ニノの空
キャスト
パコ.........................セルジ・ロペスニノ
..........................サッシャ・ブルドマリネット
...............エリザベート・ヴイタリナタリ
......................マリー・マテロンスタッフ
監督・脚本...............マニュエル・ポワリエ共同脚本
...................ジャン=フランソワ・ゴイエ音楽
........................ベルナルド・サンドヴァル面白い映画だと思う。ただ、最初から最後まで次ぎはどうなるかという様なアクション的な興味で見る者を引っ張っていくという感じではなく、旅のその場その場の行く先での心あたたまる人間愛の短編ドラマを立ち止まって味わって行くという感じがする。
自称風来坊のイタリア産ロシア人のニノという小柄な男が自分は哲学を持っていると強調するあたりが楽しい。おそらく、この短編をいくつもつなぎあわせた旅の物語り全編に流れているのがニノの哲学であり、映画の哲学なのだろう。
ニノは愛を求めて、旅する人である。職業があるわけでなく、金もあるわけでなく、家もなく、外見から見る限り、そんなに格好よくない。それなのに、彼は人から愛される。私はニノを見て、チャプリンを思い出し、日本の寅さんを懐かしい気持ちで思い出した。後者の二人の様に、ユーモアがあるわけでないのにニノは愛される。いや、ニノは愛するのだ。それでも、源氏物語の光源氏のように激しく愛するというのではなく、愛を楽しんでいる。人生を楽しんでいるという感じがする。彼の旅には遊びがある様な気がする。彼の愛にもどこかに遊びがあると言うと、誤解される恐れがある、遊びでも誠実な遊び、まじめで真剣な遊びがあってもおかしくない、そういう遊びだ。今やゲーム時代。ゲームも遊び。ゲームにも芸術にせまるもの、いいかげんなものとバライアテイーに富んでいる筈。とすればニノは誠実に愛しようとする。ただ、彼の愛は深刻にはならない。これはニノの性格であり、哲学なのかもしれない。
この旅の相棒のパコという男も面白い。セールスマンのスペイン人だが、ヒッチハイク中のニノを車に乗せ、ニノに車を盗まれるへまをしながらも、ニノをつかまえた所で彼と意気投合して、会社を首になったところで二人で仲良く旅に出る。映画の最初の場面で、私などはパコの車を盗むニノはけしからん男だ、そんな奴と親しくなるパコはどんな奴なんだと思ってしまうが、パコも性格はとてもおおらかで気はやさしくいい奴である。やっぱり大陸的なんだろうか。今の日本ではやはり、こんな旅は考えられないのではないだろうか。
映画は楽しむものだ。この二人の性格のおおらかさとそれを受け入れる文化を楽しもう。この二人は誰とも親しくなり、見知らぬ人であっても声をかけ、人を外見で差別しないで誠実ささえあれば心が通じ合えると信じ、すぐ見知らぬ人と親しくなれる、そして楽しむ、そうした人格が無一物の彼らと溶け合っている。
私は以前
ヨーロッパを旅したことを思い出した。フランスは気候がいい。リヨンに行った時など、真夏でも夏の背広を着て一日歩いても汗一つかくことなく快適だ。そして青空からさんさんと降り注ぐ太陽からの光の何と美しい事! そうしたフランスの風景の素晴らしさをこの映画で楽しむのも良いと思う。読者には唐突の様に聞こえるかもしれないが、私はこの映画について考えている時に、旧約聖書の中にある「伝道の書」を思い出した。欧米人なら、日本人が方丈記を知っているように、知っているであろうと思われる聖書の中の有名な文である。下記に「伝道の書」に対する私のコメントと「伝道の書」の本文の内の一部分を参考のために引用しておきたい。
音風祐介
karonv@hi-ho.ne.jp
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参考 > 「伝道の書」について――――実際、この映画をご覧になって「伝道の書」と結び付けるのは飛躍と考える向きもあるかもしれない。ニノは自分には哲学があるというが、どんな哲学か、はっきりしたことは言ってないのだし、キリスト教の話しもまるで出てこないのだから。ただニノが愛を人生の最高の価値あるものと位置づけていることは確かだ。「空しい」と嘆くエルサレムの王様の詩文「伝道の書」はただ「空しい」と言っているだけなのだろうか。この世の権力・富そうした一般的に人が欲望するものの空しさを王者になった経験から言っているのであつて、人生の本当の価値は別なところにあるのだと方向づけしているのではないか。全てを神の愛にゆだねるというのが、「伝道の書」の結論とすれば、案外 神という言葉を使わないニノの哲学の地下水にはそんな伝統が流れているような気がしてならない。
下記の文は以前 書いたもので、この映画のために書いたものではない。
アメリカの文豪ヘミングウエイの小説
「日は又 昇る」を読んだ方も多いかと思う。映画にもなっています。それで、あの小説の最初についている文句に気がつかれたでしょうか。下記に紹介する旧約聖書にある「伝道の書」の最初の部分が「日は又昇る」の巻頭に引用されているのです。それに、この小説の題名そのものが、ここをヒントにしてつけたであろうことは充分推測されることです。私がここで指摘したいことは欧米の作家に聖書が多大な影響を与えているということです。その典型的な例がドストエフスキーでしょう。哲学者ニーチェにしても「神は死んだ」といい、ニヒリズムの到来を予言し、それを克服するために「永劫回帰の思想」を提示したと思われますが、あの特異な思想にもこの伝道の書の影響はあると私は考えます。ニーチェの場合、とかく仏教の影響がいわれ私も最初は輪廻の思想の焼き直しがあの永劫回帰と思っていましたけれど、この伝道の書を発見してから、彼がドイツ人であり、牧師の子であったことなどを思うと、この伝道の書もニーチェにとって重要なのではあるまいかと思っています。
さて、この伝道の書は
とかく日本人によって誤解されるようです。「いっさいは空」であるというのですから、ニヒリズムに近い考えと受け取られることもあるかもしれませんが、旧約聖書の全編を貫いているのは 神の支配なのだと思います。フォイエルバッハのいう様に、神が人間の内面にある永遠的なものを観念化した人間の創造物であるというならば神はニーチェのいう様に否定されるでしょう。しかし、人間の中には永遠なるものがあるということを発見したのは東洋人でした。僕はイエス・キリストがこの東洋人の発見した永遠なるものをきちんと見詰めていたと思われるのです。何故なら、イエスはこう言っています。「神はここにあり、かしこにあるというものにあらず、汝等の内にあり」と言っているのですから。
伝道の書{
旧約聖書 }第1章一ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。
伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。
日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。
世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。
日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。
風は南に吹き、また転じで、北に向かい、
めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。
川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。
川はその出てきた所にまた帰って行く。
すべての事は人をうみ疲れさせる、
人はこれを言いつくすことができない。
目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。
先にあったことは、また後にもある、先になされた事は
また後にもなされる。日の下には新しいものはない。
「見よ。これは新しいものだ」と言われるものがあるか、
それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。
前の者のことは覚えられることがない、また、きたるべき後の者のことも、後に起る者はこれを覚えることがない。
伝道者であるわたしはエルサレムで、イスラェルの
王であった。わたしは心をつくし、知恵を用いて、天が下に行われるすべでのことを尋ね、また調べた。これは神が、人の子らに与えて、ほねおらせられる苦しい仕事である。
わたしは日の下で人が行うすべでのわざを見たが、みな空であっで風を捕えるようである。曲ったものは、まっすぐにすることができない、
欠けたものは数えることができない。
わたしは心の中に語って言った、「わたしは、わたしより先に
エルサレムを治めたすべての者にまさって、多くの知恵を得た。
わたしの心は知恵と知識を多く得た」。
わたしは心をつくして知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、これもまた風を捕えるようなものであると悟った。
それは知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増すからである。
第二章
わたしは自分の心に言った、「さあ、快楽をもって、おまえを試みよう。おまえは愉快に過ごすがよい」と。しかし、これもまた空であった。わたしは笑いについて言った、「これは狂気である」と。また快楽について言った、「これは何をするのか」と。
わたしの心は知恵をもってわたしを導いているが、わたしは
酒をもって自分の肉体を元気づけようと試みた。
また、人の子は天が下でその短い一生の間、どんな事をしたら
良いかを、見きわめるまでは、愚かな事をしようと試みた。
わたしは大きな事業をした。わたしは自分のために家を建て、
ぶどう畑を設け、園と庭をつくり、またすべで実のなる木をそこに植え、池をつくって、木のおい茂る林に、そこから水を注がせた。
わたしは男女の奴隷を買った。またわたしの家で生れた奴隷を持っていた。わたしはまた、わたしより先にエルナレムにいた だれよりも多くの牛や羊の財産を持っていた。わたしはまた銀と金を集め、王たちと国々の財宝を集めた。
またわたしは歌う男、歌う女を得た。
また人の子の楽しみとするそばめを多く得た。
こうして、わたしは大いなる者となり、わたしより
先にエルサレムにいたすべての者よりも、大いなる者と
なった。わたしの知恵もまた、わたしを離れなかった。
なんでもわたしの目の好むものは遠慮せず、わたしの心の喜ぶものは拒まなかった。わたしの心がわたしのすべての労苦によって、快楽を得たからである。
そしてこれはわたしのすべての労苦によっで得た報いであった。
そこで、わたしはわが手のなじたすべての事、およびそれをなすに要した労苦を顧みたとき、見よ、皆、空であって、風を捕えるようなものであった。
日の下には益となるものはないのである。
わたしはまた、身をめぐらして、知恵と、狂気と、愚痴とを見た。
そもそも、王の後に来る人は何をなし得ようか。
すでに彼がなした事にすぎないのだ。光が暗きにまさるように、
知恵が愚痴にまさるのを、わたしは見た。知者の目は、その頭にある。しかし愚者は暗やみを歩む。けれどもわたしはなお同一の運命が彼らのすべてに臨むことを知っている。わたしは心に言った、
「愚者に臨む事はわたしにも臨むのだ。それでどうして
わたしは賢いことがあろう」。
わたしはまた心に言った。「これもまた空である」と。
そもそも、知者も愚者も同様に長く覚えられるものではない。
きたるべき日には皆忘れられてしまうのである。
知者が愚者と同じように死ぬのは、どうしたことであろう。
そこで、わたしは生きることをいとった。
日の下に行われるわざは、わたしに悪しく見えたからである。
皆空であって、風を捕えるようである。
わたしは日の下で労したすべての労苦を憎んだ。わたしの後に来る人にこれを残さなければならないからである。
そして、その人が知者であるか、または愚者であるかは、だれが知り得よう。そうであるのに、その人が日の下でわたしが労し、かつ知恵を働かしてなしたすべての労苦をつかさどることになるのだ。これもまた空である。
それでわたしはふり返ってみて、日の下でわたしが労したすべての労苦について、望みを失った。
今ここに人があって、知恵と知識と才能をもって労しても、これがために労しない人に、すべてを残して、その所有とさせなければならないのだ。
これもまた空であって、大いに悪い。そもそも、人は日の下で労するすべでの労苦と、その心づかいによってなんの得るところがあるか。
そのすべての日はただ憂いのみであって、そのわざは苦しく、その心は夜の間も体まることがない。これもまた空である。
人は食い飲みし、その労苦によっで得たもので心を楽しませるより良い事はない。これもまた神の手から出ることを、わたしは見た。
だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。
神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。
しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。
これもまた空であって、風を捕えるようである。
第三章
天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
生るるに時があり、死ぬるに時があり
植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり
殺すに時があり、いやすに時があり、
こわすに時があり、建てるに時があり、
泣くに時があり、笑うに時があり、
悲しむに時があり、踊るに時があり、
石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、
抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
捜すに時があり、失うに時があり、
保つに時があり、捨てるに時があり、
裂くに時があり、縫うに時があり、
黙るに時があり、語るに時があり、
愛するに時があり、憎むに時があり、
戦うに時があり、和らぐに時がある。
働く者はその労することにより、なんの益を得るか。
わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。
神のなされることは皆その時にかなって美しい。
神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。
それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。わたしは知っている。
人にはその生きながらえている間、楽じく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によっで楽しみを得ることは神の賜物である。わたしは知っている。すべで神がなさる事は永遠に変ることがなく、
これに加えることも、これから取ることもできない。神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである。
今あるものは、すでにあったものである。後にあるものも、すでにあったものである。
神は追いやられたものを尋ね求められる。わたしはまた、日の下を見たが、さばきを行う所にも不正があり、公義を行う所にも不正がある。
わたしは心に言った、「神は正しい者と悪い者とをさばかれる。
神はすべての事と、すべてのわざに、時を定められたからである」と。わたしはまた、人の子らについて心に言った、「神は彼らをためして、彼らに自分たちが獣にすぎないことを悟らせられるのである」と。人の子らに臨むところは獣にも臨むからである。
すなわち一様に彼らに臨み、これの死ぬように、彼も死ぬのである。
彼らはみな同様の息をもっている。人は獣にまさるところがない。
すべてのものは空だからである。みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。
だれが知るか、人の子らの霊は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを。
それで、わたしは見た。人はその働きによって楽しむにこした事はない。これが彼の分だからである。だれが彼を
つれていって、その後の、どうなるかを見させることができようか。第四章
わたしはまた、日の下に行なわれるすべてのしえたげを見た。
見よ、しえたげられる者の涙を。
彼らを慰める者はない。しえたげる者の手には権力がある。
しかし彼らを慰める者はいない。それで、わたしはなお生きている生存者よりも、すでに死んだ死者を、さいわいな者と思った。しかし、この両者よりもさいわいな
のは、まだ生まれない者で、日の下に行なわれる悪しきわざを見ない者である。
また。わたしはすべての労苦と、すべての巧みなわざを見たが、これは人が互いにねたみあってなすものである。これもまた空であって、風を捕らえるようである。
<つづく>