1 真理に目を向けた時に、新しい創造的な文化が生まれる   

     {その文学的日本文明論}

太陽は東からのぼり、西に沈む。当たり前のことです。人間の顔には二つの目がほぼシンメトリーにならび、その間に鼻がある。目が後頭部にあったり、三つ目がある人はいない。やはり当たり前のことです。

水は上から下へ流れていく。これも当たり前。

世の中はこうした当たり前のことで埋まっているが、そこに真理がある。

呼吸もそうだ。吐いて、吸う。これを数分しなければ、人間は確実に死ぬ。寝ている時も何かに夢中になっている時も人間は無意識に呼吸を行い、いのちを営んでいる。この当たり前のことの中に人生最高の深い真理がそのままに露出しているのだが、人は気がつかない。大海の浜辺に行けばよせては返す白波がある。このリズムは呼吸にもあり、吐いて吸ってというリズムが海のよせては返す波のリズムに呼応していると考えられる。とすると、呼吸は大きないのちのよせてはかえす波にたとえることが出来る筈だ。そうすると、よせては返す波を引き起こしている大海に匹敵するいのちの海とは何かと考えたくなる。これは直感するしかない。我々の周囲には色々なものがあるが、これは大きな生命の海のさざ波がある形を取ったものともいえる。この生命の海を仏教徒は「空」と言った。この「空」という不滅のいのちの海が、呼吸に現れている。

それなのに、人はこの呼吸に眼を向けようとしない。なぜか。頭があるからであろう。虎やライオンは獲物をとらえたら、ただ呼吸をしているだけの自然の姿そのものだ。人間だけが、呼吸の大切さを知りながら、あまりにも当たり前のことなので、そのことを忘れ、頭を使ってあれこれと思い悩むことが多いため、呼吸の深い意味をますます考えなくなる。これはみな頭脳が生むことだ。そのおかげで、人間は車や飛行機をつくり、移動が便利になったし、全ての点で、生活を便利にする方法をあみだした。しかし、最近になって、その頭脳の生み出した科学の成果が全てバラ色でないどころか、人類を滅ぼすことにもなりかねないことに人類は気がつきはじめた。公害や戦争がそうであろう。美しい自然をこわすことなく、自然の呼吸のままに生きていた古代の生活は確かに厳しいものがあったろうが、獲物さえとればあとはやすらかな呼吸に自分をゆだねることが出来たのではないだろうか。

 

真理は呼吸の様に目の前にあるのに、気がつかないようにさせているのは一般的に煩悩であるとされている。それでは今の日本で主流の煩悩は何であろうか。これは人によって、色々意見があろう。金銭至上主義がモラルをなくしているのだという意見もあるでしょう。ある人は学校の偏差値教育が人間性に歪みを与えていると指摘する方もいましょう。

私はそういう風に多くの人が既に指摘している視点からでなく、もう少し別の角度から今の日本の病気を考えてみたい。この病気の意味は聖徳太子も翻訳したといわれる維摩経という仏典の中で維摩菩薩が「衆生 病む。故に我 病む」というところで使っている病気の意味で、細菌性のものではありません。その文明病を指摘すると、{分かりやすくて、短い言葉を使うと}極楽トンボの病気にかかっていると申し上げたい。実を言うと私もそういう時を経て来た。高校生の頃、受験校にいたから、学校ではしょっちゅう学力テストみたいなことが行われ、優秀者の名前は校長室の前に張り出されるという風でした。こうなると、競争で無理に高い点数をとることが生き甲斐になります。高い点をとると、自分の存在感が高まり、優越感を感じ、一方 自分よりも高い点をとる友人にはコンプレックスを覚える。これこそ、極楽トンボという病気の始まりだと思います。私もこのことによって、自分の青春を歪め、この病気から回復するのに、熱心に哲学を勉強して十年はかかったと思っています。私の場合、哲学が薬になったのです。極楽トンボは点数さえ高くとれば偉くなった様な錯覚をおこすだけでなく、大人になれば、金銭や社会的な地位が点数の代わりになるのは周知の事実である。今の日本の社会はこの極楽トンボになりやすい文化的土壌の中にあるのではないでしょうか。その良い例がバブルの時の人間模様でしょう。今は不況で反省期に入り、あの極楽トンボという文明病から回復している人も増えているように思われます。人は逆境に耐えると、大きくなる面があるのです。そして、真理に目覚め新しいユートピアを模索する人が増えてきた様に思われるし、そう願いたい。例えば、環境問題に積極的に取り組もうとする力強い人達の群が登場してきたことも心強いことです。その他にも沢山あります。しかし、この極楽トンボの日本的土壌は以外に根深いので、一応ここでその今の日本の文化資質を分析しておくことが必要かと思います。

たとえば昔の日本人には愚かとか煩悩という思想を仏教などから身につけていて、坊さんは自分のことを愚僧という習慣があったかと思います。有名な例では親らんが自分のことを愚禿と言っています。禿というのは僧にもなれず、俗にもなれないそういう中途半端な人間という意味で、それにプラス愚かですかですから、僧として道を求めている人としては相当厳しく自分を見つめていた方だと思われます。ですから、後世の人は彼を親らん聖人とよんでいるようです。煩悩にしても、親らんは自分を悪人としています。

銀河鉄道の夜など沢山の童話を書いた宮沢賢治は自分のことを人間界の下に位置する修羅の世界の住人だと言っています。あれほど崇高な魂を持った賢治の自己内省の厳しさにも驚きます。禅宗の一つである、曹洞宗の開祖としてあるいは「正法眼蔵」の著者として、天才的な思想家といわれ、欧米でも注目をあびている道元も和歌にこう読んでいます。

 愚かなる我は仏にならずとも

        衆生を渡す僧の身ならん

昔は、一般の日本人の胸にも親らんほど厳しくなくとも、除夜の鐘に象徴されるように、煩悩は人間を愚かにするものとして警戒されていたと思います。それが今はその様な倫理観の多くが失われ、みんな自分をある程度 善人で、ある程度 利口だと思うようになったのですから、やはり 「極楽トンボ」の世の中になったと思うより他ありません。

有名大学に入ったり、金儲けがうまいとそれで、ひどく利口だと世間から思われたり、自分でも思い、その中からとんでもない事件を引き起こして、監獄に入る人が増えていることは周知の事実です。難しい試験を突破して頭がいいと思われると、今の日本ではついでに善人と思われるのですから、実に始末の悪い世の中になったものです。親らんや道元が指摘した様に、善人になるのはそうたやすいことではないのです。仏とは何かという一つの答えとして道元は悪をなさず善をなす人と言ってます。

モラルが退廃し、学校教育では知識の獲得の競争のみが優先され、過去の人間が生み出した優れた価値観はあまり教えられることなく、大人の金銭万能の価値観は町の雰囲気やマスコミなどを通して子供達にまで浸透していく今の世の中です。法律に触れることをしなければ、みな消費者は王様という様な感じで、善人になってしまうのではないのでしょうか。

僕は良寛和尚を大変尊敬していますが、ああいう人は今風の価値観でいえば乞食坊主です。

彼は漢詩と書に優れていて、今は江戸時代の文化人という評価がなされていますが、当時は良寛和尚がそんなに優れた人物であると気がついていた人は少なかったのではないでしょうか。

 

今の日本の主流になっている価値観があまりに巨大で多くの人々をおおってしまい、異端の優れた価値観が文化的なものとして表面に出てきにくくなっている。今の日本はもう少し色々な価値観が出てきて、そうした異質の価値観が尊重され、共生できるような社会になれば、もう少しゆったりした文化的土壌が生まれてくるのではないでしようか。そして、そうした違った価値観との交流が紳士的におこなわれるようになれば、そこから新しい独創的な日本の文化が生まれ、新しいユートピア志向の経済社会も生まれてくるのではないでしょうか。

今は不況で、どうやってそこから脱出するか各方面の専門家が意見を出されていますが、私は少し角度の違った点を指摘したい。つまり、今の日本に独創的な文化が生まれれば経済はそういうところから活気を取り戻すことがあるのではないでしょうか。

文化の国 日本ということになれば世界中から尊重されるし、日本の商品は技術だけでなく、文化の香りのする非常に人間的なものとして高い評価を受けていくのではないでしょうか。これは昔、太平洋戦争の時、京都がなぜ爆撃されなかったか、とか、パリがヒットラーの命令があったにもかかわらず、ドイツ占領軍はパリを燃やさなかったかという理由を考えてみれば、そこに優れた伝統的な文化があったからだということなんですね。

そんなことからヒントを得てみれば、日本経済復活を大きな視野で見た時に、文化の興隆は大切なポイントと思うが、そういう視点からの指摘が少ないような感じがしてならないのです。

ともかく、この極楽トンボという日本独特の文明病から抜けだしていくことが必要なのでしょう。今は不況になって、深く内省する人が増えてきて、新しい価値観や文化を生み出す努力もなされていると思われますが、バブルの時は日本はもうアメリカに追いつき、追い越し、もう欧米に学ぶものはないと豪語する声がちまたに聞こえたものです。株や土地投機やゴルフ会員権で儲け、経済規模がバブルて゛膨らんだだけで一流国民になったよったような錯覚を持つ人が多かったようですけど、僕は昔の日本の歴史の中の方がより優れた文化を生み出した時代がたくさんあったような気がします。

極楽トンボになった理由は他にもあります。日本の今の生活習慣は室町時代に確立されたと言われていますが、この室町時代というのは八代将軍 足利義政の東山文化に象徴されるように、禅宗という仏教の一派に強く影響された時代なのです。

禅宗は世界思想史の中でも最も深いものを持っていると思われるのに、表面だけでみると、実に楽観的な宗教に見えます。おそらく、外見上 世界でこれほど楽観的な宗教はおそらくないでしょう。曹洞宗の道元なんか、ただ座ればそれで仏だと言っています。つまり西欧風に解釈すると、人間は座禅すればキリストと同じ様な神様になってしまうんですから、これを知った欧米人が驚くのも無理はありません。

武士に影響を与えた臨済宗は公案を考えながら、座禅をします。公案というのは一種の謎の言葉です。たとえば「片手の音を聞け」という公案が有名です。特に座禅すれば仏だとか、親らんの「南無阿弥陀仏」と唱えればいかなる悪も消し去り、極楽へいけるというのは表面だけ聞きますと、特に現代においてはその深い意味を理解しようともしない人が増えていますので、結局 極楽トンボになってしまう可能性があるかと考えます。

今の日本の多くの人が無宗教だと言われていますが、僕の意見では全くの無宗教なのではなく、あの室町時代の禅宗や浄土真宗やその他の仏教の影響を受けているのだが、ひどく薄められた形になってしまい、その方がいごこちが良いのではないかと思います。仏の意味だって、深く理解しようとしたらこれは大変なことなんだと思いますが、仏という言葉さえ消えた、ひどく薄められた雰囲気の方が気楽なのでしょう。だから、無宗教だという人の人生観を聞いていると、けっこう室町時代あたりの宗教観のうわずみの所だけが顔を出していることに気がつくことがあるのです。どうしてこんな所で、満足するようになったのか、一つは学校で、仏について教える場面がないということですね。あとは家庭ということになりましょうが、みんな生活に追われていますからそんなことを子供に教える余裕はないとくる。そして、今の寺院は昔とちがって、子供達が気軽に入れる所ではない。となると教わるところがないのですから、ミステリー映画で刑事が死んだ被害者のことを仏さんというものだから、仏さんはそうした死んだ人というイメージが定着してきて、その本来の深い意味なんか考える人も少なくなり、教典も読まれなくなったということでしょう。

この様に、日本人の心の古里の法華経などの多くの教典が読まれなくなったのは家庭や学校などの教育の欠陥ですね。

キリスト教の聖典である新約聖書のヨハネ伝は永遠の生命の書といわれるくらい、生命の永遠性が強調されている書ですが、その点では法華経も同じです。

それから、現代人は知らず知らずの内に主流の科学者の価値観というか、考えに影響されています。

論理つまり理性というか科学というかそういう人間の持っている合理的な面だけではそうした生命のことは知識はどんどん増えてもいるにもかかわらず、本質的なものは何も分かっていないのです。それなのに、一部の有力な科学者が自分の文化圏の常識的な価値観を述べてしまう。例えば脳の中身のことは分かっていないことの方が多いのに、脳イコール心の様な印象を与える発言を公にしてしまう。それは科学者の自由なのでしょうが、やはり一般への影響力は大きい。

この様に、俗ぽい科学が今の社会の価値観の主流になり、それを学校やマスコミなどを通して知らず知らずの内に、身につけ、人間は仏というようなうわつらのところだけ、それも言葉の内容も知らず、伝統の表面だけ身につけると、極楽トンボが生まれる土壌が生まれ、そこに消費者は王様とか、なってきますと、やはり金のある人間、成績がよくてちょつとうぬぼれた人間はどんどん、極楽トンボになっていく訳です。これで、バブル崩壊後、様々な事件を始め、銀行などの不祥事など数々の事件で、社会的地位があり、それなりの頭がある筈と世間から思われていた人間がどんどん、逮捕され監獄にいく理由の一端が分かるかと存じます。

しかし、今は反省期に入っています。あるいは新しい文化、活力ある経済を創造する産みの苦しみの時代とも考えられます。

私を含め、この極楽トンボという文明病から脱した時、日本は目覚め新しい創造の活力を取り戻すのではないでしょうか。その時、真の意味で人間を生かす活気ある経済活動が始動し、日本の商品が文化という視点からも世界の注目をあびる日が来るのではないかと思っています。

 次の時代を背負う子供達が成長する頃には、精神的にも豊かで明るい社会になっていることを願わざるをえません。

                {了}

 2 ヘルダーリンの「帰郷」を読んで

   下記に「帰郷」の一部を抜粋させていただきました。  

波寄せる門のほとりに、さすらいの男の子は息子のように立って、

幸見てるリンダウの町よ、汝のために歌くちずさみつつ、汝のために歌

くちずさみつつ、汝への愛しい呼び名をさがすのだ。

これは人を送りかつ迎える故国の門の一つなのだ。

ここから希望ゆたかな彼方へ門出することの楽しさ。

彼方、そこには驚異と神々しい野性がある。

高きより平野へとラインは力強く道を拓き、

岩間より谷川は歓喜の叫びをあげてほとばしり出、

明るい山々をこえてコモのかたへとうねりさすらいゆく、

あるいは日の歩みにつれて満ちたたえた湖をくだりゆく

しかしそれよりもなお心に楽しいのは、いまし、聖なる門よ!

いましをくぐって古里に帰ることだ。

そこには花咲く親しい道が走り、

かの国、ネッカールの美しい谷だにへ導く

そこでは樫は静かな白樺やぶなと群れつどう{大詩人に対して失礼とは思いましたが、          長い詩文なので、前後 省略させていただきました。}

故郷に帰るということは、何か意味深長に私には感じられました。

私はこの帰郷という詩は「人間が根源的に持っている故郷に、我々文明人は忘却という名のもとに、又 日常の経済活動という忙しさの故に思い出すことすらしなくなっている素晴らしい故郷に、実を言って既に帰っていることに気づく。その時の喜びを知ろうではないかと 呼びかけているような気がするのです」

懐かしい故郷に包まれていることを知る喜びは いかほどか、それは歓喜という言葉が

ふさわしい。その喜びにひたるためにはどうしたら良いか。

歌おう、歌うことによって、喜びは増し、故郷の町は目の前に幻の様にあらわれてくる。

この歌うということは色々なことを意味するわけで、小説の創作でも良いし、

俳句をつくることでも良いし、文字どおり歌うことでも、又 風景の良い大自然に遊ぶことも歌う意味に入れて考えても良い。

故郷に出会う喜びというが、その深い深い魂の底に秘められた故郷とは何か、それは詩人の魂の中に美しい一条の光が差し込み、暗闇に懐かしい町が現われ、、人々の生命あふれる声が流れこみ、町並みや川や緑に包まれた歴史が懐かしさと共に胸にせまるのでしょう。

それに気づかぬ人にとっては 故郷は千古の謎になるのでしょう

歌うことをしなければ、詩人にも哲人にもなれない。そして、何よりも無一物の本来の人間であるアダムにもなれない。

ただ、歌う。歌って歌って歌いまくる内に、この故郷に出会う。

歌わぬ人は聞く。

しかし、聞いているだけでは安らぎは得られても、故郷に出会えるかどうかは分からない。美は美しい。夕焼けの美、バッハやモーツアルトの美、ゴッホの美 沢山 ある。

現代の芸術家が追求する美も太い幹から無数に枝が分かれていくように、

百万の美{反美も含む}がある、しかし 幹である故郷は一つだといえないか。

一即多。という哲学用語を持ち出すまでもなく、これは宇宙の真実を指し示す有力な言葉の一つだと思う。

確かに、ヘルダーリンの見た故郷と、他の詩人が見た故郷は町の形態は外見上 相当 違うだろう。門の形。家々の屋根の色。人々の服装。

どんなに町の雰囲気は違っていても、故郷に帰ったことを知る歓喜は一つだ。

この歓喜は永遠の生命に触れた時の喜びと一つだ。

この人間の根源的な魂の故郷には 永遠の生命が深く深く浸透している。

この故郷に触れない場合は 美はすべて飛散して花火を見るようなことになり、

花火は美しく目を見張らせるが、人に歓喜をもたらすことはまれで、むしろその散っていくはかなさ故に、人生の空しさ、寂しさを感じさせるのではないか。

人は夏の夕べ、川に花火を見るのに、誘いあう。それはそれで人生の美しいひとこまだが、それが花火のヴィーのようだと嘆きもたらすようだとすると、

花火の空しさも芸術の表現する美の一つには違いないが、最高の芸術といわれるものには必ず 「故郷」を秘めているのではないか。

もちろん、クラシック音楽にも交響曲から色々あるように、花にも薔薇から名も知らぬ

野の小さな花に至るまで、「永遠の故郷の町」はおさめられている。

{ 了 }

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