ファウストの苦悩

ファウストは嘆きます。哲学も法律学も医学も色々な学問を研究してきたが、結局 真理を知ることは出来なかったし、今後も知ることは出来ないということが自分には分かっている。博士などと人から言われ、十年以上も学生に教えてきたが自分の愚かさが身にしみる。このあたりのファウストの嘆きは人間の知性の限界を知り抜いた彼のような人間だけが言える言葉ともとれましょうし、又 日本の親鸞のように愚禿親らんと自らを宗教的な立場から人間の愚かさを確認した言葉ともとれましょう。

ファウストは言います。このことを思うと心臓がはりさけてしまいそうだと。この絶望はやがて生きることに対する懐疑を生みます。あらゆる喜びを奪われ、世の中の華やかさからは遠い所にいるというファウストの嘆きは老いとも関係あるのだと思います。この時のファウスト博士は何事も思うようにことが運ばなくなり、人生に懐疑を持つようになった哀れな老人に過ぎないのかもしれません。

そこで、ファウストは魔法に身を委ねてみようということになったらしいのですが、現代人の我々にとつて少し飛躍を感じます。ただ、この時代はヨ−ロッパ中世の錬金術が色濃く残っていた時代だということを思い起こして下さい。魔法によって、霊の力を借りてこの世界の奥の秘密の扉を開けて、世界全体を創造している源泉

を見ることが出来るならば 星や地球や人間や動植物が生まれてくる不思議さというものが直感できるかもしれない。そうすれば、言葉なんか必要ではないという

ファウストのここのあたりの気持ちは西欧に発達した理性と科学に対する信頼よりは、むしろ東洋の真理への接近の仕方を選択しているように思えます。東洋では昔から、座禅とか瞑想とか、お経を読むとか、そうした行によって自我を捨てて、世界の秘密に触れることが出来るとしてきたのですから、ファウストの魔法で霊を呼ぶというのはまさに西欧人が重んじた自我,我々現代日本人が信じている自我そのものの放棄と似ていると思われます。

世界の奥の奥で統べているという言い方には西欧人が中心になって、発達させてきた科学によるアトム探し、つまり現代では物は分子から出来ており、分子は原子から、原子は原子核と電子によって、そしてやがて素粒子の世界にたどりついたこの一連の理性の探求の歴史を思わせるものが確かに感じられます。しかし、この時

ファウストが言っている意味はそうしたことを含めて、森羅万象を創造したものは神なのか、それとも何かもっと別の創造エネルギ−のようなものなのかという根本の問い、存在とは何かの方に近いのではないかと思われます。

それはともかく、ファウストは絶望の苦痛から中々 脱することが出来ません。

部屋の机に向かっているファウストは月の光を感じます。眠れない夜中にはこの月光を楽しみにしたものです。ファウストの憂鬱な心の友である月の光とも、今宵最後になって欲しいというまでに絶望した老人の彼は実にみじめな気持ちだったのです。月の光こそ、彼の書物や原稿のうえにその崇高な美を現わしてくれ、彼の心を慰める唯一のものでしたので、彼は色々空想したものです。山の頂上を月光を浴びながら、歩き回れたらどんなに素晴らしいことだろう。あるいは月の光の射し込む洞窟のあたりを霊たちと踊りまわったり、月光のふりそそぐ草原をさ迷い歩いたりして、今までに沢山 頭の中ににぎっしりと詰め込めてきた知識からすっかり解放されて、光に照らされて、暗闇の中に浮かび上がるきよらかな露を浴びれば、この陰うつで暗い気分から少しは健康な身体になれるかもしれない。

悲しいことだとファウストは心の中でさらにうめきます。まだ、この牢獄のような狭い部屋に閉じこもって、この知識に埋まった書斎から逃げることも出来ず、いつまでも不平ばかりいいながら、真理の光明も見出せずにいるとは。部屋の古い壁は穴もあき、あちこちに汚らしいしみが陰気な絵模様を描き、ここへは太陽のあの晴れ晴れしい美しい光さえ、滅多に入り込もうとしないではないではないか。わずかに、ステンド硝子をとおして絵の中に細々と光りを感じるのみだ。本の山はしみにやられ、ダニの住処となっている埃が不気味なほどにつもっている。丸天井は高いし、汚らしくなった瓶や缶が周囲に沢山ならべらていて、様々な器械がある。

そしておまけに、先祖の古い家具がいまだに、この部屋にいくつも置かれている。ファウストはこの部屋が自分の唯一の世界だと思うと、なにかしら空しい思いで、一杯になるのでした。それにしても、これも確かに自分の知る一個の世界なのだろうが、もう少しましな世界に身を落ち着けたいものだと願うのです。

  音風祐介

{ 上の文は少しずつ増やして行く予定です。その間は森鴎外の名訳をお楽しみ下さい}

ファウスト ゲ−テ作 森鴎外 [ 1862――1922 ]翻訳

悲壮劇の第一部

ファウスト

はてさて、己は哲学も Habe nun,ach! Philosophie,

法学も医学も Juristerei und Medizin

あらずもがなの神学も Und leider auch Theologie

熱心に勉強して、底の底まで研究した。 Durchaus studiert, mit heiβem Bemuhn.

そうしてここにこうしている。気の毒な、馬鹿な己だな。

Da steh ich nun,ich armer Tor!

そのくせなんにもしなかった昔より、ちつともえらくはなっていない。

Und bin so klug als wie zuvor

マギステルでござるの、ドクトルでござるのと学位倒れで、

Heiβe Magister,heiβe Doktor gar,

もう彼此十年が間 Und ziehe schon an die zehen Jahr

弔りあげたり、引き卸したり、堅横十文字に、 Herauf,herab und quer und krumm

学生どもの鼻柱をつまんで引き廻している。 Meine Schuler an der Nase herum−

そして己達に何も知れるものではないと、己は見ているのだ。

nd sehe, daβwir nichtswissen konnen!

それを思えば、ほとんどこの胸が焦げそうだ。Das will mir schier das Herz verbrennen

勿論世間でドクトルだ、マギステルだ、学者だ、牧師だと云う、

一切の馬鹿者どもに較べれば、己の方が気は利いている。

Zwar bin ich gescheiter als alle die Laffen,

Doktoren,Magister,Schreiber und Pfaffen;

己は疑惑に悩まされるようなことはない Mich plagen keine Skrupel noch Zweifel,

地獄も悪魔もこわくはない。 Furchte mich weder vor Holle noch Teufel−

その代わり己には一切の歓喜がなくなった。Dafur ist mir auch alle Freud entrissen,

ひとかどの事を知っていると云う自惚もなくBilde mir nicht ein,was Rechts zu wissen

人間を改良するように、済度するように、

教えることが出来ようと云う自惚もない。

Bilde mir nicht ein, ich konnte was lehren

Die Menschen zu bessern und zu bekehren.

それに己は金も品物も持っていず、Auch hab ich weder Gut noch Geld,

世間の栄華や名聞も持っていない。Noch Ehr und Herrlichkeit der Welt:

この上こうしていろと云ったら、狗もかぶりを振るだろう。

Es mochte kein Hund so langer leben

それで霊の威力が己に分かろうかと思って、

己は魔法にはいった。

Drum hab ich mich der Magie ergeben,

Ob mir durch Geistes Kraft und Mund

その秘密が分かったら、辛酸の汗を流して、

うぬが知らぬ事を人に言わいでも済もうと思ったのだ。

Nicht manch Geheimnis wurde kund,

Daβ ich nicht mehr mit sauerm Schweiβ

Zu sagen brauche, was ich nicht weiβ,

一体この世界を奥の奥で統べているのは何か。

それが知りたい。そこで働いている一切の力、一切の種子は何か。

それが見たい。それを知って、それを見たら、

無用の舌を弄せないでも済もうと思ったのだ。

Daβ ich erkenne, was die Welt

Im Innersten zusammenhalt,

Schau alle Wirkenskraft und Samen

Und tu nicht mehr in Worten kramen

ああ。空に照っている、満ちた月。O sahst du,voller Mondenschein,

この机の傍で、己が眠らずに

真夜中を過ごしたのは幾度だろう。

この己の苦をお前の照らすのが、今宵を終であれば好いに。

Zum letzten Mal auf meine Pein,

Den ich so manche Mitternacht

An diesem Pult herangewacht

悲しげな友よ。そう云う晩にお前は

色々の書物や紙の上に照っていた。

Dann uber Bucher und Papier,

Trubselger Freund, erschienst du mir!

ああ。お前のその可愛らしい光の下に、

高い山の背を歩くことは出来まいか。

Ach! Konnt ich doch auf Bergeshohn

In deinem lieben Lichte gehn,

霊どもと山の洞穴のあたりを飛行することは出来まいか。

Um Bergeshohle mit Geistern schweben,

野の上のお前の微かな影のうちに住むことは出来まいか。

Auf Wiesen in deinem Dammer weben,

あらゆる知識の塵の中から蝉脱して、Von allem Wissensqualm entladen

お前の露を浴びて体を直すことは出来まいか。In deinem Tau gesund mich baden!

 

ああ、せつない。己はまだこの牢獄にちつしているのか。

ここはのろわれた、鬱陶しい石壁の穴だ。

可哀らしい空の光も、ここへは濁って、

窓の硝子画を透って通うのだ。

この穴はこの積み上げた書物で狭められている。

しみに食われ、塵埃におおわれて、

円天井近くまで積み上げてある。

それに煤けた見出しの紙札が挿んである。

この穴には瓶や缶が隅々に並べてある。

色々の器械が所狭きまで詰め込んである。

お負けに先祖伝来の家具までが入れてある。

やれやれ。これが貴様の世界だ。これが世界と云われようか。

 

貴様はこのな処にいて、貴様の胸の中で心の臓が

窮屈げになやんでいるのを、まだ不審がる気か。

あらゆる生の発動を、なぜか分からぬ苦しみが

障がいするのを、まだ不審がる気か。

神は人間を生きた自然の中へ

造り込んで置いてくれたのに、

お前は煙と腐敗した物との中で、

人や鳥獣の骸骨に取り巻かれているのだ。

さあ、逃げんか。広い世界へ出て行かぬか。

ここにノストラダムスが自筆で書いて、

深秘を伝えた本がある。

貴様の旅立つ案内には これがあれば足りるではないか。

そして自然の教を受けたなら、

星の歩みがお前に知れて、

霊が霊に語るが如くに、

貴様の霊妙な力が醒めよう。

いや、こうして思慮を費やして、

この神聖な符を味っていたって駄目だ。

こりゃ、お前達、霊ども。お前達は己の傍にさまよっていよう。

己の詞が聞こえるなら、返事をせい。

{書を開き、大天地の符を観る。 }

や。これを見ると、己のあらゆる官能に

忽ちなんとも言えぬ歓喜が漲る。

 

  { つづく }