空華の現象学

1「 空 」の本当の意味

森羅万象はそのままで、空である。これが「色即是空」の「即」を正しく受け取った解釈である。つまり、目の前にある山も海もビルも部屋の中の家具などのあらゆる調度品もそのまま「空」である。美しく鳴り響く音楽も「空」である。これは理屈の上で考えると奇異な感じがする。しかし、座禅していくと、それが直感で納得するようになる。

しかし、いくら「空」だからといって、目の前に自動車が走ればそれを避ける。これで「空即是色」ときて、この二つの言葉が合わさって現象の真実を表現できる。

これは有名な言葉なので、日本人の多くがなんとなく分かっているような言葉なのであろうが、「空」の意味を厳密に考えている人は少ないのではあるまいか。

たとえば、自分。この手、この足、この顔。みんな空である。空とは無に近い言葉である。

私の部屋のあらゆる本、机、沢山の文房具が空であるとはどういうことか。つまり森羅万象は無に近い何かであるが、私は呼吸をしている。呼吸をしているから、森羅万象は現象している。つまりこの無に近い何かが呼吸をして、生きて、森羅万象が現れる。

この無に近い何かである「空」は生きているので、これを仏という。無に近い何かは生まれてくるものではないので。これを「不生」といい、「不生」であるから、「不滅」である。

つまり「空」とは永遠のいのちを持つ仏であって、今 私の呼吸にそのいのちの働きを示している。呼吸があれば森羅万象は現象する。

だからこそ、道元は「生死は仏の御いのちなり」と言ったのだと思う。人間が生きて死ぬということも「空」という永遠のいのちを持つ「仏」の手のひらの上の出来事なので、私たちの息はその意味で不滅で、息たえて死に消滅するように見えても「空」の中にいのちとしてたくわえられ、次の現象を待つ。太陽も地球も森も川も人間のつくったあらゆる物も、その時 現象するのであるが、それは仏が姿を現したのである。これを「空華」という。

2空華

物が現れるということこそ空華である。この空華こそ宇宙の真理である。なぜなら先程、説明したように空華とは仏が姿を現したものだからです。

物が現れること、つまり現象することは我々人間の周囲にごく普通に、ごく当たり前のように見られる。山や川、海という様な自然から、家の中には時計、机、椅子、布団、本、冷蔵庫には野菜、米、パン、牛乳とこうして上げていくと大変な数になる。

たとえばお米、お百姓さんが収穫した米、店頭に売られている米、台所の水道で現れた米、食卓のお茶碗によそられたご飯、口に入ったご飯というように、同じ物でもこの様に変化をしていく、これは別にお米に限らない。同じ大きな石で変化しないように見えても、夕日に照らされた石、夏の日にじりじりと焼かれている時、雨に洗われて濡れた石、太陽を木がさえぎり、その影が落ちた石と石は様々に現象しているのである。

この時、どれが一番正しい石か問うても意味がない。その時、その時に現れた石がそのまま真理の表現なのである。

これを西欧哲学では「私」は「認識」という道具を使って、「対象である客観的な物」つまりこの場合は石を正しく認識できるかどうか、これは難問だと考えるのである。

私が見た石と客観的にある石とが同じ物かどうか分かる手段はないと哲学がいう時、東洋では古来、目に映った物しかないと答える。目に映った物が「空華」であり、それが真理である。つまり、光の中に石が現れる、これを「空華」という。ただここで注意して欲しいのは石を空華とした時、そこには私も認識道具もなく、つまり無我の状態で、ただ「石」だけが「空華」として存在するのみである。

3 沈黙は真理を開示する

昔の人は谷川の水やバラの花から悟りを得た

しかし、谷川の水と水道の水は違う。谷川の水には無限の開示があるが、水道の水はどうか。おそらく水道の水にも無限の開示があるのであろうが、人間は塩素で消毒された飲み水という概念、水素と酸素の結合によって出来た概念に限定してしまう。 

そして、この概念をつくり知性を働かせるという中に、自我と対象の分離があり、物を対象化するということで、真実の「空華」を見失う。

現代人が、まずフロッピーや時計や車やテレビから悟りを得ることは殆どありえない。現代では沢山の人工物が氾濫している。この人工物につけられた名前は限定された意味で使用するもので、それだけの内容でしか人に把握されない。ここには「空華」はなく、「道具」としての物だけがある。

水は飲むもの。現代では自然のものも人工物と同じように、道具的なものとして人は感じるようになった。

ところが、心を静かにして、我々の周囲の人工物や自然の物を素直に見ていく時に この狭い限定された道具の名前がはぎとられる時がある。 そこには沈黙があり、「空華」が開示される。

西欧の哲学者サルトルはそうした名前をはぎとられた物から、「嘔吐」を感じたらしいがそれは人が物を対象化した上で物の名前をはぎとっているからだ。自我と対象が分離し、自我が物を対象化して見ている中で、物の名前がはぎとられれば誰でも気持ち悪くなる。

東洋では物を対象化しない。コップを対象化し、その道具性や名前をはぎとったら「嘔吐」しかないだろう。

東洋ではそう考えない。

コップには沈黙があると考える。 このコップの沈黙というのは「私」と切り離された「コップ」ではない。「私」と「コップ」はとけあっている。昔の東洋ではこの様に、私とコップは 区別がないところまで、自己を忘れていく。

こうして、コップは沈黙によって、全宇宙を開示する。それは神・仏が現れたといっても良い。絶対者の現れと言っても良い。つまり「空華」である。

私と一体になったコップは「空華」であり、語り得ぬ、分析できぬ、

不生不滅のいのちの世界を開示しているのだ。

空華カルチュア{ culture }

アドレス karonv@hi-ho.ne.jp 

代表 音風祐介