晩秋に思うこと 200011

生き物地球紀行などたまに、見ることがある。生来 動物が好きな方で、特に虎のテレビ撮影などあると、たまらなく見たくなるのである。イギリスの詩人ブレイクが虎を神のつくりたもうたものだとその優れた詩で虎の逞しさ、美しさを賛美したのもうなづける。だから、当然 猫も好きである。

そんな私であるけど、この間 カナダのバンクバー沖にやってくるシャチの生態を見てうなってしまった。バンクーバーの町そのもは私自身サイクリングを楽しんだ懐かしい所なのだが、大きさが九メートルになるのもいるというシャチの話には興味を持った。シャチの仲間集団の友情や家族愛にも感心した。それから、これは南米の話に飛ぶが、ひどく美しい鳥のことが話題になっているのをちらりと見たことがある。これには生き物の不思議な生命力について考えさせられてしまった。シャチがペンギンやあざらしを食用にしているのにはライオンが縞馬を食べるのと同じことなのだろうが、ここでは食べるものと食べられるものが不思議な形で共存している。生態系を守ることの重要性が言われて久しいが、この自然界に普遍的につながっているいのちといのちの結びつきというか、共生というべきものは生き物の本能の中でひどく長い歴史を通じて進化してきたようである。南米の美しい鳥と花との関係もお互いに都合の良いように巧みに進化してきた。

さて、人間様の方を振り返ると、理性を謳歌しているかに見える。その理性を使って今日の様な科学技術文明を築いてきたのだから、やはり一応は凄いと言える。しかし、何でも過ぎたるは及ばざるが如しというけれど、理性万能の様な風潮がもしあったとしたら今や反省の時代に入ったというべきではなかろうか。

理性については今までにもいろんな人がいろんなことを言っているが、私もこの頃この理性というのは生き物の本能から枝別れした生きる知恵であり、決して真理とかなんとかには結びつかないと思い始めた。象徴的な例として、アダムとイブの話がある。アダムとイブは最初 楽園で楽しい生活を送っていたが、へびにだまされて知恵の実を食べてしまったというよく知られた話である。そのことによって楽園を追放されたという神話は 相当 深い意味を持つということである。

そんな風にして、最近 人間理性についてふと考えてみた。これがこのエッセイの本論なのだが。どうも世の中を見ていると、この人間理性を完璧に信じている人達と、人間理性の傲慢に辟易し時に警鐘をならしている人達と、この二つの間を大海の小舟の様に往き来している人達の三通りが見られるように思えてならない。例えば、身近な経済問題でいえば、市場万能の考えと、大きな政府を必要だと考える人達の対立などもそうだ。今、アメリカ大統領選挙が注目を集めているけど、前者のどちらかというと、小さな政府をめざすのがブッシュ大統領候補の「共和党」の考えだろうし、後者の大きな政府をめざし、貧しい人達にアメリカの繁栄をいきわたせようとする社会保障制度の充実をかかげるのが、ゴア大統領候補の「民主党」であろう。人間理性を極端に信じた例としてはかって数十年の間、大きな勢力を持っていたマルクス主義哲学がある。こうした中で、アメリカとソ連が冷戦で対立し、キューバにソ連のミサイルがもちこまれた時に、ケネディ大統領とフルシチョフ書記長が衝突し、キューバ危機として世界は破滅の寸前に立ったことは今や過去の歴史となった。そのソ連が崩壊し、オリンピックで金メダルをごっそり獲得する東ドイツも蓋を開けてみれば、理想境に程とおく、秘密警察が一般の家庭にまで監視の目を光らせていたことが分かり、理想社会を夢見る人達に幻滅を与えた。

さて、わが日本を振り返り、バブル期からバブル崩壊後のこの十年近い不況下での現状をつらつら見ていくと、色々な過去の価値観が崩壊し、新しい価値観を見出せず、あるのは金銭万能の雰囲気で、倫理が退廃し、かって優秀な官僚と折り紙つきだった人達の一部のあきれたまでの悪徳や日本社会全体にインフルエンザのごとく広がった犯罪の多発、その他 数え上げればきりがない程の混乱がマスコミをにぎわしている。

いったい多くの日本人は何を信じて生きているのであろうか。いや、多くの日本人は立派なんだけれど、一部の心無い日本人があばれまわっているだけでさほど心配するにはおよばないという意見もある。

ニーチェは「神は死んだ」と言い、やがてニヒリズムの時代の到来を予言したが、そんな時代が今の日本そのものでないことを願いたいのだが。

年間三万人の自殺者。そして交通事故で死ぬ人は年間一万人前後、大怪我をする人は何十万人、

おまけに、発ガン物質を含む排気ガスで、かって山紫水明といわれた美しい日本の空気が汚れていく。家庭ではひきこもりに悩む世帯が十万以上にのぼるという。かっては、世界一安全な国といわれた日本は今やピッキングという鍵を開けて侵入する盗賊におびやかされるまでになってしまった。そして、カレー事件だとか、保険金にまつわる殺人事件などと奇妙な事件の続くこと。

学校ではいじめが横行し、小学校から学級崩壊、登校拒否。そして若者や女の人が不可解な形で恐ろしい犯罪にまきこまれて、中には尊いいのちを落としていく人達もいる。

だいたい若者を見ていれば 世の中が正常かどうかある程度 判断はつく。若者は本来 純真で正義感に富み、礼節をわきまえているものだ。しかし、今 十七歳が騒がれているが学校は単なる知識の詰め込み主義。価値観が一本しかないのだ。成績至上主義という尺度。

これを最初に述べたテーマの理性の問題に引き寄せて考えれば、学校は恐ろしく理性万能主義という所だ。親も子供もそうした雰囲気に翻弄されていく。だから、そうした学校を出た科学者に、日本では人間の心を物理化学の手法で解決するなどと堂々と言う人達が多く闊歩することになるのではないか。【外国では科学者でも様々な意見や哲学がある。勿論、日本にも素晴らしい見識は至る所に発見されるが。まさにそれは発見という努力が必要とされる】

勿論 言論は自由だが、日本におけるこうした人達の意見が本当だすれば過去の伝統の中に生きた優れた哲学や禅などの蜜はみな幻想ということになって、宇宙は精密な自動機械といっているようなものである。この世界はそんなに単純でない。そうした複雑な宇宙を学ぶ余裕がない社会だから、成績優秀な理系のごく一部の人達が某新興宗教の中に入って、恐ろしい犯罪にまで突っ走り世間を驚かすことになってしまったのではないだろうか。人を傷つけることをすすめるようなものは宗教ではない。愛あるいは慈悲が宗教の基本である。禅では愛語つまりおもいやりのある言葉が座禅と共に重視される。こうした基本的な人文系の教養を持たない人がもしいるとすると{ 少数と思いたいが }、彼らが理性の壁にぶっかった時に、既に人文系の中で悠久の歴史の中で優れた哲学・宗教の本質が砂浜にちりばめられている宝石の様に存在するのに、その宝石を見分けることが出来ず、岩を見てとびついてしまう間違いをおかすということである。

さて、結論を急ぎたいと思う。私の意見は理性というのは確かに人間の素晴らしさを示すものではあるが、限界もあるし、真理は理性によってはせいぜいそこへ至る幹線道路をみつけることぐらいしか出来ないのではないかということである。

一時、ニーチェが生まれる前の過去の西欧では神の証明がはやった時がある。そんな風にまで理性万能になったのは中世のキリスト教会【 キリスト教という宗教の本質とキリスト教会の歴史は別に考えた方が良いと思う 】への反発だということは有名なガリレオの「それでも地球は回る」に象徴されているが、そんな風に理性によって証明された神はやはり神への幹線道路つまり、めじるし程度の意味しかなかったということはその後の人間の歴史を見ればただちに了解できる所である。

私は今 思うことは真理に近づく道は 「座禅」と 「正法眼蔵」あるいは歴史によって選び抜かれた聖典を精読することであると思っている。それを人生そのもので証明したのは江戸時代の良寛様だと思う。

クリスマスも近いので、キリスト教について一言付け加えると、内村鑑三の言葉がいいと思う。

「信者が復活するのではない。彼の内に住んでおられるイエスが復活するのである。彼は義によって生きておられるのである。そしてイエスは信者の内にあって復活なさり、信者と共に復活なさるのである。信者はイエスの復活の同伴にあずかるのである 」

どうでしょうか。この復活の信仰を、あの神を否定してキリスト教に対してアンチを言っているニーチェの様な永劫回帰の思想と比べても哲学は始まると思いますが。それはともかく、この内村鑑三の言葉が禅のいっている真理と同じであると理解する人はかなり禅を学んでいる人であると私は考えている。真理は常に普遍的なものである。

音風祐介

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