「太陽と月に背いて」を鑑賞して

「スタッフ 監督 アニエスカ・ホランド

脚本 クリストフアー・ハンプトン

キャスト」 アルチュール・ランボー レオナルド・ディカプリオ

ポール・ヴェルレーヌ* デヴィド・シュリース

 

ランボーの詩もヴェルレーヌの詩も青春時代に読み、いくつか暗唱したものもある。そんなわけで、この二人の関係を軸にした大詩人の愛と苦悩を描いた映画作品というイメージのDVDを発見した時、私は嬉しかった。

ただ、一気に見た読後感は 少々物足りない感じがした。二人の詩人の生きた時代背景、詩人の性格などを忘れていた私は どうも二人の奇人が画面に登場しているという印象が強かったからだ。確かに、日常性から離れた突飛な行動をするという意味での物語性には興味を感じた。これだけの名声のある大詩人にこんな奇人の様な行動が沢山あったということは面白くもあるのだが。

そういう面から見れば、歴史に名を残した芸術家の中には奇人も多いらしい。そういうことを専門に研究する学問もあるようだし、私も以前そんな本を読んだ覚えがある。

しかし、あの映画は二人の奇人ぶりを描写するのが目的のようには思えない。やはり、何らかの形で、詩人の偉大さを伝えようという意図はあるに違いないと想像するのだが、それが映画では伝わってこない。

詩人の偉大さは詩にある。彼等の奇癖で評価されるのではない。詩が優れ、後世に大きな影響を与えたから、二人は凄い詩人なのだ。

現在はコンピューター・グラフィックばかりでなく、様々の撮影技術が発達していることは映像技術の知識がない私にも分かる。

ならば、詩人のいくつかの優れた詩を映像に転換して、それを映画の中に上手におさめて、詩の素晴らしさを見る側に伝える工夫があっても良いのではないか。

勿論、詩を真実に味わうにはフランス語で読めれば、それが一番 良い。その意味で翻訳でランボーの詩を味わうことはかなりの冒険と思われる。日本語に翻訳してランボーの詩を味わうよりは映像化した方がよりランボーに近づける気がする。

 

たとえば、多くの人が知っていると思われる詩か和歌を例にあげてみよう。

石川啄木の「やわらかに柳あおめる北上の岸辺目に見ゆ、泣けとごとくに」

を中学校か高校の国語の参考書にある様な訳で読んだ時のことを考えてみよう。

訳で、意味は分かる。しかし、それでは五・七・五・七・七のリズムからくる

和歌のいのちが消えてしまう。あおめるという言葉の美しさも消えてしまう。たとえて言えば翻訳で詩を読むというのは 骨だけ見るようなものだ。

ランボーのフランス語の詩を日本語に翻訳して読むというのはやはり、その点で骨だけ見ることになる。ランボーの詩のいのちが殺されてしまうと考えられるのだ。

骨だけでも見たいという読者には それは人それぞれの趣味だからご自由にとしかいう他ないだろう。{ 骨という言葉で、私が翻訳者のご努力を高く評価していることをお忘れないようにお願いします }

ただ、ここでは映画を論じているので、その視点で映像の凄さを考え、映像技術を上手に使えば 翻訳不可能なランボーの詩のいのちを伝える方法があるのではないかと問題提起しているわけだ。

その点で、この映画はこの二人の大詩人の詩の素晴らしさの一つすら伝えていない。だから、最初に言った様に、彼等二人の奇人ぶりだけが目立ってしまうのだ。

詩人として高名だから、彼等の奇人ぶりに寛容であったり、翻訳でも分かったような顔をするのはその人の勝手であるが、そうした言動こそランボーの「地獄の季節」で嫌われたものではないか。ランボーは徹底してこの世のブランドを嫌った。権力から金銭、名誉に至るまで、それを追求する人間の愚かさを徹底して詩の中で攻撃した。そして、そのあとに、見つかったのは「何が見つかった? 永遠が。海ととけあう太陽が」なのではなかろうか。

これは東洋の禅に通ずる精紳では ないだろうか。

さて、私自身はフランス語は分からない。大学の第二外国語がドイツ語で、フランス語はフランスに行く前にほんの少し独学した程度だから、ランボーの詩など読めるわけがない。しかたないので、映画を見終わった後、私は骨だけのランボーの詩を読むことになった。

ただ、私は翻訳詩はすべて骨だけだと思っているわけではない。例えば、この映画のもう一人の主人公ヴェルレーヌなど私の青年時代に上田敏の名訳でいくつか暗唱したものだ。

今でも「秋の日のヴイオロンのためいきの身にしみてひたぶるにうらがなし、鐘の音に胸ふたぎ色かえて涙ぐむ過ぎし日の思い出や、げにわれはうらぶれてここかしこさだめなく飛びちらう落ち葉かな」と覚えていて、これは日本語で翻訳しても名詞だと思う。

リルケやトラクールの詩などには翻訳されてもいいものがある。これは訳者の技量の問題以前に、翻訳可能の詩と翻訳不可能の詩があるのだと考えるのだが妥当だと私は思っている。

その点、ランボーは翻訳不可能なのだ。映像なら、詩文と画像をミックスさせて何かランボーの詩のいのちみたいなものを伝えられるような気がする。

 

ランボーの詩のいのちは何か。これは骨から推量するしか方法が私の場合ない。

先程も触れたように、この世の一切の虚飾をはぎとり、裸の無一物の人間になることであると思う。その時に、この宇宙の真実が見えてくる。これはランボーに限らない。古今東西の精神的な巨人がみなやったことだ。ランボーの特徴はそれを詩文にしたことだ。

どちらにしても、あの若さでその精紳の深みに達して、それを優れた詩文にしたとあらばそれは奇跡と言わねばなるまい。

 

どちらにしても、二人の生きた時代背景や彼等の生き方に興味を持つ人には、がぜん面白い映画かと思われる。ナポレオン三世とビスマルクの戦争。そして、皇帝は捕虜になる。そのあとに、パリ・コンミューンとその崩壊。

そうした時代背景に、常識的な紳士とは違う激しい奇人的な行動をとる男の友情と葛藤に興味を持たれる方はぜひご覧下さい。

音風祐介

karonv@hi-ho.ne.jp