残暑見舞いを書こうとしていたら、そこで時間がストップしてしまった。

 

山紫水明の中に包まれ、陶然としていると大自然の深みが感じられ、表現しようとする言葉がないと書いた昔の詩人から既に千年の月日が流れ、情報化社会という様なプラスとマイナスの両極端を持った文明の中に我々は迷いこんだようで、この暑さも平均で三度も上昇とか、 日本国内では不況、アメリカは建国のリベラルな自由・平等の精神を忘れたのか、グローバリゼーションと不安を突きつけ、平和を祈る人達に とって、我々はどこから来てどこへ行くのかとかのゴーギャンのあの問いに身の引き締まる思いになる作今、いかがお過ごしでしょうか。日頃の筆不精の失礼をお詫びしてとまで書き、残暑見舞い が変な文になってしまったと思った途端、胃の痛みに見舞われた。この間 友人と外で一緒に飲んで又 帰ってきてビールや酒を飲んで、それが飲みすぎで、それが胃に来たらしいと思い、医者に行ったら、早速 胃カメラで検査しましょうということになった。私の友人で十年以上も前に胃カメラをのんだ人がいて、その人の話を聞いていたのだが、どうもその話が楽しい話でないので、どうも私は自分も始めて胃カメラの検査を受けることになつて、その日がなんだか怖くなったのである。清水 の舞台から飛び込むような気持ちというか、まな板の上の鯉になったというかそんな気持ちで、朝 医院を訪れると美人の看護婦さんがやさしい微笑で右と左の腕に注射したり、のどに麻酔したりしたが、つい彼女の美しい微笑に胃カメラ恐怖症など吹き飛んでしまった。医者もおはようございますと気持ちの良い挨拶で胃カメラをのどに入れることになったが、これは殆ど苦痛というよりは快適という方に近く、ディスプレイに映る私の胃や腸の説明を聞いている内に、やはり医学は凄いと思い、最後に綺麗ですね、怖いものは何もありません、まあ、ちょっとした胃炎ですよと聴くと何だか天国の階段をのぼっていく気持ちがして、帰りの電車では おばあちやんに席をゆずったり、肝臓も大丈夫と言われたことを思い出し、今日も生ビールを飲めると思ったものだ。

 

さて、そういうわけで、ここを訪れてくれる人達になんとか感謝の気持ちをこめて残暑見舞いを書こうとしている内に秋の気配が感じられてきて結局 電子メールで出すことはしないでホームページに掲載することにした。

残暑見舞いなのだから、このあたりで筆を終えるのが礼儀なのかもしれないが、私は長編小説を書いているせいか、どうも短い文章というのは寂しいのだ。それで又、余計なことを書くかもしれませんが、どうぞお許し願いたい。

その長編小説なのだが、今の所 日の目を見ることはない。だから、ハリー・ポッターという本が無名のイギリスの中年女性によって書かれ、一躍ベストセラーになり、聞く所によると、一億人以上の人に読まれたとか。私も随分と推敲を重ねているつもりだが、いったい何人に読まれたのだろうかと数えると、まるで雀の涙。まあ、才能の差だからとか、まだ時が来ていないのだとか、まだ自分の中にある創造の金鉱を発見できていないので、しばらく待てとか、色々言い訳しているのだが。

お札に樋口一葉がのることになった。彼女は二十四歳で死んだとか。その若い年令であれほどの文学を築くとはやはり天才なのか。ただ、待てよ。あの年令で優れた小説を書いた人は世界にいるのかな、と余計な妄想が私の貧しい心を走り抜けた。日本ではまず他に心あたりはない。なにしろ、芥川龍之介の友人 菊池寛あたりは四十以下で小説書いてもろくなものはないと言ったとか。しかし、広い世界を見渡せば、と思うとこれも殆ど心当たりがない、フランスのラディゲがわずかに記憶の隅に現われるが、大小説はみなそれ相応の年令と経験がもの言っていると思った。ドストエフスキーとトルストイと名前をあげるだけ野暮だ。所が詩人となるといるのだ。ランボーの優れた詩は十代後半だし、イギリスロマン派の大詩人キーツは二十代前半でシェイクスピア並みの才能と言われる様な優れた詩を書き、そのあと直ぐに死んでいる。詩はやはり、若い方が有利なのかと思っていると、ドイツの詩人リルケは詩は感情ではない、経験だ。様々な経験をして悲しみ、苦痛、喜び、そうしたものを経験して忘れ、やがて思い出す、そういう時に一滴の優れた詩句が生まれるのだと言っていたように思う。

なんでこんなことを書くかというと、今の様な情報化社会でまず優れた価値観を確立しないと優れた小説をかけないのではないかという気持ちがあるからだ。人類の文明が始まって五千年、情報化社会というのはこの中で今始まったばかりで、まだ 二十年と少しばかりしかたつていない。【テレビが始まった時代から数えれば、もう少し長くなるが、私はこの激しい情報化社会はビデオ、インターネットあたりから数えたほうが 分かりやすいと思っている】この情報化社会では優れた価値観を見出すのが難しい状況にあるというのは私の周囲にいる青年諸氏を見ていて感ずることだ。昔は感性だけでも、小説がかけたかもしれないが、私は今は感性だけでは優れた小説は生まれないと思っている。それが証拠にこの二十年ぐらいに限っても良い、そんなに優れた作品が青年諸氏の間から生まれたということを聞いたことがない。青年諸氏はまず、優れた価値観を確立すべきなのだ。そうでなければ、せっかくの才能も開花しない。

時代は不況。犯罪の多発、人間不信、経営者や官僚あるいは政治家の無責任。こうした形で情報化社会はいわゆる大人たちをも混乱に陥れ入れている。人生の方向を見定める青年諸氏が迷うのは当然ではないか、今の公立学校でそうしたものは教えない、知識の切り売りだけが横行しているからだ、そのあげくに受験競争。

幸いにして、優れた指導者を得て、優れた価値観を得て、まれにみる文芸の才能があった時に樋口一葉の様な文学が開花する。それなのに、そうしたことをわきまえずに、商業ペースにまきこもうと青年諸氏をまどわす ごく一部の大人には慨嘆があるのみ。

優れた価値観はどこにあるのか。私はそれは伝統の中にあると思う。いつだったか、私はある駅の前で、アンデス山脈のあたりから来たという楽団のかなでる音楽に触れて,思わず感動のあまりそこに立ち尽くし、呆然とそのラテンの響きに心身を任せたことがある。

彼らの風貌は文明の中で教育を受けたというよりはアンデスの土着の匂いを感じさせる衣装、顔立ちだったが、アンデスの伝統は私の魂をそのアスファルトの広場に釘付けにする様な「美しい何か」があった。その「美しい何か」とはアンデスの伝統の中にはぐくまれてきた価値観のエキスみたいなものなのではなかろうか。

今の文明の中で中心になっている価値観<金銭、物、競争、スピード、肩書きなど>とは正反対のもの、愛とか慈悲とか友情とか美とか静けさとか、生命とか、霊とか花とかそうしたことに重心を置いた価値観があのラテンの音楽に含まれていたのではないか、魂を揺り動かす霊的な音楽とは文明でほめそやされている価値観を嫌うのだ、だから、あのアンデスの人達は一見 貧しそうで 、豊かな精神の響きを持つ音楽を町に響かせ、都市の雰囲気を素晴らしいものに変身させてしまう力を持つのだろう。

【念のため−−私がこの文で使っている青年諸氏というのは 十代後半から二十代前半、つまり高校生、大学生ぐらいの人を指して使っている積もりです】

                 音風祐介