ヨ−ロッパの旅愁 音風祐介{ Otokaze Yusuke } 作( 長編小説の抜粋です )

 園原がヨーロッパに旅たったのは夢美市を訪問してから半年後の秋である。十月初旬の爽やかな日だった。飛行機に乗るのは嫌いだったがともかくも外国に出ることにより、自分の気持ちを違った方向に向けてみたいという気持ちが働いていた。原稿に最後の推敲の手を加えるとそれを東京の出版社に送ってから一週間後に出発した。Jet機の中で思うことは葉子のことばかりだった。ことに月夜の晩の会話の情景がまるでハイネの詩句の様に頭に浮かんでくるのだった。彼女に対する思いを断ち切れると考えて出てきたのに泉のごとく湧きでてくる美しい葉子の面影は彼を苦しませた。

  ローマに到着すると周囲の急激な変化に気持ちも紛れた。バチカンでルネサンスの芸術に宗教的な衝撃を受けた。ここではすべてがキリスト教一色になっていた。彼は西洋の深さが東洋の崇高な仏像の祈りと繋がっていると思った。ミケランジェロの到達した美と法華経の仏の賛歌は真理という深い海に船出する二そうの黄金の船に違いなかった。同時に彼は真理発見と実現のためには西と東が手を結ぶことが必要なのだと思い、空海などの説く仏への目覚めの中でこそ 理想社会が実現されるのだという確信を強めたのだった。

 

そしてフローレンスへ。町全体が芸術品だった。

 彼はそこで『文芸の町角』という文芸雑誌をつくるアイデアを心に浮べた。ビデオカメラを持って行ったので彼は花の聖母寺やドゥオーモ広場の魅力的な町角をとった。そしてこれを編集しなおして、公害のない芸術的な町を公害に満ちた日本の町と対比した形で映像を創造してみたりあるいは雑誌づくりに役立てようかと思った。その時 日本の夢美市を思いだした。IC工場の進出という話などあったがそれも今の所 食い止められ 目立つ公害もなく 大変 魅力的な町である。しかしこの夢美の町の魅力には何かが欠けていたのではないかという気が今はする。それは芸術ではないか。たしかに美術館も映画館もあり、鈴木電気のしょうしゃな建物もあったがフローレンスに比べると貧弱だ。

 自由な雰囲気の中で真理を知り、そこから芸術を創造する町こそ彼の理想の町だと思った。

 フローレンスの夕暮れ。西の空に茜色の雲が荘厳に棚引き、彼は町を歩きづくめた昼間の足の疲れを休めようと、広場にあるレストランに入った。客は店の半ばほど占めていたし、外に出してあるテーブルについている者も多かった。彼は外の木陰に席をとり、ワインと少々の食事を注文した。そして彼は昼間 見たアルノ川やミケランジェロ広場から見た町の風景それに数々の美術品に思いをはせていた。あまり沢山の絵を見たので少々混乱していた。彼はそれに整理をつけ、明日 丹念に見るものを頭の中でピックアップしていた。

 その時 若い女が二人、彼のテーブルに近付いてきた。そして背の高い方が英語で話かけてきた。彼女はほとんど日本人と変わらない顔をしていたが美しくはなかった。

「中国の方ですか?」

「いいえ、日本人です」

園原は外国に出た時、何回か中国人に間違えられたことがあるのでまたかと思った。彼女達はちょっとがっかりした様な顔をしたが背の低い方の女が言った。彼女は目が愛くるしく口元が苺の様に赤かった。                 

「あたし達、ル−マニアの留学生なのですけど」

園原はちょっと戸惑った。そう言えば資本主義の中で生活している様な女の子とは違ったものがある様な気がした。それが何であるかよく分からなかったが彼は好感を持った。 

「もしも最近のル−マニア情勢を知っていましたらぜひお話をお伺いしたいのですけど。あたし達テレビがないので情報が不足していますし、日本にはきっと沢山の情報が入っていると思うのですけど」                            

 園原は英語が流暢に喋れた。彼女達も園原と同じくらい上手だった。イタリア語の方が得意のようだったけれど園原が全然駄目なので三人とも英語で話を進めた。

「大統領の不正が暴かれて、そのあと民衆の大きな動きがありましたよね、その前後は情報が毎日の様に流れてきましたし、僕も注意してテレビなど見ていましたけれど最近の様子はあまり詳しくないのですがね」

園原はそれでも知っている限りの知識を彼女達の前に並べたてた。そしてそのあと、フローレンスの印象をしばらく語りあった。彼女達はルネサンスの美術を勉強しているだけあって美に対する感受性と見識は相当のものだった。

 二人とも目の澄んでいる所が素晴らしくまるで高校生の様なナイーブさを持っていると思った。中背の女の子は化粧をすればかなり美人になるのではないかと思われたが画学生らしく何の飾りもしていなかった。彼女達はフローレンスの郊外のアパートに下宿しているらしかった。

 園原と女達はこの広場で又会う約束をして別れた。

翌日も彼は夕方になるとそこのレストランで食事をしたが彼女達は来なかった。最初は彼女達にたいして期待しているわけではなかったが来ないとなると何かひどく寂しかった。二日目に彼女達は来た。その時はイタリア人の若い男を一人、連れてきた。

その中肉中背の目のきれいな男は英語があまり喋れないらしく、園原に紹介されてもあまり彼には話かけないで絶えず二人の女の方に向かってイタリア語で喋りまくっていた。

園原はワインに酔っ払いながら時々、中背の女の方に語りかけた。どちらかというと、背の高い方の女よりはこちらの方が馬が合う様な感じがしたからだ。しかし、背の高い女は二人が会話していると実に人なっこく話の仲間に入ろうとした。その時はイタリア人は絶えずタバコを吸っていた。

ただ背の高い女がル−マニア情勢に触れて「大統領の莫大な蓄財には驚きました。国民が極貧の生活をしているというのに」と言った時、男はブルーの目を輝かせて園原の方を向いた。

 そして何やらイタリア語でべらべら喋った。中背の女が微笑して気をきかして園原に通訳してくれた。

「唯物論に絶望したっていってますの。彼はマルクスを尊敬していたの。それだけに、若い時は理想に燃えていた大統領が長期政権であの様に堕落するとはショックだったって言ってますわ」                  

 その時、楽団が出てきて彼等の向う側の女神の彫刻がある所に陣取って演奏の準備を始めていた。その間、園原はル−マニア情勢について考えていた。やはり、いのちの思想がないからあんな風に権力を長く握っていると、人間が堕落するのではないのではないかと思った。民衆の生命はなにものにも替えがたい程大切であるということが真実として哲学の中に組みこまれていないからではないか、もしもそうだとするならば問題だし、唯物論の中にいのちの思想を吹き込む必要があると考えていた。

 いつの間に演奏が始まった。

「素敵ね」と背の高い女が言った。

「素晴らしいわ」と中背の女が言った。

「誰の音楽だい?」園原は彼女達を試験してみる様な気持ちで聞いてみた。

「ヴィヴァルディーの『調和の霊感』でしょう」と中背の女が言った。

「そう、『四季』の方が有名だけどこれも中々の傑作だ。中世の水の都ヴェニスの風景が目に浮かぶ様だ」と園原は言った。

「へえ、そうかしら」

「僕はヴィヴァルディーの明るい所が好きなんだ。中世のヴェニスが貿易で繁栄し、ビルの間の静寂に包まれた運河をゴンドラが行きかう所をどこからかこの音楽が泉のごとく流れてくるなんて想像することはとても楽しいね」

「ふうん、ロマンチックなのね。でもあたしはフローレンスの方が好きだわ」

「どうして?」

「たいして理由はないけど、ここにはルネサンスの香りがふんだんにあるからかしら」

「なるほどね」

 中背の女の胸には富士山の様な調和と美を誇る二つの丘が黄色いシャツの下に隠されていた。その日は二日前に会った時より彼女が薄着だったので園原は時々そこに目をやり、曲線の美しさに見ほれていた。

 そしてぼんやり、若い頃 郷里で見た恋人の京子の裸を思い出した。そのあと直ぐに彼女は交通事故で死んでしまった。彼女の思い出は強烈だったからその後 何年も彼の脳裏を支配した女は京子であって時の経過につれて彼女の影像が遠くなり、殆ど彼女を思い出すことが少なくなっていたがフローレンスの広場でありありと鮮明に思い出されたことが不思議だった。京子の身体は日本人らしくしなやかで少し黄色と赤が入り交じったような美しい肌だったと記憶している。

 春の夕暮れは美しかった。そして『調和の霊感』は彼の胸に染み渡った。その時、ふと黒いカバンの中に入れてきた法華経の文句を思い出した。

 『人々がこの世界を大火に焼かるると見る時でも、わが浄土は安穏にして神々と人間達にみち溢れるのだ』 どうしてこの文句が思い出されたのか彼にも分からなかった。ただヴィヴァルディーの音楽の源泉である『調和』と法華経の『浄土』がどこかで符合している様な気がしていた。バッグの中にはそれ以外に新約聖書や空海の本が何冊かあった。これらの宗教が啓示している真理の泉から、もしかしたらその様な素晴らしい音楽が流れ出てくるのかもしれないとふと思った。

「源氏物語、読んだことありますか?」と背の高い女が唐突にそう聞いた。彼女はジーンズのズボンにブルーのシャツを着ていた。胸は薄く乳房の面影はなかった。

 イタリア人の男は中背の女となにやら喋って笑っている。

「現代語訳で少し、読んだことがある」と園原は答えた。

「あら、日本人なのに全部読まないの?少しならあたしだって読んだわ」

「日本語で?」園原はちょっと意外という表情をして聞いた。

「勿論、英語よ」              

「おもしろかったかい」

「結構おもしろかったわ」

「共産国で育っても、貴族の生活に興味持てるのかい?」と園原は言った。

「優れた文化は時代や社会を越えて人の心の琴線に触れるものがあると思うわ。源氏の魅力は愛欲の葛藤だけではないのよね。自然描写の素晴らしさとか男と女の心理描写が凄いわね」と背の高い女がそう言った。

その時、イタリア人が彼女に何か話かけた。すると彼女は笑った。

「珍しい人」と彼女は英語で言った。園原は何が珍しいのかよく分からなかった。

「ビーナスの誕生がカンバスから飛び出たみたいね」と中背の女が言った。

よく見ると、イタリア人が雑誌を広げてその中のヌード写真について何か言っているらしかった。園原は昨日見たボッティチェリの二枚の絵を思い出した。貝から生まれたままの姿で立つ気品が印象的だったし、『春』という絵も豊かで官能的な肉体の美しさが目に焼き付いていた。その時、イタリア人が園原にもそれを見せた。

「人間は神の贈物なんですよ。それを粗末に扱うことは許されないです」と園原はそれを冗談とも真面目ともつかない気持ちでその様に言った。その写真はひどく官能的で刺激的なものだった。彼はよく見たいと思ったが抑制した。園原の言葉に中背の女が笑った。その笑いがあまり美しかったので園原は見とれていた。まるで箱に入ったダイヤモンドやルビーなどの宝石がテーブルの上に一度にちりばめられた様な笑いだと彼は思った。

「神様なんか貴方は信じるのですか? 今や、キリスト教は衰退して若者で神なんか信じている人は少なくなっているのに東洋人の貴方が信じているとしたら興味深いですわ」と中背の女が言った。

「僕の神様は美しいと思う所に現れてくるのです。貴方達の様な乙女の姿には神は好んで顔を見せます。夕日が美しければそこに神は現れるでしょうし、花や家具などの調度品にも現れます。僕達東洋人はこの神様のことを仏性といっているのです」

彼は手帳を取り出し、『仏性』と漢字で書いた。二人の女がそれを見た。イタリア人はそれを横目でちらりと見た。

 この作品は音風祐介が本にした長編小説の半ばころの文章の抜粋です。

長編小説そのものの題名は「永遠の街角」です。この小説は以前 出版して知人に配ったものですが、最近になってこの小説が日本の大きな出来事を二つ予見していたことが分かり、作者自身 驚いています。予見というとおおげさな感じもしますが、小説の中で今日の社会の流れを適確に浮き彫りにしているということは小説そのものが人間の営みの真実を描写しているのではないかと思い、もっと多くの方に読んでもらえればと公にしたしだいです。

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音風祐介{ Otokaze Yusuke }

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