インターネット散文詩について
1 この宇宙や人生に素晴らしい生命を生む真理が存在することを認め、日常の生活世界の中で味わった感動を表現し、真理と美に対する感受性を高めたいと考えている人は意外に多いのではないでしょうか。
2 日常のささいな出来事やそれにまつわる喜びや悲しみ、色々な苦悩も文章に表現して、それがある程度の普遍性に高められれば読む人は感銘を得ることができると思われますがいかがでしょう。それは文学作品というようなおおげさなことでなく、日記、手紙、メモ、エッセイというようなものから俳句、和歌や詩、趣味的な小説に至るまであって良いと思います。
3 目指す目標としてのテ−マ
東洋では平安時代初期に生きた最澄、空海、平安末期から鎌倉時代に出た法然
親鸞、道元、日蓮などが発見した偉大な宗教的真理を知ることに興味を持つ。そうした真理を理解した範囲内で味わい、「空華」という禅のことばがそれらの宗教的な真理に共通した絹の横糸のようなもので、生命の深さをあらわすことに喜びを感じれればと思う。そして、真理という言葉さえも消えた永遠のいのちのリズムを日常の生活世界の延長線上で、ちょつとしたこころがけで発見できる事が分かれば 生きる喜びが倍増するのではないだろうか。
そして、出来れば、西洋ではキリスト教、あるいは空華の考えと一脈通ずる西欧哲学
の一端あるいは 現代科学を参考にして得られる真理についても興味の範囲を広げる。
東洋と西洋の共通点に真理は横たわっているのであり、その重要なポイントに、
森羅万象は真理が表現されたものであるという考え方がある。
そしてこの真理には不生不滅の生命が宿っており、それが 我々のいのちの根元にある
のではないかという洞察である。それを的確にあらわした言葉が空華である。
4 インタ−ネット散文詩の形式
A. なるべく短い文章としてまとめること。理想は原稿用紙二枚程度。
B. 形式は自由。
C. ホームページのテーマから言って、内容は品位があるものが要求される。
公序良俗に反したり、他者を傷つける言葉は詩として認められないことは
いうまでもないことである。詩のめざすものはあくまでも美しさである。
D 書く内容は自由。風景描写でも、毎日の出来事でも、旅行記でも、読書
の感想でも新聞を読んで世相を考えるでも、友情でも会社あるいは
家庭内の出来事 でもなんでも良いと思います。
E 何かインタ−ネット散文詩について、ご意見があったり、創作したものを
投稿される方は下記のアドレスにお願います。歓迎します。
メールアドレス karonv@hi-ho.ne.jp
インターネット散文詩の例として一番良い例というのは今のところ、適当なのが
みつかりません。最初の二つの文は音風祐介の作品です。二つとも、もう少し短い文章にして、もう少し分かりやすくした方が良いという反省があります。
1 空華の詩 音風祐介 作
1
おお、春よ
よどんだ空気の汚れが僕の胸にしみこむ
僕はピストルでやられた西部劇の男の様に
夕日をあびて、灰色の飲料水を見る
あちこちで、町の喧騒がほろ酔いの僕の耳に響く
黒ぬりの霊柩車の様なカラスが舞う
ああ、僕はふらふらとした足取りで故郷を夢見る
僕の故郷は野生の動物園だった。虎がいる。黄色い絹の様な毛皮を着た
可愛い奴が僕の兄弟だつた。
川はひんやりとしていて、周りは植物園だつた。
野の百合と薔薇が僕の森にさわやかな香りをまきちらしていた。
2
おお、美しい灰色の酔うための飲料水
それを飲めばここが天国。
そこがダニの住む埃につつまれた、本の積まれた書斎の中であろうと、
ほろ酔いが得られれば、ここが天国。
たとえ、町の風景には排気ガスの充満した貧相な公園と
古びたビル街のみ目立ち、美のかけらがなくても、
灰色の美しい飲料水はここを天国にする
たとえ、そこが群集の中の孤独であろうとも
ほろ酔いは天国
たとえ、石の路上で汚れた川の変な臭いが鼻をついても、
美しい酔いはこの汚れた空気と騒音のまきちらされた喧燥の中を美しい楽園にする
おお、その時 我が懐かしい故郷はこの楽園の中によみがえる
虎も川も森も私の楽園の中ではみな友達だつた。
3
故郷を失った者は孤独だ。
たとえ、どんなにおしゃべりの出来る沢山の友人に恵まれても
故郷を失った者は寂しい
美しい飲料水のない者も故郷をつかまえるには
いかにすれば良いのだろうか。
悪い酔い方をする者も災いだ。彼らも故郷も見失う。
苦しみにあえぐ人々はその苦しみから脱却するためには耳をすまさねばならぬ。
耳をすまして時計の音が川の流れになるまでに待たねばならぬ。
忍耐して、耳をすまし、心を青空の様にしていかねばならぬ。
静けさの中に聞こえる沈黙の音楽に耳を傾けねばならぬ。
4
おお、僕はこの都会の雑踏から飛翔することが出来た。
僕は鳥になったのか、それとも僕の背に小型のロケットでもついたのか
僕は飛翔して、軽やかに故郷に向かう
わが親友の虎よ
黄色い毛皮をした猫よりも可愛い奴
僕と一緒に山や丘を走りまわってくれ。
森の中では僕の道案内をしておくれ
おお、その懐かしの故郷につくまでは
大空を悠々と舞う鷹よ
僕を天国まで案内せよ
僕は酔った仙人なのか、それともただの小鳥か
小鳥ならばお前、鷹に食われるのか
追いかけられて羽をむしられ落下していくことになろう。
落下した所は都会の車のラッシュ
又 何万人の交通事故の死者の群れの中に
僕の死のむくろが数に加わるだけ
5
おお、夢か、ここは懐かしい故郷ではないか
僕の足元に、様々の色をした花が無数に星のごとく咲いている
香りはまるで無垢の赤ん坊の肌のごとくやさしく
そして、又 南国の豊かな果物のごとく
この甘美な香りは天国の香水から流れてくるものか
夜は月の光が果樹園を 草の中の真紅の薔薇を
昼になればやわらかい絹の様な陽光は緑の絨緞の中に
黄色い花が縞模様になっている田園に光の明るいヴェ−ルでおおう
今の季節はいつか、五月か十月か。
四つの季節の最も美しい部分をいちどきに集めている陽光と空気のバランスは
生命の歌に満ちている
蜂などの昆虫も生き生きと飛んで
何も知らぬ美しい鳥の声は耳に心地よい音楽のよう
6
故郷にも闇はある
光の中で、目覚めている時は
ちょうど感動的な映画を見ている時か、
音楽会でヴァイオリンの華麗な音や、色々な楽器が壮麗な宮殿に似た
音の世界を築いているのに耳を傾けている美しい時の様なものだ。
しかしやがて眠る時が来る。
闇の中でさらに故郷の別の町の別荘から見る海の風景でも眺め
黄金の夕日や朝日に照らされて
海のさざ波にきらめく色彩のまばゆさの中で浮かぶ船一隻
そんな永遠にも匹敵する様なものを見ている夢なら良い
しかし、夢だけは油断がならぬ
地獄のごとき夢を見るのもスリルがあるなどと呑気に言える人は
地獄の恐ろしさを知らぬ人だ。
地獄は地獄だ。
絹の様な光、夏の向日葵に注ぐ温かい雨、収穫の時に田園にふりそそぐ夕日の淡い光
そうした天来の美に慣れた人にとって、
やはり故郷はどんなに悲しくても、美しくなくてはならぬ。
そして悲しみはやがて歓喜に変る美の栄光がなければならぬ。
夢よ、夢こそ美しい灰色の飲料水が必要なのかもしれぬ。
7
故郷よ、お前は空しい幻影などではない。
我ら人間が故郷を忘れたのだ。美の忘却こそ現代の心の病気だ。
いたる所に故郷の美と香りが充満するのに人は忘れ、欲望の深い所に足を踏み入れ
棘のある草原の中に猿の様に突き進む
おお、故郷よ。故郷こそ本物の我らの確かな家なのだ。
どこかで、鳴いている小鳥の声。
寂しい孤独を呼び覚ますあまりにも悲しげな声よ、
すすりなくヴィオロンのごとく
わが心をかきむしり
故郷も現実も空しく幻の町の様に灰色の霧に包まれていく
わが空想の翼はもはや力つき
酔いはただ 眠りを誘う
どんなに故郷が素晴らしくても
わが手にしかとつかむことの出来ぬ故郷は幻と同じか
それならば現実の海外への旅路の方が
牧場と森が見え、美しい商品に満足し、しばしの歓楽に遊ぶことが出来る
やはり故郷とは夢であったか
そうではないのだ。故郷と現実はコインの裏表。
妄想が去れば現実は故郷の田園となるのだ。
この故郷と現実が重なった不思議な世界を東洋の仙人は空華と言った。
{ 了 }
2 小麦粉 音風祐介 作
私は死を恐れる。小麦粉が降りかかつた様な白い家の窓から薔薇の花を見つめ、無になった自分を考える。無は変な感じだ。花や石ころの様に、無をみつけることは出来ない。私は頭の中で、私の肉体が消滅することを想像する。並木道の緑の梢に小麦粉の白いふっくらしたあったかさが感じられるが、私は無になる。今、こうして息をし、色々な風景を眺め、思いにふけるこの私が無になる。小春日の美しい光の衣装を着た大地はそれでも、存在し、人類の歴史はさらに進むだろうと私は想像する。だが、私は白い湯気のたつコーヒーを飲みながら、ここで一つの重大な疑問にぶつかる。私の死のあとに、地球の存在を知るのは誰だ、もしかしたら今 銀の箱から取り出したパンにジャムをつけている愛する人かもしれない。しかし、その人の瞳を想像しているのはこの私なのだ。今、こうして私が生きている時でも、私と同じように、多くの人が私と同じように風景を眺め、色々に考えて生きていると今の私は確信している。パリの人はパリで、ニューヨークの人は英語が飛び交う、沢山の人種のいるあの富と優雅さと喧噪を坩堝にした様な所で、私と少しライフスタイルは違うかも知れないが、それでも同じ人間として悩みや喜びや希望と不安をかかえて生きている。しかし、こう確信しているのはやはりこの私の意識なのだ。
美しき空の青さに酔いしれているわが意識よ。無とは不思議な言葉ではないか。。たとえば台所をのぞいても、テレビ、冷蔵庫、ノート、本、時計と無数に続く名詞のあとに、無を仲間に入れることが出来るだろうか。
きらきらと小麦粉の美をまきちらして町の中を歩いていく光の音楽を私は感じながら、この疑問に立ち止まる。
夕焼けの美。野の百合の美とかいう風に美などの場合にはそこに夕焼けとか花とか絵とか風景とかそうした具体的なものがある。ところが無はどうだろう。ことに東洋で話題になるような絶対無などというものはいっさいの物のない状態なのだから、我々はそのイメージすら浮かべることは出来ない。
夕闇が迫る頃にはどこからともなく永遠の町から町へ幸福の吐息が聞こえてくる、ああその時、私は墓石を思いだし、そこに吹く悲しげな風の色を見る。私の墓石の上にもやはり青空が輝き、雨が降り、雷がとどろくのだろうか。笑う人は笑うがよかろう。それならばこの仮定をさらに飛躍させて、五千年後に仮に人類が滅びて、人がいなくなった荒野の地球を仮定してみた時はどうだろう。それでも銀河系宇宙やアンドロメダ星雲や沢山の恒星や惑星が存在することを想像することは出来る。しかし、人類の意識に映らない宇宙の存在とはあると主張しても無いと同じことではないだろうか。ああ、我らの無数の墓石に一輪のコスモスの花が咲くとしても、存在とは意識によってささえられているという仮定がまことだとするならば。そうだ。意識とは無を考えることの出来る唯一の場所であるばかりか、無が存在することの出来る唯一の住処なのではあるまいか。とすると、存在は無にささえられているということになる。
つまり無は創造の場であり、この無があってこそ存在という有が誕生したのではなかろうか。この仮定は今やビッグバン理論によって、無より誕生した宇宙ということで宇宙論の大きなテーマになっていると聞く。
ああ、創造の喜びは今も街角に響いているではないか。町には美しく着飾った人の往来があり、ショーウインドウには背広、靴あるいはガラスの日常品がならぶ。
座禅によって、無を身体で直感した時、東洋人はそれを「空」と表現したのではないか。
座線して、我々人間と周囲の風景の根底にこの「空」がある。スピノザがエチカ
で神と呼んだのはこのことだったのではないか。{了}