夏の迷路                

なんの変哲もない町だが、道がまるで迷路のようだ。道はひどく曲がりくねっていて、初めて来る者はたいてい道に迷う。私は自転車のサドルに腰をかけ、右足をアスファルトにつけ、小綺麗な医院の庭に咲いている大きなひまわりを見ながらそう思った。

私は夏の灼熱の太陽で、額から背中にかけて玉のような汗が吹き出ている。このような蒸し暑さが排気ガスとミックスされた異様な空気の中では時に冷静さを失うのかもしれない。

私は碁盤の目のような明快さを持った緑多い道を懐かしく思い出した。若い頃、行ったカナダの町がそうだった。私はしばらく ひまわりの種子が螺旋状に見事に配列しているのを何か仏像でも見るように見とれた後、すぐに又 町の中をひたすらペダルをこいで再び電気屋のそばで自転車を止めた。どうも道を間違えているらしいと私は思った。というのはその電気屋は先ほど、通ったからだ。

沼のある公園を探しているのだが、前に一度しか来ていないせいで道がうろ覚えである。その沼には 私の息子が早くから釣りに出かけているのだ。

電気屋の中に客がいて、その客がうっかり入り口を開けっ放しにしたらしく、そこから私の所に店の冷房の風がひんやりと伝わってくる。テレビの音も聞こえ、台風の目が南方に発生したと伝えていた。私がちらりと店の中のテレビの画面に目をやると、気象地図が画面に大きく出て、台風は雲のない中心の目の周囲に渦巻きになった雲が取り巻いて、まるで日本列島を狙う生き物のようだった。

私もさっきからこの台風の渦巻きのように、同じ道をぐるぐる回っているような気がしてきた。これでは自宅に引き返した方がよいかなと思った。別に、息子に急ぎの用事があったわけではない。私も久しぶりの夏休みを家ですごしていることに飽き、プールにでも行こうかと思ったのだけれど、中年になってから一人でそういうところに行くのが億劫になったから不思議だ。そこで、出きれば小学校五年生の息子を誘えればという気持ちもあったし、釣りに慣れない息子が友人とどんな風にこの炎天下で釣りをしているのか、その様子を見たいという気もあった。

だが、引き返すと言っても、引き返す方角も分からなくなつている。誰かに道を聞く以外にないと思ったが、そういうことは臆病だった。

電気屋から聞こえてくるアナウンサーの声はその日も三十六度になるだろうと言っていた。私の頭に異常気象という言葉が浮かんだ。この暑さは普通でない。

都会では、アスファルトの照り返しや、ビルの冷房による熱風が外に吹き出てくることも関係しているのであろうが、あちこちで熱中症による死者が出ていると報道していた。私はしばらく電気屋のドアの隙間から流れ出てくる涼しい風に身をまかせていたが、客が出ていくと、店の人は堅くドアを閉めた。

私はわずかの影になっている石畳の所にいたのだが、風がとだえ、目の前に砂漠のように広がる強い光に照らされた炎天下の道路を見て、再び決意するかの様に沼をめざした。しかし、目指す沼は自転車をこげばこぐほど道が分からなくなる。私はやはり方向音痴なのだと思い、地図を持ってこなかったことを悔いた。

と同時に、熱中症で死者が出るほどの暑さの中に釣りに出ている息子のことが心配になった。ただ、帽子と傘、それに充分な水も持たせているという思いも湧いた。

息子は近視になりかけていた。目医者で仮性近視だと言われ、私はファミコンのやり過ぎだと注意してファミコンを夏休みの間、禁止することを宣言した。

それで息子はいつも付き合っているファミコンの仲間を敬遠して、普段付き合わない釣りの好きな友人を誘ったらしい。私は最初 喜んでいたが、この炎天下の中で自転車をこいでいると色々と不安になり、ふと家に電話してみた。

二時少し過ぎという時間から、姉の美枝子が部活の卓球から帰っている可能性がある。彼女が沼の方角を知っているかもしれないと思いながら、受話器の中に響く声に耳をすますと、意外にも電話に出てきたのは 探している息子の声だった。

近くにカラスが舞った。その鳴き声が何か鳥としてはぎこちない感じで、まるで人間がカラスのまねをしている様な錯覚を感じる。ひどく人間くさいものだった。

あたかも、町の人々に「皆さん、今日はひどく暑いですね。カラスだって、こう暑くちゃ、飛んでいるのも楽じゃないんですよ」とでも言っている様な鳴き声に感じられて、私は妙におかしくなった。

  私は帰ろうと思ったのだが、ふとめまいを覚えた。そこで近くの道路ぞいにある細長い公園のベンチでしばらく休もうと思った。

 木影になっているベンチがあったので、私はそこにどさりと座った。私は今朝 早く起きたこともあり、探し回った疲れもあったのかそこで一瞬の睡魔におそわれ、うとうととしたが、女の声にはっとした。

「沼に行く道を教えてくれませんか」

 私ははっと驚いて、彼女の顔を見た。中年の品の良い顔立ちをして、化粧の中から ほんのりした微笑が漂っていた。彼女は白い日傘をさして、時々それをくるくる回していた。

「私も沼を探しているのです」と私は言ってから、既に息子が自宅に帰ってしまって いるので沼を探す必要がないことを思い付いた。しかし、それを言い出す前にその女は早口に色々 喋り出した。私はなんとなく彼女の言葉に抵抗できずに、一緒に 沼を探そうという気持ちになっていた。

この暑さとは不釣合とも思われる彼女の真紅のスーツやソプラノに近い声や長い髪の下に見え隠れする金のイアリングに、私は多少の困惑を覚えながらも何か得体の知れない魅力を彼女に感じていたのだ。

私は長い間 探していた友人に出会ったような気持ちになり、沼は又、息子が行く機会もある場所だから、この際、きちんと道を確認しておくのも悪くないと考えた。それで、一緒に行こうと私はベンチから立ち上がり、自転車のハンドルに手をかけた。その時、ふと私は彼女が徒歩で沼を探すつもりだということに気がついた。

 私は自転車で探すのが当然と思っていたから、彼女につきあい、自転車をひきずりながら、徒歩でこの炎天下の中をさがしまくるのかと思うとやはり断れば良かったかなという淡い後悔の気持ちも起きた。ところがしばらく一緒に歩いていると、

 彼女は「郵便局に用事がありますのよ、お付き合いしてくださる?」と言った。

冷房のきいたところに入れると思い、私は笑顔で頷いた。郵便局ではテレビを客に見せていた。私はぼんやりそれを見ながら、彼女の用が終わるのを待って、ソファーに座った。テレビでは又 このひどい暑さのために熱中症にかかる人が続出して、そのために三十五人が死んだし、交通事故も多発していると伝えていた。

私のつかの間の友人は速達を出すと金を引き出しているようだった。それが終わると私達は外に出た。彼女は直ぐに日傘をさしたが、私は又 自転車をひきずり 郵便局から出たあとの眩しい程の強烈な光線にげんなりしながら、彼女にこの暑さが地球規模で起きている公害による異常気象と関係があるのではないかと話しかけた。彼女はそうだと言い、オゾン層のことについて触れ、そういう方面にも彼女が知識を持っていることを誇示するかの様にやや詳しく喋った後、私の様に皮膚を出して、焼いてばかりいると皮膚ガンになりますよと言った。私は水泳で焼いた自分の黒い腕を見た。

郵便局の隣は薬屋だの文房具店だの酒屋などが並んで、小さな商店街の一角を作っていた。

 彼女はコンビニの前に来ると、用事があると言って中に入った。私は猛暑の中から 一転してひんやりした冷気に包まれ、ハンカチで額の汗を拭った。

彼女は飲み物などを買うと、私にカンジュースを渡し、そこで飲みましょうと言った。私はその時、自分がのどが乾いていることを思い出した。彼女は一気に飲んでしまうと店員に沼の場所を聞いてくると言った.

私はコンビニの隅の椅子のところで、ゆっくり喉の中をうるおすようにしてジユースを飲み、なにもかも忘れる思いだった。それ程、ジュースは私に生命の気を与えたかのようだった。私は天国を見るようにコンビニの中を見た。

その時、ガラスの外の雲の動きが急に激しくなった。黒雲もまじっている。私は 夕立が来るなと思った。彼女が私の所に来て、沼が意外に近いと言った。私達が コンビニを出た時に、ゴロゴロという雷の音が遠くにした。

 私は傘を持ってこなかったし、おまけに雷は嫌いだ。息子が家にいるのにこの女に つきあって沼に行く必要はないのだと思った。

 私はその気持ちをやんわりと彼女に伝えると、彼女は傘はあると言って自分の持っ ている日傘の他に、黄色いカバンの中から小型の折畳み傘を見せた。雷のことにつ いては彼女は雷は好きだと言った。私はこの彼女の発言にはちょっと驚いたが、ち ょっと変わった女性だと思って雷が好きな理由を聞いた。彼女はまず稲光の美しさ について喋り、光というのは宇宙の神秘だと言った。

  あの光の巨大な筆のタッチが螺旋状の帯を大空に描く時、彼女は原始の喜びに 浸ることが出来ると目を輝かした。その喜びを味えないで、こわがっている人は 気の毒だと言った。

 私が何か質問しようした時、一瞬、稲光が空をおおって、直ぐに雷がゴロゴロと強 い音をたてた。いつの間に黒雲が多くなっていた。あの音も嫌いだと私が言うと、 彼女はあんな気持ちの良い音はないと言う。私はそれでも雷の落ちた時の音は凄ま じいもので、時に鼓膜がどうかすることがあるくらいであの音は誰でも好きになら ないだろうと言った。ところが彼女は微笑して、快感を感じると言った。私はちょっとあっけにとられていると、頭にポツポツと雨が降り出した。稲光が頻繁に空に 広がるようになり、私は不安になった。彼女は私に例の傘を渡した。傘は白い布に 沢山の花模様があって、その花の上に仏様だの観音様だのが沢山 描かれていた。

 私はその傘を頭上にさすと、なんだか 妙な気分だった。

 それからしばらく歩くとそば屋が見えた。私がひや麦を思い浮かべたその瞬間に、すさまじい雷の音がした。大砲が近くに打ち込まれた様な音に私は生きた心地が しなかった。私は生来、音には敏感であり、臆病でもあった。

「沼の方に落ちたみたいよ」と隣の女は落ち着いた調子でそう言った。

 私はどうしてそんなことを判断する余裕があるのか分からなかったが、どうもこの女は人並外れた直感力と動物の様な鋭い感覚を持っているように思われるようになった。私は沼に大木があることを思いだし、そのことを話題にすると彼女は微笑し て、その大木がやられたのかもしれないと言った。そして彼女はあの大木には沼の 神がとじこめられていたので、この落雷によって沼の神は外に飛び出すことが出来て、気分がせいせいしているに違いないと言った。

「沼の神は異様な大男でね」と彼女は歩きながら笑った。「胴体に比べて異常に頭が大きくてね、頭はひどく良いのだけれど、衛生観念がない、髪はまるで草原の様にはえほうだい、その長い髪は腰までかかる始末なの、そして、何と言っても皮膚も不潔で、沼に長く住んでいるせいか、泥とプランクトンで異様に変な色をしていてね、目は人の心をさすような鋭い光があったが、なまけものという動物の様にいつも寝てばかりいたわ」と彼女は説明した。

ちょうど、道の横にひなびた神社があった。私はいつもなら殆ど気にもとめない神社がその時、妙に気になった。空は稲光がしずまり、雨は本降りになっていた。

 私達は小降りになるまで、さい銭箱のある神社の軒下で傘をさしながら、境内の樹木に激しく降り注ぐ雨の様子を眺めていた。時々 ゴロゴロという遠雷の音がその時は気持ちよく聞こえて、私も彼女の気持ちが少し理解できるようになったことが妙にうれしかった。

 彼女は「ここですよ。その沼の神を祭っているのは」と言った。「昔の沼は水が澄んでいて、美しい湖のようで、沼の神はかっては神々しいくらいの容姿を誇っていたのです。でも、失恋の痛手から身を清浄にする修行をおこたり、しだいに恐ろしい顔と身体つきになってしまいました。しまいには顔の皮膚はまるで百才を越える老人の様にしわくちゃになり、服装はいつもどん底の貧乏画家の様に原色のすべてを絵の具で目茶苦茶にぬりたくったジャケットとジーンズをはいているような具合でした。その不潔さに嫌気をさした、多くの神々によって村八分になって、ついに あの大木にとじこめられたというわけなんです。それでも、村の人は沼の神を気の毒に思ってね」

 雨は意外に早く小降りになり、私と彼女はお参りをしてから神社を出た。

 そのあと小学校の横の道を抜け、床屋と豆腐屋が並んで滑り台のある小さな公園に面したアスファルトの道を抜けると左右に住宅地が十メートルほど続いた後、とうもろこしのうえられた小さな畑になっていて、その先は樹木のうっそうとした沼のある広い公園に出た。

 学校のプールほどの広さの沼は殆ど楕円形をしていたけれど、水はどんよりとした緑色をしていて、周囲に五人ぐらいの人が釣りをしていた。しかし、私はその中に 一人で釣りをしている息子の姿を発見した時はひどくびっくりした。彼は私に気がつくと、ちょっとはにかんだ笑いをしたが、又 釣糸の方が気になるのか視線をそこに移した。

 私と一緒に来た女はやはり大木が倒れていると歓喜ともとれるなんともいえない声をした。周囲にいる大人や子供はむしろ残念がっている様な沈痛とも驚きともとれる様々な表情をして見ていただけに、私はこの彼女の声にひどい違和感を覚えた。

 まさか沼の神が解放されたなんて本気で思っているのだろうかという疑いの心が私にあったからだ。

 私が息子に近付いて話をしていると、彼女も近くにきて会話の仲間に入ろうとした。 彼女は私の耳元にささやいた。「この子よ、沼の神は。今、大木から解放されて 釣りをしているのよ」と言った。私はあっけにとられて、多少彼女の頭を疑りながら、例の品の良い彼女の微笑と中年とは思えない澄んだ奥深い瞳を見た。

 「友達は?」という私の問いに、息子は「もうすぐ来るよ、その友達が大木が倒れたと教えてくれたんだ」と息子は答えた。

 しばらく私と彼女は沼の周囲にはえた草むらの間に、黄色い小さな花があちこち沢山 咲いていることを話題にしてから、息子のそばを離れ 例の大木を見に行った。

 私も一度だけ、倒れない前の立派な大木の姿を見たことがある。人間の背丈の二倍ほどのところまで、太い幹が地上にまるで巨人が永遠につっ立っているかの様にそびえ、そこから上は四方八方に枝別れしていて、その枝がまがりくね り、杉の葉を一面につけている様はまるで巨大な蜘蛛の巣のようだった。

 それが今は太い幹の真ん中から裂け、片方が横倒しになり、片方は傾きながらも なんとか大地にくっついているという感じだった。

 「樹齢三百年だ。私が沼の神にひじてつをくわして、沼の神がここにとじこめられて、はや三百年。私も沼の神がかわいそうになってね。雷神を呼んだのさ。あの子は沼の神だ」と彼女は私には正気とは思えないことを、独り言の様に私の耳元で ささやいた。

その内に息子の友人がやってきて、息子の横に並んで釣糸をたれた。空はすっかり晴れ上がり、元の強烈な太陽が輝いていたが、空気が夕立で洗われたせいで公園の緑も沼もなんなくさわやかな光輝さにあふれているように感じられた。

 私は今まで大事な質問をこの暑さですっかり忘れていて 今 突然思い出したかの様に、彼女に「沼にどんな用事があって、いらっしゃったのですか」と聞いた。

 彼女は笑って、「ええ、あたし、趣味に童話を書いているんです。今度は沼を題材にしたかったのです。貴方と話していると、とても空想がふくらんできて、私 歩きながら もう夢中になって童話の世界に入ってしまいましたの。でも、楽しかったわ。こうして構想を考えていると、現実と空想がごっちゃになって、どちらが現実でどちらが空想の世界なのか分からなくなるのね。特に今日みたいにひどく暑い日にはね」と言った。

 ふと、気がつくとミンミン蝉が狂った様になき始めていた。

                             [了]