生命の東洋哲学    音風祐介       

私は古代ギリシャを空想 してみた。人々は生気に満ちて、人間性の深さに目覚め、芸術を理解し自ら創作 した。もしも今の東京がそのような生命力に富んでいたならば、人々はどのよう な生き方をするのだろうか。おそらく、東京の人々は平凡な日常の出来事やあり ふれた物に生きる喜びを見いだすでしょう。 歩くこと、呼吸すること、花を見 ること、友と語ることは素晴らしいことなのです。そのことに人々は気がついて 、真理を見るでしょう。 人は真理が目の前に見えることに驚きを感じることで しょう。 そして、美しい空気の中で、呼吸するたびに宇宙の偉大な生命力の働 きを感じることでしょう。そして、形のない生命の崇高さに人は感謝の気持ちを 抱くでしょう。          今の東京は物と知識の量が競い合われてい ます。そのために、精神的な砂漠を感じて悩む人が増加しています。ですから、 町に静寂が訪れ、愛が復活した時に東京の人々は生きる喜びに輝くことでしよう 。何と素晴らしいことでしょう。人は不滅のいのちと愛において、生まれかわり、新しい世 界をこの地上に見ることが出来るのではないでしようか。

昔の東洋人はこの様な英知を持っていました。インドでは釈迦が宇宙の深い知 恵を悟りました。全ては変化していくが、そこに永遠の生命が働いているのです 。日本の禅宗では全ての物は永遠の生命を持つ般若の知恵の現れであると教えるようです。

 人間は誕生して幼児の時代には無垢の美しい魂を持っていました。東京の人 がその無垢の魂を今も持っていれば、古代ギリシャのような文化が栄えているこ とでしょう。             

平凡なことの中に真理がある。太陽は東から昇り、やがて西に沈む。当たり前 です。このことも誠実な人の目には真理と見える。魚が泳ぎ、鳥が空を飛ぶ。人 間はみな生まれてくると、目が二つ鼻をはさんでシンメトリ−に並ぶ。こうした 当たり前のことに真理をみつける者は幸いである。こうして、太古から現在に至 るまで、大自然は美しい法則のもとに運行している。

 私は玄関に咲く花を見るたびにイギリスの詩人ブレイクを思い出します。そして彼の様に薔薇の花の中に神を見て、森に住む虎の美しさに驚嘆できる感受性を忘れてはいけないと考えるのです。

私の家では柱時計がおごそかに鳴り響きます。この音は私の頭脳の中に響いているのでしょ うか。それともこの音は心の外部で響いているのでしょうか。それとも音という のは不滅の生命を持つ般若の知恵が演奏している音楽なのでしょうか。 

科学ではこの答えは出ていません。しかし、東洋では平凡な音によって、宇宙 の真理を悟った人が何人もいるのです。

 窓の外には富士山がそびえています。千年前に、日本の有名な禅僧が山は歩 いていると言いました。どういうことを意味しているのでしょうか。

大自然はそのままに真理を表現している。地球は人間の目には不動です。でも 、科学の目では今や、地球が太陽の周りを回っているのは常識となっています。 全てのものは止まっているようで動いています。そして、全ての物は動いている ようで、止まっています。そして、この一瞬にも永遠が宿っているのでしょう。

 この間、水道の水が海の様に、青かったのを記憶しています。前の日の二日 酔いで、そんな感じに見えたのかもしれません。あるいは、朝の日差しが青いレ −スを通ってきて、台所に光をばらまいていたせいかもしれません。そして、ど ういうわけか 私はその水に魚が泳いでいるような気がしました。ちょうど鮭が 急流を昇るように、魚が水道の水を泳いで上昇していくという幻想が朝の私には 何か愉快でした。

生命はたくましい。生命は宇宙のエントロピ−の法則に逆らっています。つま り 無秩序に向かう方向にあえて挑戦して、美しい秩序をつくります。それが魚 であったり、毛皮の美しい虎であったり、心の美しい少女であったりするのでし ょう。 

般若の知恵が持つ生命こそ永遠であり、この宇宙の根幹をなすものであり、この生命こそ宇宙をつ くるのだと私は思います。東洋の詩人も哲人もこの永遠の生命を発見したのです 。昔の人のように、自然に耳を傾け、花や昆虫の生命の営みを誠実に見てみまし ょう。その時、私達は宇宙に響く美しい弦楽器の音を聞くかもしれません

呼吸の哲学

    [その文芸的な表現]

息を吐くというのは単に自分の身体の中から空気が出ていくというものではなく、自分の全てを空っぽにするという意味がこめられているのだと思います。このことを『般若心経』では『空』と表現しています。そうすると、空気という物質と一緒に『いのち』が入ってきます。息を吐くというのは 自分を空っぽにすることです。自分の職業、自分の性格、自分の全てを忘れることです。自己を忘れることです。つまり無一物になるということだと思います。

この様に、『自己を忘れることにより、新しい生命を手に入れる。人間はたえず、死に、たえず復活しているのでしょう』

 これはあらゆる真の宗教、それに真の哲学の説く本質と一致します。何故なら、呼吸こそ生きることであり、呼吸なくして『考える』ことすら、出来ない。デカルトは『我、考える故に、我あり』と言いましたが、東洋流に言えば『我 呼吸する。故に我あり』とか、『始めに呼吸あり』とか言う方がより真実に近いのだと思います。 呼吸なくして、人間の生命は保てません。呼吸はいのちそのものです。生きているからこそ、我々はものを思うことが出来るのです。

 この呼吸の大切さ。当たり前のことです。しかし、この当たり前のことをとかく我々は見逃しがちです。この当たり前のことの 中に、宇宙の真理があらわになっているのです。見ても見ず、聞いても聞こえないという、有名な言葉があります。真実に見、真実に聞くように なれば『自然は真理そのままの表現である』というのは過去の少なくない偉人が悟ったことではないでしょうか。

 目が横にあり、鼻がまっすぐにあるというごく普通のことの中に宇宙の真理があると。この点からすれば、呼吸は宇宙の生命のリズムと呼応して、人間に息をふきこみます。 人は死に、復活しているのです。太陽は西に沈むが、やがて東から昇ります。その様にこうした事実の中に生命の真理があるのです。息を吐き、自分を空っぽにすると、生命が入ってきます。 空気が入ってくるというのは確かに学校で習う理科の知識ですが、空気を酸素と窒素に分類して分かったと理解してはこの息と共に入ってくる新鮮な生命の元を理解することは出来ません。

『幸いなるかな。心の貧しき者。その人は神をみん』というのは新約聖書の言葉です。 息を吐き、自分を空っぽにした状態こそ、貧しい状態であり、これこそ神を受け入れる状態です。座禅もそうです。瞑想状態になるというのは自分を空っぽにする、つまり自己を忘れるということです。 西欧哲学で重要視される自己そしてその自己によって対象化された客観世界という図式の中では真の生命を知ることは出来ません。 自己を貧しく、空っぽにしてこそ、真の生命を知ることが出来るのです。我々は毎日、毎分ごとに、このことを実践しているにもかかわらず、呼吸はあまりに当たり前のことで、頭の中は『息』のことなんかよりも、外の世界のもろもろのことを思案し、悩んでいる故にこの息の神聖さをついおろそかにしてしまう。 そのためにこそ、宇宙の真理を知るためには昔から禅宗では『妄想するなかれ』というのです。これも頭の中を空っぽにするということでしょう。        

今や空気が汚されつつあります。山などの自然に触れた時に、感じる新鮮な空気のおいしさを我々は思い起こすべきです。こうした新鮮な空気を吸って、新しい生命をたえず、取り入れていれば我々は生命とは何かということを知る筈です。今や都会では空気のことはなるべく忘れて、つまり生命のことはなるべく考えずに、外界の物にだけ心を動かし、欲望に心を踊らされているとすれば、やはりここで、呼吸についてあらためて考えてみるべきではないでしょうか。これを私は『呼吸の哲学』と位置づけてみました。  『呼吸』は 生命そのものです。吐いて、吸うというリズムがあるだけで、無色透明で形もなく、自己もない、つまり『無我』です。そして、呼吸そのものには職業もない、学歴もない、知識

もない、ただの無一物です。    この誰でもしている『呼吸』こそ、宇宙における純粋な主体性そのものではないだろうか。あの釈迦以来伝えてきた『全てのものに仏性がある』と言い、鎌倉時代の禅僧が 『全ての存在は仏性である』とよんだ仏性とはこの呼吸、吐いて吸っていくという中で幻の様に、たちあらわれてくる生命全体をいうのではないだろうか。仏性とは不滅のいのちそのものであり、宇宙の生命の法という観点から見ればダンマともいい、般若の知恵ともいう。 当然、それが一番みごとに表現されているのが人間の呼吸である。臨済和尚のいう『無位の真人』という言い方もある。そしてこの宇宙の生命には名前もなく、名誉だの金のことも関係なく、ただの無一物の真人が呼吸をしている。

 『私』の底は『無我』であり、その不思議さの根底にはこの様に『不死不生』の『空』としての神聖な生命の存在がある。それは一なる生命である。

しかしこの地球には五十億の人達が同時に存在する。つまり、真の生命は一即多である。

 この様に、無我として私の生命は絶対的な唯一の世界である。一なる世界である。   一なる生命である。 他の人の存在はその限りにおいて考えられないのだが、不思議なことに他の人にもその『私』がある。その中心に『呼吸』がある。一即多こそ、真理の姿なのである。                            この一なる生命から、宇宙とか自然とかいうものを感じる時、常識や現代の科学技術の価値観とはまるで違った世界観に触れることが出来る。過去の偉人や大詩人の中にそうしたことを直感した人もいる。                            もう少し、具体的に言うと、例えば学校で習う恒星は太陽の様に自分で光を出している巨大な火の玉というべきものであるという知識である。今や人々は星が巨大な火の玉であるという考えが真実であり、『私』の服のボタンであると表現した言葉を詩人のたわごとと退ける科学技術の時代である。そして、ついに人類はロケットによって、月面着陸をはたし、大きな自信に満ち、人間の理性こそ最も素晴らしいものであり、詩だとか宗教的な直感というものは過去の遺物として感じるようになった。科学は確かに偉大であり、人類に希望を与えているが、人間が過去の偉人の優れた直感に耳をかさなくなった時に、一方では、その同じ科学技術が核兵器などの大量殺りく兵器をつくりだし、公害をつくりだし、海や山を汚し、空気を汚し、毎年沢山の交通事故の死者を生み出すようになった。手放しで喜べないのである。     

 詩人の深い直感は宗教の深い直感とあい通じることがある。たとえばこんな詩に同意する人は少ないのだろうか。

『家の中にある机もコップもその他のあらゆる調度品も、自我を捨てた僕の生命の服のボタンだ。そして、庭に咲く花も昆虫も僕の服のネクタイだ。そして、遠くに見える緑の山も川も、『私』を捨てた僕の服のポケットだ。

 そして、夜空にある星の崇高な輝きも僕の服のネクタイピンだ。 この様に、『私』を捨てた僕は一つの世界を持つ。世界には生命の海がある。僕は生命そのものだ。

 時計がボ−ンボ−ンと鳴り響く。これも僕の服を飾る音楽だ。時計の音は『私』を捨てた僕の心臓でもある。この様に、僕の眼前に広がる風景は一つの生命であり、水晶の球に映った神秘な都市と田園でもある』 

 この詩は生命というものを般若心経の目を通して見た時に湧いてきたイメ−ジである。                    世の中には色々なことが起きる。しかし、ふとある日 世間の騒がしさとは違った静寂の中に身を置く時に、こんな風に思うことはないだろうか。今、自分のまわりに起きている出来事も世間の耳目を集めている政治的なもめ事や様々な事件もそして過去の歴史もみな『私』というフィルタ−を通っているからこそ、全てが動いているということが認識される。考えてみれば当たり前のことである。しかし、ここに『私』という世界の不思議さがあるのだ。

この時の、私はたいてい静かな思いに浸り、欲望とか世間の中の自分を忘れて、ふと『私』という世界の深い井戸に下りていき、ひんやりした美しい地下水の流れを聞く思いがするのである。     こうして、静かに幼年時代から今まで、日本や世界そして自分の身の周りに起きたことを思い浮かべた時に、自分という絶対性に驚く瞬間がある筈だ。この時の『私』は『無我』である。『呼吸』だけになった一なる生命だけがある。

この『私』がいるからこそ、世界はあると認識されてきた。 もしも『私』がいなければ、全ての出来事は存在したことも、起きたことも確認するすべはない。今生きている私が私のいなくなった世界を想像することは出来る。しかし、これもやはり、『私』というフィルタ−を通っている。                     般若心経では『色即是空、空即是色』という言葉が重要な鍵になって、宇宙の謎が開示されると言われる。それではこの『私』の不思議さを、色即是空という四文字が解くことが出来るのであろうか。出来るのである。

 『私』を静かに内省してみれば、私という何か固まりの様な自己というのを見いだせないことに気づく時がある。これも不思議な感じで、我々はたいてい普段そんなことを考えずに、外側の出来事や経済問題や人間関係などもろもろのことに心を奪われていますから、こちら側にしっかりした自己というのを発見する筈だという錯覚にとらわれていることがあるのですが、この『私』の内省によって釈迦のいう『無我』が本当の自分なのかもしれないという発見に驚く筈です。つまり自己というのは般若心経の言葉を借りれば『空』なのす。『無我』の発見は『呼吸』への驚きでもあり、一なる生命の発見でもある。

 それでは外側の風景は確かな実在であろう、科学でも物質として研究している確かなものなのだからと思って、よくよく考えてみるとこの物質としての客観世界も実は『空』だということが分かる。

 諸々の物が存在し、諸々の出来事が現象されると想像されるこの世界のことは全て 空なのである。どうしてか。この『空』とは何か。これを『真空』だと考えるとかなりの誤解だと思われる。ただ、物質の根底に真空があるということを理解していると、この『空』の意味を把握するのに助けになるとは思う。そこで、科学では物質をどう見ているか、ほんの初歩的な知識を振りかえってみると、まず物は分子からなる。そして分子は原子からなる。原子は原子核の周囲に電子という素粒子があるということで、今や素粒子の世界が次々と明らかにされている。しかし、原子の世界を見ると、その世界は殆ど真空だと科学では説明されている。そして、その原子をつくっている素粒子もどうやら石やソフトボ−ルの様なはっきりした粒子ではない。とすると、我々人間の肉体ですら、殆ど真空から出来上がっているといっても過言ではない。それなら、何故 男にとって女が、女にとって男が美しく見えるのかといえばそれは目がひどく荒く出来ているからで、もし電顕微鏡の様な精度の高い視力があったとしたら、人間は殆ど真空の中に沢山の電子の雲のようなものがほこりのように飛び回っている存在であるかもしれない。 さて、幸いにして この視力の衰えた 『私』がいるから、世界は現象し、山は山となり、花は美しく咲き、人は美しく成長し、世界には諸々の事件が発生する。この『私』の存在故に、殆ど『真空』の様なこの物質世界が、色と形をもって登場するのだ。          とすると、この『私』という存在はこの物質世界に特別の意味のある存在となる。 つまり、物質の世界に意味を与え、色と形を与え、物質の変化をささえているのだとすれば、この『私』の世界は生きた一つの世界であり、生命でもある。色と形と音が誕生する生命の世界こそ『私を捨てた僕』の世界と言えよう。巨大にもなり、小さくもなる伸縮自在の鏡の様な存在だ。全てを映す透き通った湖水の様な存在とも言える。この生命は周囲の風物と一体になっている。ある時は新陳代謝という意味において、私は食事をして、外界の食物を取り入れる。花や風景を見て美しいと思い、私は自分の心を感じる。つまり 私の生命は物質と一体になって、外界という風景の世界をつくっている。ここのところを般若心経は『色即是空、空即是色』という。

 つまり物質と『いのち』は一枚なのである。だからこそ、机の上の物は整理整頓しない限り、しだいに乱雑になっていくということに象徴される様に、全ての物質は無秩序に向かうという宇宙の大法則に対して、秩序をつくる生命の法則というのが科学の世界でも驚きをもって、研究されている。いのちは般若心経がいう様に、『空』そのものであって、キリスト教では『霊』ともいう。この様に、いのちの世界と物質の世界はコインの裏表の様にピッタリしている。 しかし、我々は普通、この『空』といういのちの世界を見ない。だからこそ、キリストは霊と水によって、新しく生まれ変わらなければならないと言ったのだろう。霊とはいのちの泉と考えても良いと思われる。

 意識は常に、物を対象化して、理性が物をきりきざみ概念化していく。我々はどっぷり物質の世界につかっているのである。科学もここのところを土台として、物質世界の法則性を追求して、かなりのことが分かってきた。しかし、それはあくまでもコインの一面をつついているに過ぎない。星は科学の世界でみれば、巨大な物質であり、火の玉だ。しかし、『空』という霊の世界、つまり一なる生命の世界から見れば、星は『私』を捨てた僕の服のボタンなのだ。

 色々な科学の本の中で一流の学者が出てきて、脳や生命のことは殆ど、分かっていないと言いながら、結局その人の持つ現代的な常識哲学で、これらの問題をまるで物質として分かってしまうかの様な錯覚を与える本が目立つ様な気がする。それはそれで良いのだが、やはり詩人の哲学も捨て難いと思うのは私ばかりなのだろうか。

知識ではなく、般若の知恵が重要な時代になった。何故なら、世界は平和で素晴らしい世紀になるか、それとも発達した兵器や公害等による地球破壊の暗い奈落の底に人類が進むのかという岐路にたつようになったのは誰の目にも明らかであるからである。頭脳の発達した現代人は物質の世界で理性を働かせて、ニュ−トン力学のもとによって、つくられた常識的な世界観の基に科学技術を発達させてきた。科学の成果があまりに巨大だったので、人々はもはや科学が入り込むことのない、『空』と『霊』、つまりいのちの世界の存在すら忘れ、 迷信と断定するにいたった。 こうして、現代人は物質の世界つまり肉の世界しか知らなくなり、自動車による排気ガスと交通事故など、こうした物質文明の精神の荒廃を招いた。

 さて、無常こそ仏性である。一なる生命である。無常というのは常でないということ、絶えず動いているということである。   呼吸も吐いて吸うというリズムの中で、たえず動いている。これこそ、生命だ。絶えず、変化するが生命は永遠不滅だ。何故か。生命とは一なる生命であって、確かにその中核に『呼吸』がある。人によっては死によって、呼吸は終わり、生命は終わるのではないかと言うだろう。ここで、考えねばならないことは『呼吸』というのは生命の一大表現であるということで、呼吸は人間の肉体だけに限らない。風も海の波のよせてはかえすリズムも。そして昼と夜の交替、太陽が東から昇り、西に沈むということも生命の呼吸ともいえる。睡眠と覚醒も呼吸のリズムの様なものだ。台風の誕生と活動とその消滅もそうだろう。

 人間は死ぬ。そして、人間は生まれる。 これも呼吸の様なものだ。吐く。つまり、死ぬ。吸う。つまり、誕生する。これを輪廻という様に、一本の糸で結びつけて、Aさんが死に、そしてKさんが生まれたと考えても、考えなくとも良いと思う。 人間は死ぬ。死ぬ、どこまでも死ぬ。しかし、人間は生まれる、誕生する、どんどん生まれてくる。この両方にある『私』とは何か? 次の例えはどうだろう。            

 今、タライの中に 石鹸水が あるとする。そして大きく、巨大な泡が出来たとする。この泡の中は無だ。この無が無限の生命のエネルギ−を秘めた最初の神とする。そして、この泡がパチンとはじけ、無数の泡がとびちるとする。この小さな泡の中身は無という神だ。そして、この小さな泡には色々な付属物がつくとする。ほこりなど。そして、その小さな泡は しばらくの間、宙を浮遊するとすると、そこに無数の泡の人生が誕生し、外見で異なる泡の人物が生まれる。差異が生まれる。これが個性となり色々な泡の人物となり、泡の社会が生まれた時には、その泡にはそれぞれ名前がつけられる、そして、やがて泡は一生を終え、はじけ死ぬ。元の無、つまり神に戻る。 この神としての無は位置もなく、大きさもなく、形もない。そして不生である。だから、不滅だ。仏教ではこの無を無と言わずに、『空』という。この『空』は決して科学で言われる『真空』という様な意味ではなく、時間も空間も超越した『空』なので、殆ど『神』とか『仏』とかいわれる様な神秘の存在である。

『私』はこの『神の様な空』に根拠があるので、まさにキリストの言われる様に、『神はここにあり、かしこにありと言うものにあらず、汝らの内にあり』である。

 そして、釈迦の言われるように、『天上天下唯我独尊』である。 勿論、釈迦のいわれる『我』は我の底にある『無我』をさす。まさに人は我としては死ぬが、無我としては死にようがないのである。これを永遠の生命という。

人は瞑想状態に入ると、周囲の物がシンメトリ−になると感じることがある。仏教ではここのところを『空』を体験するというのであろう。例えば、部屋の中で静かに瞑想して、部屋の中のあらゆる調度品を見ていると、机の上のコップも茶碗も急須も茶筒も鉛筆も本もタオルもポットもそして部屋の隅にあるピアノもあらゆる物がシンメトリ−であるということ。つまり、常識ではそれぞれの物には名前がついて形も色も異なる物でありながら、シンメトリ−の世界つまり空の世界に入ると不思議にもそれらの差異が消えてしまう。

部屋に静かに響く時計の音や外から聞こえる鳥の鳴き声すら、このシンメトリ−の中では一つの海の中に溶けてしまって差異はなくなる。そして静かに深い呼吸だけがある。世界がシンメトリ−になっても、呼吸は吐いて吸っているのである。この究極の『空』の世界は生命の吐息があるだけだ。こういう世界を浄土とか天国というのではないか。ここには究極の音楽がなり、大空から美しい花が雪の様に舞い散る最高の風景画が展開する。そして、静寂でありながら、動きのある生命そのものの世界、呼吸だけが太古から響いているかの様だろう。

 こうして、シンメトリ−の『空』の世界で呼吸だけがある。自分という肉体もこのシンメトリ−の海の中に溶けてしまっているから、あとは吐いて吸ってという生命の営みだけがある。

 そして、私が身体を動かし、立ちあがり理性を動かした時 全ての物はシンメトリ−の『空』の世界から一気に『色』の世界に移る。これを色即是空、空即是色という。

 シンメトリ−という言葉を知っている方は多いかと思うが、左右対称という意味の同義語としてこのシンメトリ−という言葉は美学やデザインの世界でポピュラ−です。インドにはタ−ジマハ−ルというイスラム教の寺院があるのはよく知られているが、その壮麗な建築美と共に、見事な左右対称の美ということでよく美術の本などに掲載されている。

 

 このシンメトリ−という言葉は科学の世界でもよく使われ、ある物質とある物質が交換可能で、全く同じ質の物の時にはこの二つの物質はシンメトリ−であるというと聞いております。

雪の結晶では六角形というシンメトリ−性を中核に持ちながら、二つとして同じ形の雪はないという風に結晶全体としてはシンメトリ−が破れている。この雪の結晶の中心の六角形を仮に人間の心に秘められた真理と考え、結晶全体を人間の肉体など外観に現れるものと仮にすると人間の理解に役立つのではないか。

つまり、人間は地球に沢山の人がいても、雪の降るところで結晶が無数にあるように、そしてその中核が六角形である様に人間の心の中には同じ真理を内面に秘めている。つまりシンメトリ−である。別の表現をすれば 五十億人の人が地球にいて、その人間の心の中にある『神仏』は一つであり、シンメトリ−なのです。何故なら、一なる生命としての神・仏は一即多ですから。これは最近、量子力学の世界で一つの電子が同時に複数の穴を通ることが出来るという実験デ−タと照らし合わせてみると、『真理』というのはそうした素粒子の世界で起きる不思議なことと共通性があることに気がつく筈です

 心というのは頭脳の中にあるととらえては無数の人間がいて、無数の心があるという常識的なことしか把握できないと思われる。  確かに、実際の人間の世界では常識が示す様に、シンメトリ−が破れている場合がはるかに多い。むしろ、シンメトリ−が破れて、この世界が創造されている様に思われるくらいです。例えば、人間。同じ顔の人間はいません。性格も物の考えも、顔の色も顔立ちもみな違う。心も、もちろん違う。つまり人間には全く同じものなど見いだせないことの方が多いようです。

 樹木の枝の生え方はたいてい左右対称ではなく、その対称性が破れているのが普通です。ですから、禅宗のお寺の庭の造り方では左右対称を破った美学が重んじられることはよく知られている通りです。

 しかし、その無数の人間にシンメリ−が見いだされるのは左の目と右の目が鼻をはさんで左右対称になっているということだけでなく、心にも当てはまる瞬間があります。それが『愛』だと思います。聡明な母が幼子を愛する時は、自分と子の区別がなくなります。つまり 自分と子は心で一体になるのです。つまり愛というのは互いの心にある真理が同一だということを直感的に知ることにより、愛するのであります。

 静かに瞑想していると、つまり『呼吸』だけになってその息の吐く、吸うという自然の営みだけにまかせていると、周囲の音や風景が霊的なものであると感じることがある。霊というのは宇宙を動かしているいのちのことです。つまり、昔から霊は物質とは違った 『生命』の存在をさしたのではないか。

 だいたい脳という物質と、外の客観世界である物質とが相互に交渉したとしてもあの様な色と形と音の世界が誕生するのか。例えば、科学では音は空気の波動であり、 色は電磁波である。 とすれば我々の聞く『音』とか『色』は何なのか? 脳という物質がつくるのだという仮説は証明されていない。何故なら、色とか音というのは主観性そのものではないか。

 さあ、静かに、『呼吸』に心身をまかせてみよう。そして、机の上のコ−ヒ−を今 見ているとしよう。焦げ茶色の水。その横に金色の縁の腕時計がある。下の明るい茶は机の木の色でニスのせいだろう。光っている。 そして緑の蓋のある蛍光灯から黄色い光が灰色のワ−プロを照らしている。 つまり様々な物があって、様々な色と形がある。色というのはそれ単独で成立することはない。絵の具の様な場合でも、顔料という物質の上に成立するのが色であり、色鉛筆の場合は木の上に成立する色である。光、つまり電磁波の反射によって、様々な色が成立するのは分かっていても、やはりそれは波だ。波からどうして色になるのか。色とは何か。感覚なのか。それなら、脳の神経がそうした反応をしているだけなのか。

 それに対して、色は霊的なものであるとする考えからは『色』は生命の一つの表現と考えることが出来る。生命は物質を映す時に、色という形で受け取る。つまり、色に翻訳する訳だ。音波も同じ。空気の波を音に変換して受け取るのが生命だ。何故かというと、波というのは物質の波である。しかし、色とか音というのは物質ではない、だから、脳が翻訳する訳だ。生命というのは霊的なものあって、周囲の全ての風物を色とか音とか形で受け取る。鏡の様に映すというべきか。様々のものを映し、そして消えていくとしても生命という鏡は不滅で何も映さなくなったかと思うと又、山や海を映し、人間の誕生も映す。

 人間はシンメトリ−の世界に住むと『空』のいのちの世界と同時に『色』のいのちの世界が一枚になっていることを知る。

 その時、世界は呼吸だけになり、吐く息と吸う息が宇宙の生命のリズムとなっている。吐くことによって、自らを空っぽにし、そのことにより 生命に満たされ、次の瞬間には息を吸うことになるのです。               

               音風祐介                                                       [了]