乗用車も殆どないというのはなんだか変な感じですね」とぼくは言って、長いこと勤めていた会社のあるカサ町にはそれらの物が全てそろっていることを思い出した。それでも、ぼくはここのジエム町の方が好きだった。

 法律事務所をぼくは訪ねてみることにした。広い道路には先程の祭りの一行が向こうに見える。そのあとを絹の様な着物を来た優雅な人達がのんびり後についていく。近くにバスの様な乗り物が止まった。太陽電池で動くバスだ。ぼくはそれを見て、ぼくの会社で生産している太陽電池を使ってもらえば費用が安くてすむのにと思った。なにしろまだ宣伝が少ないせいか、一般にはあまり知られていない。

 バスに乗ると、数人 乗客がいるだけでゆったりしている。バスの窓から見る町の風景は中々面白い。

 綺麗な色のいろんな種類の蝶が飛んでいる。樹木にはやはり熱帯に飛ぶインコの様なものが飛んでいる。住宅はみな広い庭をもっている。カサ町はこんな風でない。ぼくはカサ町の雑踏を思い出した。貧富の差があって、町全体がもっと汚い。

  ぼくはある所でバスを降りた。法律事務所はいくつかの赤レンガ風のビルが立ち並ぶ一角にあった。ガランという鈴の音がして、ぼくは事務所の中を入った。

 受付けの人は中年の上品な女性だった。

「どんなご用で?」

「弁護士さんにお会いしたくて」

「あら、二時間ほど前にテラ町に出張に」

「テラ町に?」

「ええ、なにしろこの町は事件がなくて、よその町から頼まれることが多いので出張になってしまうんですよ」

 テラ町といえばぼくの生まれ育った故郷ではないか。

「連絡はとれませんか」

 その時、血相を変えた若い女が入ってきた。弁護士の秘書だった。

「魔王の軍によって、国境が封鎖されましたわ」と彼女はせきこんで言った。まだそれほど知られていない情報だった。

 ぼくはこれでは弁護士が当分 帰ってこれなくなると思った。不渡りの事件を頼もうと思ったのに、と思った。それにしても戦争になるのだろうか、武力では勝負にならないから また占領されて勝手なことをされるのかなという一抹の不安があった。ただ、魔王の軍もこの町の寺院、教会 遺跡、仏像、美術館などの過去の文化施設には敬意を払っているから無茶なことはしないだろう。ともかく食料が値上がりするまえに、当分の食料を確保しなくてはと思った。

 大変だ、食料がこなくなるぞとぼくは思った。宝石や金はどんなに高価でも腹のたしにはならない。ぼくはすぐそばのパン屋に行った。あのなんとも言えない素晴らしく良い香りが店に漂っていた。棚の上に並べられた美味しそうなパンの群れ。若い女がドレスを来てにこやかに立っている。ぼくはどっさりパンを買い、隣のスーパーでチーズと牛乳を買い、花屋の横の米屋で米を買い、本屋の横の八百屋で野菜を仕入れた。

 花屋にはぼくの見たこともない様な目のさめる様な青い薔薇や、一本で勉強机の半分を占領されてしまいそうな大きな薔薇もあった。そしてその美しい香り。その花屋の女の子は背が低いが、丸顔に目がパッチリして可愛いらしい。

 ぼくはアパートに帰ると、ともかくも買い込んだ食料を冷蔵庫に入れ、ほこりと本と太陽電池の部品に囲まれた狭い部屋の万年床の上にどさりと寝た。ともかくも不渡りをなんとかして回収しなくてはどうしょうもないとぼくはふと思った。ぼくはステレオをかけた。こういう平和製品は魔王の軍も文句を言わないせいか、優秀だ。ジャズを聞いていると、ぼくは大きなくしゃみをした。白い鼻水がだらだら出て来た。ちり紙をとり出し、鼻水をとると屑籠に放りこんだ。しかし、くずかごは既に一杯で、まるめられた白いちり紙は下の床に落ちた。そこにはいくつものマルめられたチリ紙が落ちていた。ぼくは鼻水が出るたびにそこにチリ紙を放った。それでも音楽はぼくの心をなごやかにした。

 ふと気がつくと、ヴアイオリンの音が聞こえる。ぼくはステレオのスイッチを切り、その音色に耳を傾けた。ぼくは中庭に面するベランダの方に移動して窓を開けて、外を見た。向こう側のマンションのベランダに二十才ぐらいの女が立ってヴアイオリンをひいている。中々上手で、うっとりする。チゴイネルワイゼンだ。その哀愁をおびた甘い音色はなんともいえない郷愁をよびおこし、ぼくは心を動かされた。涼しいかろやかな微風がぼくの頬をなでた。女は見たことのない顔だ。そういえば十日ほど前の日曜日に、引っ越して来たと思われるトラックがアパートの玄関の前に止まっていたことをぼくは思い出した。女のいる側の部屋はぼくの側のよりは広いスペースになっている。夫婦ものなのだろうか、それとも一人なのだろうかとぼくは頭の隅でそんなことをちらりと考えた。彼女はぼくがベランダに出て聞きほれてていても、表情をかえず自分の音楽に酔っているようだった。 音楽が終わってしーんとすると小鳥の声や中庭の猫の静かな鳴き声が目だった。

「うまいですね」とぼくは声をかけた。女はにっこり笑った。

「うるさくはなかったですか」

「いいえ、素晴らしい音色なので聞き惚れてしまいましたよ」

 三時を告げる時計の音がどこからか聞こえた。

「あたし、戸外でひくのが好きなんです」

「貴方ほどの名手ならば誰も文句は言いませんよ」

 彼女は笑った。

その時、上のベランダから例のアルモニア君の声がした。二人とも既に知り合いの感じだった。二人は前から交際しているらしく、かなり親しそうだった。ぼくはなんだか変な気持ちで自分の部屋にもどり、又 万年床に寝そべった。二人の会話がきこえてくる。そして又、静かになった。

 ぼくは夕方の散歩に出た。本屋は静かなバッハの音楽が流れる中に真新しい本がずらりと並べられている。写真集を手に取ってみた。山の写真、外国の町の写真、女優の写真とぼくは次々と本を手に取り、ページをめくった。そして文豪の書いた小説で豪華なカバーがされているのも数冊 見てみた。ぼくは本屋を見回し、ここには世界中の情報が活字にされて並んでいると思った。

 ぼくは翌日、洋服屋にも行った。古代から中世そして現代風にと色々の服がなんでもとりそろえてある。その後は時計屋に行った。飾りが楽しい。鳩のついたもの、人形のついたもの、教会の様な建物がついたもの、金色の大きな時計。銀色の町の風景の模様にした時計などを見て、ぼくの部屋にある丸い単純な置き時計をそろそろ取り替える頃だと考えた。

 その時、大通りの向こうから多くの人が血相を変えて走ってきた。

『魔王の軍が来るぞ!』

 ぼくは大通りの横の森林公園の方に入り、樹木の木陰からしばらく様子を見ていた。

 千人ほどの軍人がみな機関銃やライフルを持ち、完全武装して戦車や装甲車に乗ってゆっくりとやって来た。先頭の方に白馬にまたがった軍人が数人いて、彼らがどうもこの軍を指揮しているようだった。市役所に向かっている。

  ぼくは軍というものを始めてみて、ちょっとびっくりした。

 その内にあちこちの通行人の間にうわさが立った。なんでも妙な病気が魔王の領地ポデール町で流行し始めた。どうもその妙な病原菌をまきちらしているのがジェム町にいるらしいということで、抗議にやってきたという。ぼくは何の病気だと思った。その時、ぼくの肩をたたいた奴がいた。ぼくはドキリとした。

「誰かがダニをまきちらしたと言っているぞ」とその男は笑った。前の会社の同僚だ。 「馬鹿な」とぼくは言った。この町から前の会社に通っていた奴で、ときたま駅で会い、一緒に出勤したこともあるが仕事は別で、特に親しかったわけではない。ぼくたちは自然に市役所の方に向かって二人並んで、歩き出した。

「何の病気なんだい」

「分からんよ。おそらく何か 因縁をつけてまた宝石と金をごっそり持っていこうということだろう。この頃、魔王の領地は不景気だからな。武器ばかりつくるからだよ」と彼は言った。

「無茶なことを要求する気かな」

「そうだろうな。なにしろ、あの軍隊だ。しかし、市長がしっかりしているから、どういう交渉になるか見物だよ」

ぼくは 久し振りにこの男と一緒に話をし、そして近くのカフェーで、コーヒーを飲んだ。そこは市役所が見える所だった。ちょうど、夕暮れであちこちに灯がともり、西の空には真紅の丸い太陽が沈まんとしていて、あたりの雲は茜色に染まっていた。市役所の周囲は戦車や装甲車や白馬がとまっていて、軍人達が銃を持って要所要所につったつていた。

「ところで、太陽電池の会社の方はうまくいっているのかい?」

「いや、不渡りをつかまされて困っているんだよ」

「不渡りか。それはきついな。相手はどんな奴なんだい?」

「工場を経営している男でね、ぼくの太陽電池を大量に買いつけていったので、当初ぼくは大成功と思ったんだが」

「手形は気をつけんとな。それで現金を回収できる見込みはあるのかね」

「いや、ない。それで困っているんだ」

 すっかり夜になった夜空には沢山の星がまたたき、カフエには軍人も入ってきて、満員になった。軍人は紳士的で、微笑すら浮かべ余裕のある雰囲気で刺々しさはまるでなかった。

 「市長との交渉は長引くのかな」とその友人はぼやいた。ぼく達は夕食を取った。ワインを飲んだ。軍人達も食事をしている者が多かった。アルコールはご法度になっているらしく、ワインを注文している人はいなかった。

  ぼく達の横の椅子にも五人ほどの軍人が円になって食事をしながら、会話をしていた。ぼくにも時々、その会話が耳に入って来た。どうも魔王の領地に原因不明の妙な病気が流行っているらしかった。鼻水が出て、くしゃみをするから一見して風邪かアレルギーと思っていて油断していると、急に高熱をだしてコロリと死んでしまうという話だ。噂によるとダニの中でも特殊に変化したものが原因らしい。そのダニは天然には今まで発見されなかったもので、細菌兵器としてつくられ、何かの事故で伯爵の領地にばらまかれたらしいというのである。

 「ジエム町の様に全く軍事施設がない国が、人工の細菌をばらまいたなんていうのは直ぐ根も葉もないことだと分かるのではないかな」とぼくは小声で言った。

「それはそうだがね。ジェム町の医学や生物学は世界でも優秀と折り紙つきだから、そうした人工の細菌をつくる技術を持っているという話だ」とその友人は言った。ぼくは自分のアレルギー性鼻炎のことを思いだし、なんともいえない気持ちになった。

「その新種のダニは熱に弱いんだそうだ」とある赤ら顔の太った軍人がステーキをほおばりながら、言った。

 ぼくはそれを聞いた時にぼくの太陽電池を思い出した。でも太陽電池でその恐ろしいダニが退治出来るものとは思わなかった。むしろ薬やワクチンや何か医学的に別な方法があるのではないかと思った。

 その時、一種のどよめきが市役所の方面から聞こえた。市長と魔王の使者である指揮官が市役所の玄関から出てきたからだ。周囲の群衆が立ち、好奇心と一種の緊張感でみな、口髭をはやした市長と頭ぶんだけ背が高い軍服の指揮官に注意を向けた。

 いつの間に用意されたマイクの前に二人は進み出た。市長はマイクに向かって、喋り出した。

「魔王の領地に宝石と金を緊急放出することに同意しました。よって、国境の閉鎖は解除されました」

 しばらくすると軍はまとまって、市役所のそばから整然と出て行った。ぼくらはその宝石と金がどのくらいの量になるのかということを噂した。そしてそれがどの程度 町の経済に影響を与えるのかということをお互いに意見を出し合った。そんな話をしている間にもぼくは不渡りのことが気になった。

 

                        {後編に続く}

音風祐介 

karonv@hi-ho.ne.jp