「南京の基督」を鑑賞して

キャスト

岡川 龍一郎 家輝{ レオン・カーフェイ

金花 富田 靖子

キリスト マーク・カスバーク

スタッフ

製作 大里洋吉

冠昌{レナード・ホー

監督 *區 丁平 トニー・オウ

 

映画を見終わった後、感動と何か出口のないやりきれなさの入り交じった複雑な感情がしばらく続いた。映画は見ごたえのある作品である。この映画は題名からも分かる通り、原作は芥川龍之介の小説である。私はこれを青春の一時期に読んで深い感銘を得ていたので、

最近 店頭に並んでいたDVDのソフトを見て映画ではどう製作されているのかという小説との比較に興味をそそられて購入した。

当たり前のことであるが、映画ではあの芥川の緻密な文章を味わうことは出来ない。その代わり、昔の中国の何か郷愁をそそる様な風景を映像でふんだんに楽しめる。男と金花の純愛も非常にひきしまっていて、見る者に楽しみと緊張感をミックスしながら、感動に導いていくテクニックは心にくいばかりだ。映画のストーリーの内容は小説と少し変えてある場面がいくつかある。

小説では薄幸な金花の純粋な信仰に力点がおかれているのに対して、映画は恋愛に力点がおかれている。一番 衝撃的なところは最後 金花が愛する男の胸に抱かれて死ぬところである。小説ではそんな場面はない。小説の金花は ハピー・エンドである。嫌な病気がキリストのおかげでなおったからだと金花は信じているのだから。それが、彼女の誤解にあるかもしれないというあやうさを指摘した文面で終わってはいるが。

その点、映画は金花を愛する日本の男が金花を日本に連れて行き、彼女のかかった嫌な病気を治そうという努力の過程で金花は死という悲劇に見舞われる。それが後に、男の自殺とつながっている。この男は芥川龍之介そのものなのだろう。小説ではこの男に似た人物として若い日本の旅行家をちょっとだけ登場させている。小説の内容を忘れた方のために、この文の最後の所をクリックしていただければ 芥川の名文が出てくるようにしてありますので、よろしく。

 

「わたしは復活であり、いのちである」とキリストは言われている。私の考えではこのことがキリストの本質だと思う。つまり、永遠の生命が人間の肉体、イエス・キリストとなったのである。永遠の生命は形のないものである。その形のない「いのち」が人間という形をそなえた生き物になったのである。こういう考えは仏教にもある。たとえば禅の曹洞宗では「ただ、座禅すれば 人はそのまま仏になる」という。仏とは何かというのも難しい話だが、簡単に言えば 真理に目覚めた人。つまり、永遠の生命によって自分という肉体がつくられていることを直感で悟った目覚めた人を仏というのであろう。

私の「ホーム・ページ」の主題である「空華」も「空」という永遠の生命が形のある「華」となることを示しているのである。

森羅万象は「空華」である。つまり森羅万象は 「永遠の生命」が形をなして、山となり、川となり、海となり、人間や動植物となり、建物となり、飛行機となるのである。

すべての存在がそうなのだ。そこの所を鎌倉時代の天才的な宗教者 道元は「悉有は仏性なり」と言ったのではないか。このことは、西欧哲学の様に主観と客観を分離して、客観を対象化して分析をすすめていく方法では決して把握できないものと東洋では教えるのである。

さて、その視点から、この芥川の作品を見てみよう。金花は小説の旅行者の言うように、ただ昔の西洋の伝説のようなキリストの夢を見ているだけなのであろうか。酔いどれて一晩、金花の夜を訪問した品の悪い外国人をキリストと錯覚しただけなのであろうか。映画はその様な考えで話がすすめられている。しかし、小説ではその部分の想像は読者にまかせてある。

上記の私の視点にたてば、人はある瞬間 仏やキリストのような慈悲と善の働きをすることもあるのであり、一方 悪魔の様なこともすることはナチスばかりでなく、現代でもコソボの悲劇でもよく分かることだ。・・・・・・・・・・・・・・・

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ただ、こういうことは言えるのではないかと思う。金花は文字も読めないほど、無学である。このことが彼女の信仰とどうかかわってくるかという問題が残る。大昔の人も昔の人も知識のない人の方が多かった。その時のキリスト教が天地創造の神という風に神を対象化した方が、庶民に分かりやすかったということはいえると思う。しかし、現代の様に知識過剰の世の中になると、こうした対象化された神は信じられなくなる。つまり、ニーチェの言うように「神は死んだ」のである。

しかし、最近 キリスト教会内部でも、こうした対象化された神ではなくて、瞑想とか座禅をとりいれた方法などで、東洋の禅的手法を取りいれて、神を我々人間の中に取り戻そうという動きがある。

キリストの言葉を新約聖書で素直に読むと、禅の達人の言っていることと同じと思うことがしばしばある。

さて、この様にキリストを多面的にとらえていくと、金花の信じたキリストとは何か。そして、芥川の絶望は何だったのか、興味をそそられる課題が残る。

金花は対象化された神とその神の子であるイエス・キリストを信じたのであろうか。確かに、彼女は幼い時に、そのように教えられたのであろう。しかし、彼女はキリストを信じ、愛した。この時、もはや対象化された神ではなくなって、キリストは彼女の中に住んでおられるという考えが成り立つ。これが信仰と愛の秘密ではないかと思われるが、いかがであろう。{ 音風祐介 }

 

 南京の基督 {芥川 龍之介 作 }

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