* 般若の町{Otokaze'poem}

        

琥珀色の麦茶の湖面に
 突然 幻の様に 町が現れる
そして、祭りの太鼓や笛の音、それに賑やかな人々の声がしばらく続く

そして、再び静寂が訪れ、
いつの間に 町が消えている
そして又、薔薇の花が咲く
 花瓶の小さな口から、かすみの様な霧が現れ、
深い霧は薔薇を包む
霧が晴れると、薔薇は町と変化する
そこには人々の笑い、泣き ざわめく音が
森の梢のささやきの様に聞こえる
 私は故郷に帰ってきた人の様に
この町の部屋で呆然と時計の音を聞く
音は波のごとく、カチッといって消え、又 カチッという 
そういう風に音が聞こえる時は静寂そのものだ。
 その時の世界は 何かをほしがっている時の自分とは
違う静かな不思議な世界だ。
テーブルの上のあらゆる物は様々な色をなして、
まるで沈黙している生物の様だ。
 窓の外で、カラスが鳴く
全てが変化し、色彩に富み、音に満ちて、森羅万象をなしているのに、
私の感じるのは一つの音、一つの色、一つの大きな無だ。
それは一つの生き物に違いない。
 その生き物が星となり、惑星となり、山となり、川となり、私となる。
テーブルには猫がいる。
 猫がにゃあっという
「色即是空、空即是色」と私の耳に聞こえる
 幻聴だろうか
夢なのか、この世界は。
私は生きている。
だから、星も山も川も町も何もかも生きている
昨夜、父が死んだ。
 時計の音が消えた様に
しかし、又どこかでカチッとならし
 新しい生命の誕生があるのかもしれない
この地球のパリかニューヨーク。それとも遠い銀河の
惑星の町に泣き叫ぶ赤子が誕生するかもしれぬ
その時、その惑星は二つの太陽が昇り、
 三つの月が輝いているかもしれぬ
どんな惑星も地球のどんな砂漠も熱帯雨林の森も
虎の様に美しい一匹の生き物の手の平の上にある
 街角で笑う人も、泣く人もわが手に。

一輪の野の百合の花がまばゆい朝日に照らされて
黄金の立て札の様に般若の街角に咲いている

                          

              坐禅と超空間

    今ここで座禅をしている時というのは今の科学時代に生きる人にとって無味乾燥なものにうつるということは充分 考えられる。しかし はたしてそうであろうか。

我々人間が外界を見て行動する時、外界というのは様々な物質が存在している三次元の空間という認識がある様な感じがある。それがニュートンのいう絶対空間という風に整理されてしまつたあとでは、人の感覚はそうした絶対空間という様な観念にしぱられて身動きできなくなってしまったようである。アインシュタインによって、時空という概念が出てきた時に、人々は驚いたが二十一世紀になっても人はニュートン的な感覚を手放そうとしないというのが真相ではなかろうか。

そうした感覚で座禅を見ると、まさに座禅はせいぜい健康法として良いという程度のものに思われてしまう。しかし、もしそうであるならば禅宗の歴史の中で優れた僧が座禅によって悟ったというのは何かの錯覚だったと言われてもしかたあるまい。

しかし、真相は我々の日常の感覚の方が自然を正しく把握していないのである。その卑近な例は大地は動くことはないという日常の感覚に反して、地球は太陽のまわりを一年かけてめぐり、一日の中では自転しているというのは今では小学生でも知っている事実である。

とすると、昔の優れた禅僧は座禅によって、我々現代人の感覚以上の何かを感じ取っていたということは充分 考えられる。最近、私が思うには人間が座っているその空間に対する洞察が禅僧の場合はことのほか深いのではないかということだ。

勿論、人間は容器の中に入れられた物というように、空間に存在するのではない。

人間と空間は一体なのだが、その空間そのものは限りなく深いのではないか。我々は生きていく上では三次元の空間と時間の観念さえあれば充分であるが、それではこの空間の真相に触れたことにはならない。空間はもしかしたら十次元とか二十次元といようなものであるかもしれない。そして、空間はさらに深く、その物質としての空間の底には生命といわれる様な物質ではない世界があって、さらに幾層にもなっているのかもしれない。

勿論、これは私の空想が多分に含まれているが、現代物理学の最先端や仏教の教典などに

何かの機会に触れた人は単なる想像ではないことにお気づきになるかと思う。

私の空想が真実に近いということがもしあるとすれば、人は座禅をすることにより、あのニュートン的な空間感覚から脱出して、深い深い空間それも自己の心身と一体になった神秘の空間の中に足を踏み入れているのではないか。

単純化して言えば我々の生きる世界は物質の世界と永遠のいのちの世界があつて、その二つの世界はコインの裏表の様に一つになっているとも思えるし、二つの世界は浸透しあって見分けがつかないようになっているとも言える。それなのに現代人の傾向として、物質の世界しか、認めず、常に物を対象化し、分析し、数学的なモデルをつくり、それが実験と符号した時に世界の真相を科学的に理解したとして、それ以外の世界は幻想とみる。

しかし、人が座禅をして、もう一つの永遠の生命の世界に触れた時に、もしかしたら井戸のそばで女と話しているキリストの様に「この井戸の水を飲む者は又 すぐに渇くが、されどわが水を飲む者はとこしえに渇くことなし」とつぶやくのかもしれない。

  音風祐介

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