舟遊び

私は春の日差しの降りかかる舟の上にいた。機関室の中には野球帽をかぶった大男の船長がパイプを口にくわえながら、悠然とエンジンのそばに座り、ハンドルを操作している。紀美子は パレットへ絵具をなすりつけ出した。舟はまるで馬車にのつているみたいに、ゆったりと動く。私は 時々 船底に置いてある黒い革バッグの上にある「生命とは何か」という本の方に手をやり本をパラパラとめくることもあった。私はいつもこの虎の写真が表紙になっている本を大切にもち歩く習慣があった。

ふと、蝶が船の上に止まった。美しい蝶だ。金色の素晴らしい羽をゆっくりと動かしていた。私は飲みかけの紅茶を緑のビニ−ルの敷いてある船底に置いた。私はふと本の中のDNAの長い鎖 の絵が思い浮かんだ。 A,T,G,Cの塩基が暗号の様に階段状に並び、二重らせんにつながっている。私の想像上ではそれぞれの塩基には色がついていた。Aは紫色だつたかな、 Tは緑色だったかな、Gは銀色だったかな、そして、 Cは美しい金色だったかなという思いが、川の青色を眺めながら湧いてきた。

私は金色から虎を連想し、三年前に出張でインドに行ったことをふと思い出した。仕事の帰り、ちょつと広々としたインドの黄色い砂浜を訪れた。そこへ虎が出てくる。それで私はその黄色い縞模様、精悍な筋肉、なにものも恐れぬ逞しく美しいダイヤモンドの様な瞳、そして鮮血のような舌、氷のような牙、これほどの美しくも逞しい動物がこの地上に存在するとはそれもあのDNAによってつくられるとはいつたいDNAとは何か神秘な意思でもあるのか、私はためいきをついた。私と運転手は車の中でひっそりと見守った。そして、ゆっくり移動し 三匹の虎がたわむれながら波打ち際を歩いて行くのを眺めた。その時、遠くで稲光がした。それから、稲光はある間隔を置きながら光り、虎達の注意もひいたようだ。しばらくすると、空に黒雲が湧き、稲光と雷の来襲と共に夜のように暗くなった。やがて、稲光はあたりを一瞬 光に満ちた広間の様に明るくする。その中に三匹の虎が悠然と歩いていた。

私はそうした追憶から我に帰り、紀美子に呼びかけられているのに気がついた。

私ははっとして彼女の微笑を見て、自分が舟下りの最中にあることを確認した。

あまりにも気持ちの良い春の陽光が何もかも忘れて忘我に近い状態になっていたのだ。

「君の絵は完成したかい」と私は姿勢を立て直して言った。

彼女は首を振った。「あたし、昔のことを思い出していたの」

「昔つて、君はまだ若いんだぜ」

「子供の頃、父に連れられてアフリカに行ったことがあるの。その時の野性の象の大群のことを思い出していたの。野性の象が池のところで水浴びしていたわ。水がたつぷりあったせいか、他の動物達と平和共存していました」

舟が殆どとまった。アカシアのみごとな並木が両岸に続いていた。

「森林公園です。沢山 鳥がいますよ」と船頭は機関室の窓から大きな声を出した。

確かに今まで気づかなかったのが不思議なくらいで、あちこちから心地よい鳥の幾種類の声がまるで室内楽のように、自然の音楽をかなでていた。彼女の髪は陸に向かって吹く春の微風にひらひらしていた。この女性そのものを理解するという論理を科学は持っていない。人間は一個の分割できない宇宙なのだ。この宇宙そのものが生命なのだ。鳥のさえずり、アカシアの並木、川の流れ、春の青空そうした全ての風景を一つにするこの人間という宇宙こそが生命そのものなので、生命は分割しては理解できない。せいぜい、そのあまりにも複雑な組織に驚嘆するくらいのものだろう。

私は 紅茶を飲んだ。

舟は又 動き出した。アカシアの並木のベンチに腰をおろしてヴァイオリンを引き始めた女がいた。何か物悲しい響きだった。

「このまま 営業課長の職を辞して 田舎に帰りたい気持ちだ。そうすれば、時々 こうして川くだりを楽しめる」と私は彼女になにげなく言った。

私の田舎はこの川からさほど遠くない大きな平野の中の中規模の牧場だつた。

彼女は又 絵の方に腰を下ろし、あたりの風景をぼんやり眺めているようだつた。やがて、筆をとり、樹木の緑をぬった。

やがて、橋が見えた。橋の下を舟は一気に下った。

ふと、気づくと向うの岸の方に人が大勢 出ている。舟が徐々に近づいていくと、どこかで見たような顔立ちがいくつも見えた。私の村の人達だ。父も母も弟もいる。

舟がそちらに近づいていくと、彼等は万歳と声をあげた。

私は夢から覚めたように自分がここに新婚旅行として来ていることを思い出した。私は生命とは何かという本を横目で見た。あの本が私に色々な空想をかなでさせ、すっかり、父や母が来るかもしれないということを忘れていたのだ。 { 了 }

音風祐介

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