THE RAIN を鑑賞して

この映画はイギリスの作家サマセット・モームの有名な小説を映画化したものであるが、淀川長治さんのおっしゃる様に、間違いなく名画であり、まだご覧になっていない方はぜひ見て欲しいとお勧めしたくなる様な素晴らしい作品である。

「雨」は面白いだけでなく、深く考えさせる内容の濃い映画である。

主役の男の方はキリスト教宣教師で、頑固な性格のデヴイドソン。女の方は自由奔放で明朗と言えば聞こえは良いが、少々だらしなく騒々しく無作法であって、それでいて魅惑的なミス・トンプソン。この二人が南洋の雨ばかり多く、蒸し暑い南海の孤島で出会うのだ。まず、現地人を調査して布教活動に熱心な宣教師デヴィドソンであるが、今時こんな教団の権力を笠にして、教条主義的なキリスト教観を人に押し付ける人はいないと思うが、かっては少なからずいたのではないかと想像される。第一に彼の奥さんが島の雑貨屋兼ホテルに泊まる際に言った最初の言葉も象徴的だ。

「明日にもかやを直さないと、寝られませんわ」とデヴィドソン夫人が言う。

彼等と一緒の船で来た善良な医師が「今、直さないのですか」と問う場面に対する夫人の答えが私になんとも言えない変な気持ちを与える。

「安息日には縫い物はしません。服が破れて、肌が露出するなら別ですけど」

これが夫人の主義というなら、それはそれで良いが他者に強制する場面、例えばミス・トンプソンとアメリカ兵達がダンスをしていると、「安息日にダンスをしてはいけません」と抗議するのは はたしてこれが宗教なのだろうかという疑いを持つ。

確かに、蓄音器で音楽をかけ、ダンスをするのが貧弱なホテルの静寂を破るということで、抗議するというなら話は分かるが、ここではそうではなさそうだ。

こんなことから、デヴイドソン夫妻はミス・トンプソンに対してある種の嫌悪感を持つ。

それでは、ミス・トンプソンという女はどうであろう。彼女は自分の力で人生に意味を見い出せない女だと思う。だからこそ、宣教師デヴィドソンと激しく対決して、島の総督からアメリカ本土に戻る様に命令された時に、負けたと感じ デヴィドソンの激しい洗脳を受け入れ、生まれ変わったと信じ、あれほど従順な女になり罪を認め、罪を許して欲しいと願うように豹変するのではなかろうか。

この両極端の生き方というか価値観が、南海の雨の多い島で激突する。この映画から現代の日本を見た時、どんな世相が見えてくるであろうか、そういう思考実験も面白い。

私の意見では、日本の多勢の雰囲気には過去の価値観の多くをなんとなく否定してしまったという風に感じ取れるのである。その後に残るのは金と積極的な欲望肯定である。それがバブル崩壊後に、特にエリ−トと言われた層にも広がっていることが明らかになって驚かされたのが最近の現状ではなかろうか。過去の間違いを否定して、再生するのは良いことだと思う。ただ、伝統としてあったものを全部否定するのは行き過ぎである。日本人は江戸時代から明治になる時、仏教と儒教そして老子、荘子の教えなど東洋のものは西欧のものよりは低く封建的であるという理由で否定した。医学では最近になつて、東洋医学が見直されてきてはいるが、明治以来百年近く東洋医学は否定された。

最近では ソ連崩壊、東欧の社会主義のひどかった現実、中国の市場経済への移行などを見て、マルクス主義はもう古いと否定する。キリスト教はクリスマスの時だけ。そして、新しい独創的で魅力的な価値観が生まれ、それが社会に浸透していくならば安心もするが、そういうこともなく、過去のものは色々なレッテルを貼って全てなんとなく、否定していく。これでは「雨」という映画のミス・トンプソンと同じではなかろうか。彼女は人生の意味を見出せないのだ。かつて、フランスの哲学者で小説家のカミュは「人生に意味があるか、ないかを明らかにすることが哲学の最大の使命だ」と言ったことを記憶している。

私は最近 時々リベラルということを思う。リベラルであるということは特定の教条主義的な思想、宗教、組織、そして自らの欲望からもしばし離れて自由に思考できる利点を持ってはいまいか。そして、その自由さというのは過去のものを簡単に全部否定することではないのではなかろうか。全部否定というのはそこに自由な思考というよりは一種の嫌悪感や偏見の結果として出てくるもので自由な思考がストップした状態ではなかろうか。

我々は人類が築いた過去の伝統を無視して、新しい価値観を築くことなどいかなる天才といえども出来ないことを知るべきである。人間でも良い人の中にも悪があったり、嫌な奴と言われる人にも良い点があったりするのが人間であるという見方は近代文学の正しい人間観である。

そこで、私はリベラルな思考ということが現代の日本を価値観という点で救うのではないかと考えている。

忠臣蔵が今もって、何故 日本人に人気があり、人の胸をうつのか。あそこには武士の「礼節」があったからではないか。その時代を超えた「誠」があったからこそ、今もって日本人の心をとらえるのではなかろうか。儒教道徳とか封建制というレッテルを貼って、忠臣蔵をたわいない娯楽作品と見てしまうのは短絡的で、やはり四十七士の「礼節」のある生き方の中に何か大切なものがあって、我々現代人にも訴えてくるのではないだろうか。

マルクス主義の崩壊ということが世間で言われて久しいが、あの思想は全部否定するほど単純なものではないのではなかろうか。確かに、ソ連経済の末期はひどかった。東ドイツの密告社会は驚くべきひどさであった。ルーマニアの大統領は堕落して、貧困な国民の前で自分達だけは王侯並みの贅沢をして、国民から見はなされ革命が起き、銃殺刑にされた。この様に、現実の社会主義はその看板のかかげる理想主義とは違って、惨たんたるものであつた。しかし、マルクスが活躍して以来、この思想の優れたところに世界中の多くの人が魅了されたことも事実なのである。資本主義も初期の時代の労働者の悲惨な状態から{例えば日本では女工哀史。イギリスでは十才の子供ですら炭坑で働かされ発育が止まったといわれる} 今のアメリカの様に豊かで労働者の福祉さえ考える社会に進んでいるのは社会主義と資本主義の競争があったという事実の中で改善されてきたのである。

もし、マルクス主義がかっての様に自己の思想に酔い、その哲学の完璧性を誇るならば、あの「雨」という映画の頑固な宣教師デヴィドソンと同じではないかと言われても当然であろう。そして、あの映画の最後では、雨の音にまじる太鼓の音と共に、宣教師ディヴイドソンは自ら破滅した。その様に、教条主義的で他の人の考えの良さを認めないものはやがて滅びるというのが人生や社会の真実ではなかろうか。

映画「雨」から、話が飛躍したが、以前の様にあまり映画のストリーについて書くことはここではあえてしなかった。映画の楽しみはやはり自分で見ることであると思うからだ。ここでは私がこの映画から刺激されて考えたことをあえて飛躍があってもという気持ちで書いた。

私は今、どちらかというと日本の伝統にある「禅」に強烈に引かれている。松尾芭蕉に影響を与えたと言われる老壮の思想にも引かれる。キリストの言葉にも強く引かれるが、教会に行こうとは思わない。

西欧の優れた哲学者の言葉にも引かれる。たとえばイギリスの哲学者ヴイトゲンシュタインの「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」には感銘を深くするし、「トルストイと新約聖書マタイ伝こそ最良の本である」という言葉は面白いと思う。ニーチエの「存在は永遠に回転する」という言葉には強く引かれし、永劫回帰の思想は面白いと思うが、超人思想よりは仏教の無我の考えの方が優れていると思う。

「禅」には先程 言った「リベラル」ということと土俵を同じくするものがある。

枠や偏見や習慣などに縛られないで自由になるものが「禅」にはあるような気がする。過去の思想などの特定のものに陶酔し、全部肯定するのは危険であるし、全部否定は間違いであると思われる。リベラルな思考の中では伝統文化の良い所はきちんと学び、悪いところは否定する。そうしてこそ、前進するのではなかろうか。過去に間違いがあったからと言って、感情的に全部 否定していくことを続ければ新しい優れた独創的な価値観は永久に見つからないのではなかろうか。

もしも、全部否定しなければならないものが人類にあるとすればナチスの考えと独裁政治と軍国主義など少数に限られるのではないか。これらの思想や行動が全部否定されねばならないのはそれが明らかに人類を破滅に追いやることが歴史的に証明されているし、「リベラル」な思考を否定するからである。

 

私は映画「雨」の二人の主人公の様に、両極端は好まない。どちらも、何か大切なものを見失っている。この映画の凄さはそういう人間の陥りやすい落とし穴を芸術という形で結晶させていることだ。

  音風祐介

 karonv@hi-ho.ne.jp